1章 王弟殿下の婚約者

第1話 公爵家別邸での日常

 マリュアンゼ・アッセムは運動神経の凄ぶる良い、武術に長けた伯爵令嬢だ。今年成人し、十八歳になった。

 波打つ赤毛に柔らかな新緑の瞳。その色彩と血色の良い顔色からも、溌剌はつらつとした印象を受ける。


 しかし彼女の生きる世界が良しとされるのは、淑やかな淑女。

 つまりこの世界では彼女の長所は受け入れ難く、一歩間違えれば嘲笑の対象となる。


 更に三ヶ月程前にジェラシル・フォンズとの婚約が破棄された時、疵のついた令嬢としてマリュアンゼに蔑みの眼差しを向ける貴族は多かった。

 だが彼女は新たに高貴な男性と婚約を結ぶ事で、その評価を覆す。


 相手は王弟であり、公爵、更に騎士団団長の肩書きも持つ、フォリム・オリガンヌ。

 彼もまた婚約破棄をした身であったのだが、マリュアンゼとは違い、高貴な独身の紳士として社交界から歓迎されていた。


 世間といっても、その殆どが妙齢の令嬢や、彼女たちの親であったけれど。そして主な理由は彼の爵位や立場、優れた容姿による。

 焦茶の髪に深緑の瞳に凛々しい顔立ち。

 彼の深い色彩は威厳を際立たせ、その凛々しい体躯は遠目からでも目を引く。恵まれ羨まれる存在でも、彼の王弟という立場に取り巻く感情は、おもねりたいという願望が殆どだ。


 けれど彼はどこか近寄りがたく、孤高の雰囲気を持つ人で。多くの貴族たちが彼を取り巻けど近寄れないのが現状だった。


 その為マリュアンゼはそんな一部の貴族からは疎まれている。元々眉を顰めらる要素を持っていたので、必然的に彼女が皆が注目する婚約者を得た事による、やっかみも生まれた。


 つまり彼女は敵の多い令嬢となった。





『そう言えば、あなたは私に何も望まないな』


 いつもの調子で唐突な問いを投げかけるフォリムにマリュアンゼは首を傾げる。


『婚約破棄を望んでいますよ』


『そうではない』


 変わらぬ返事にフォリムはむっと顔を顰めた。


 実はマリュアンゼはフォリムの情事に巻き込まれる形で婚約者となった、貰い事故のような関係である。

 しかしこの話は国王にも知られる形となり、破棄が難しくなってしまった。

 そんな理由もあり、フォリムとの婚約破棄には難題を吹っかけられている。


 その条件は、フォリムに勝つ事。


 自身の身体能力を高く評価しているマリュアンゼには望むところであったのだが、フォリムは強かった。

 騎士団団長の肩書きは伊達では無い。……故に大人気ないと思う。

 しかもどうやら彼は、女性避けの為にマリュアンゼと婚約しているだけ。

 自分勝手で我儘な仮初かりそめの婚約者。

 それがマリュアンゼにとっての、フォリム・オリガンヌ公爵の印象である。


 誰の趣味なのか、可愛らしい別邸の花に囲まれた中庭で、マリュアンゼは今日もフォリムに挑んでいた。


『欲しい物とか、行きたい場所とか……普通女性は強請るものだろう』


 マリュアンゼの攻撃を何とも無しに躱しながらフォリムは問う。


『欲しい物は特にありませんが、行きたいところなら……そうですね。私に勝ったらお教えしますよ』


 にやりと笑うマリュアンゼにフォリムは、ぱちくりと目を見開いて、いつものように不遜な顔でマリュアンゼに向き合った。



 ────で、負けた。

 いつものように、だ。

 強気で行けば勝てるかもしれないなどと、どうやらただの夢想だった。地味に恥ずかしい。


 顎をしゃくって促すフォリムにマリュアンゼは観念して蚊の鳴くようで口にした。


「王立公園に行きたいです……森林浴とか、ピクニックとか乗馬が好きで……」


 意外そうに眉を上げるフォリムにマリュアンゼは口を尖らせそっぽを向く。

 どうせ子供じみているし、令嬢らしくない。


「なら行こう。いつがいい」


 けれど何の気無しに口にするフォリムのその科白せりふに、マリュアンゼは目を丸くして顔を跳ね上げた。


 すると目の前には柔らかそうなタオルが差し出されている。いつの間にやらフォリムが従者から受け取っており、その一枚をマリュアンゼに手渡してきた。


「あ、ありがとうございます」


 どちらに対するお礼なのかも分からずに、マリュアンゼはタオルに隠れるように顔を埋めた。


「構わない。いつも別邸で剣を振り回しているだけでは、つまらないだろう」


「いいえ!」


 マリュアンゼは急いで否定する。

 強いフォリムとの訓練は、楽しい。

 だけど……


 チラリとフォリムを見れば、従者のシモンズに飲み物の用意をするように言付けている。

 なんだかすっかり慣れてしまったこの光景。

 シモンズは何の感情も浮かべずにマリュアンゼを一瞥した後、さっさと背中を向けて行ってしまった。


 ふと思い出す。マリュアンゼは子供の頃、あの公園が大好きだった。

 木漏れ日の中で楽しむ森林浴。

 湖を見ながらのピクニック。

 馬を駆れる草原。


 けれど成長するにつれ、令嬢らしく振る舞うようにと窘められるようになり、マリュアンゼも自然と足が遠のくようになったのだ。


 元婚約者のジェラシルには、あの公園が好きだと話したら呆れられてしまった。


 ────伯爵夫人になるのなら、必要なのは社交であって子供や男の遊びに興じる事では無い────


 本来なら自制すべきと口にしなかった願望。けれど不思議とフォリムには恐れる事なく話してしまった。負けっぱなしだからだろうか。今更自分の汚点を一つ二つ見られたところで怖くも無い。だが……

