三角形の底辺から平行線を辿る


主人公変わって先輩視点になります。


* * * * *



 好きな子がいる。



 告白しようと思っていた日、彼女にそう告げた。

 水族館の大水槽の前、優雅に泳ぐトラフザメを眺めていた彼女の視線が、俺に向く。


「…………え?」


 しばらくの沈黙のあと、彼女が惚けた声を出した。

 またしばらくの間を置いて、今度は口元に手を当てて俺の言葉の意味を考え始めた。

 指先を唇に当てて、まるで爪をかじるように。


 三日前、別の誰かと触れ合ったという唇を、隠すかのように。


「あ、えっと……そうですか……そうなんですか……」


 どう行き着いたのかは知らないが、彼女の言葉尻が小さくなりそしてうつむいた。


 勘違いを、しているのだろう。


 まさかそれが自分だなんて思わずに、なぜ急に、そんなことを言われたのか考えて悩んでいるのだろう。

 はっと何かを思って顔を上げて、かと思ったらすぐに視線を落として考え込む。

 最後には「うぅーん……」とくぐもった声が漏れていて、本人はそれに気が付いていなくて。横を通り抜けたカップルの男のほうが、振り返って彼女の顔を見つめた。


 やめて、見ないで。


 そんなことを思ってしまう俺の嫉妬心が、少しでも彼女の胸にあるといい。

 俺が好きだという女性像を勝手に作り上げて、少しでもヤキモチを妬いてくれていたら嬉しい。

 なんてそんなことは絶対に言わないし、そんな感情はきっと、彼女の胸にはない。


「あっ、ごめんなさい。私、うるさいですかっ⁉︎」


 声を漏らしていることに気づいた彼女が、ぱっと俺を見上げる。


「いや……」


 今の声のほうがよっぽど、うるさい。


 その言葉を告げる前に、彼女が自分の声量に気付いて顔を伏せた。

 周囲の視線が集まったが、今度は気にしないことにして彼女を見つめる。

 頭のてっぺんに小さなつむじ、胸元まで伸びる髪は耳の横にあるヘアピンで綺麗に止めてある。

 シンプルなのに小綺麗で、とても可愛い。


「可愛い」と、待ち合わせ場所に訪れた彼女を見て呟いてしまったが、その時の声は彼女には聞こえていなかった。


「可愛いよ」


 無意識に呟いてしまった。

 今度の声は彼女の耳に届いたらしく、ぱちっと目線がぶつかった。


「あ、えっと……え? あ、ありがとうございます」


 顔どころか耳まで真っ赤にした彼女が、恥ずかしそうに顔を背ける。

 初めて会った時からそうだった。動揺すると耳まで赤く染めて取り乱すその仕草がとても可愛くて。

 もう少し見ていたいと思った感情が一時間後、初対面にして初デートとなった猫カフェを出るころには恋心に変わっていた。

 誰かと付き合うとか、異性とご飯を食べに行くことすらあまり経験がなかった。

 好きですと言われて、同級生や後輩の子と付き合ってはみたけれど、面倒くさいという感情が先行した。


 ねぇ、話聞いてる?

 モテるでしょ? 私より可愛い子なんていっぱい寄って来るでしょ?


 うるさいな、なんて答えればいい、どう返事したら正解なんだよ。

 

 別に。


 そう告げると彼女達は激怒して別れたいのか、と聞いて来た。

 同じ言葉で返事をするとやはり怒られ、だけど次会う時には別れたくないと泣いて縋ってきた。

 だから、面倒くさいから関わらないようにしていた。

 お互いをよく知ってから、本当に好きだと思う子と付き合うことにしよう。


 運命とか一目惚れとか、そんなものはあるわけがない。

 そんなことをいう子を信用なんてしない。


 そんなものはありえない。



 そう思って、いたのに。



 そう思ってれいればよかった。


 運命とか一目惚れとか、そんなもの信じなければよかった。




「なぁ、なんで今日……来たの?」


 俺の言葉に、彼女が不思議そうに首を傾げる。


「え? ……えっと、それは……バスでってことですか?」

「は?」

「あっ、違う……えっと、なんで……す、水族館……なんで水族館に来たのかってことですか?」

「いや……え? いや、水族館がどうこうじゃなくて……」

「先輩が釣りが好きって言ったから、私も、魚の種類覚えようと思って」

「……は?」

「えっ? えっと、だから……先輩が魚好きだから、私も水族館行って魚詳しくなろうと思って」

「……え? 水族館行きたいって言ってなかった?」

「はい、行きたかったです!」

「その理由が、俺が釣りが好きだから?」

「はいっ!」

「…………」


 なに言ってるんだ、この子。

 水族館行きたいって言ったからこのコースを企画したのに、魚が好きって彼女が……言ってなかったな、そういえば。

 俺が釣りが好きと、その会話はした。魚には詳しいと。その会話の流れで『じゃあ私、水族館行きたいです』と言い出して。

 え? それならこの場所、今日のコースって……


 途端、胸が熱くなった。


 まさかと思うが、いや、それが正しいのだろう。

 彼女のために企画したはずが、俺の好きな場所に行くコースになっていた。

 水族館が好きなわけではないけれど、そうじゃなくて彼女が、俺の趣味に合わせて……


「あの魚、煮魚にしたことありますよ!」


 眼前を通り過ぎた縞模様の赤黒い魚を指差しながら、彼女が言った。

 

「メバル、だけど」

「めばる? あ、わかります。初心者向けの魚ですよね?」

「……よく知ってるね?」

「ちょっとだけ、調べて来ました」


 ぱっと顔を背けながら、彼女は恥ずかしそうに口元に指を当てる。

 その仕草をされるとやはり意識してしまう。

 俺と約束した日以降に、誰かに奪われてしまった唇を。

 いけると思っていた。意識されて、好意を持たれていると。

 今だってそうだ、やっぱりそうなんじゃないか?


 俺のこと好きだろ、この子。


「料理、得意なの?」


 いや、勘違いだと思う。

 話をするだけ無駄かもしれない。

 けれど言葉が、口をついて勝手に出てきた。


 話題を、まだ一緒にいたい、心の霞とは裏腹に会話をしようと、声が勝手に喋りだす。


「あ、はい。家事は一通りできるようになっておけって両親が」

「へぇ……偉いね」

「先輩は、ご飯作るの得意ですか?」

「学校以外で包丁握ったことないな。釣った魚も母親が捌いてるし」

「私できますよ! 今度、お刺身食べます?」

「釣ったその場で捌いて生魚食うの? それ、ダメなやつだから。素人がやることじゃない」


 失笑が漏れてしまった。

 俺の笑い声に、彼女が恥ずかしそうに目を泳がせる。


「じ、じゃあ、唐揚げに……」

「コンロ持っていくのかよ、キャンプだな」

「いいですね、それ! キャンプしましょう、海で! 波打ち際にテント立てたら寝転がったまま釣りできますよ!」

「満潮になったら流されるな、それ。ていうか砂浜キャンプって風強くてきついし、釣れる魚もいないから」


 堪えきれず大笑いをすると、耳を真っ赤にした彼