 マリュアンゼは少しだけ躊躇ってから口にした。

 

「公爵様との訓練はとても楽しいです。王立公園にも、ご一緒したいです。ですが……そんなはしたない真似をする女と行動を共にするのは、公爵様の評判を貶める事にもなってしまいます」


 いいのだろうかと思ってしまう。

 公園を歩くだけなら婚約者の振りをしている自分たちだって違和感は無いだろう。でも、乗馬をしたいと言った。森林浴は楽しいし、湖を前にして食べるお弁当は美味しい。その全てをフォリムは叶えるつもりなのだろうか。

 顔の半分をタオルから出してマリュアンゼはフォリムの様子を窺う。


 そして、まだマリュアンゼを見ていたらしいフォリムと、ばちりと目が合ってしまい、何かを誤魔化すように口を開く。


「こ、公爵様は王立公園に行った事はありますか?」


「……たまに行くな。でも私が行くのは早朝ばかりだから、日中に行くのは本当に久しぶりだ」


「早朝?」


 首を捻るマリュアンゼにフォリムは歯を見せて笑った。


「誰もいないからな。朝の空気は清々しいし、良い気分転換になる」


 フォリムは案外良く笑う。

 傲慢で人を寄せ付けない。

 最初の印象はそんなところだったけれど、最近のフォリムのマリュアンゼへの態度は気安い。もしかしてマリュアンゼを弟子の一人に数えてくれているのかもしれない。彼は意外と世話焼きなところもあるし。


「わあ……」


 感嘆と共に自己を振り返る。

 マリュアンゼは朝が苦手だ。

 王立公園には割と足を運んでいた時に、フォリムに会った事が無いのはそんな理由だったのだろうか。


 (……もしあの頃会っていたら、今どんな関係だったのかしら)


 そんな事を考える自分に思わず首を捻る。

 

「馬に乗るなら用意させよう。一般開放されている奥には王族専用の庭があるから、そこまで行ってもいいな。私も久しぶりに行ってみたい」


 楽しそうに笑うフォリムにマリュアンゼも嬉しくなる。

 もし行けるなら、強請って連れて行って貰えていた頃以来となる。懐かしさと、何かが染み渡る様な感覚が胸を疼かせ、マリュアンゼは何かくすぐったい気持ちになって笑った。


 不思議に思う。

 マリュアンゼはこの関係を壊したくて別邸に通っていると言うのに、フォリムと共にいる事が楽しいと感じてしまっているのだから。


「ああ、けれど先に母の誕生祝いがあるんだった」


 そう言ってはフォリムは意味深な視線で振り返る。


「ついでに言うと、そろそろ先の事を考えておけ」


 その言葉にマリュアンゼは首を傾げる。


「先の事?」


「……勝てなかった時の事だ」


「勝ちます!」


 マリュアンゼは、ぐっと両の拳を握った。

 けれどフォリムは、はぁと息を吐き、残念なものを見るような眼差しをマリュアンゼに向ける。


「そういう意味ではない」


 王族の婚約期間は等しく一年。

 とは言え実質的な解消可能期間は半年以内だろうとマリュアンゼは踏んでいる。

 それ以上掛ければ例えフォリムに勝ったところで、今更だと偉い人に反対されるような気がする。これは勘だが。

 だからマリュアンゼは残り四ヶ月程でフォリムに勝つと目標を掲げる。

 

「君のその強い瞳が見られ無くなるのは寂しいが、覚悟はしておくべきだろう」


「まだまだこれからです!」


 そう言って拳を振り回すマリュアンゼにフォリムは呆れた顔で肩を竦め、盛大な溜息を吐く。


 タオルを握り締めマリュアンゼは思う。

 フォリムの科白は今までマリュアンゼが受け取ってきた、負け惜しみや強がりの類と同じもののようで。


 だからマリュアンゼは気づきもしない。

 フォリムが言わんとしていた事に。

 そして考えられない。

 自分が勝てない未来を。フォリムの言葉の意味を。


「そういえば舞踏会では、それは止めて貰おうか」


「それ、とは?」


 不思議と感じた威圧感に上半身を仰け反らせるマリュアンゼを覗き込み、フォリムはにやりと笑った。


「呼び方だ。『公爵様』ではなく名前で呼べ、マリュー」


「な、まえ……」


マリュアンゼの頬に手を添え、動揺を楽しむように鼻先まで顔を近づける。


「母上の前でそんな他人行儀な呼び方をしてみろ。二度と婚約破棄などと口にできないようにしてやろう」


「……っ」


「分かったら返事は?」


 添えられていた右手でそのまま頬を挟むものだから、唇がむにゅっと押し出される。


「ふぁ……い。フォ、リムっふぁま」


 うにうにと奇妙な形に口を開けてマリュアンゼは必死に首肯した。

 そんなマリュアンゼを見てフォリムは相変わらず楽しそうに笑うものだから、やっぱりマリュアンゼは必ず勝ち、婚約破棄を勝ち取ってやると誓うのだった。

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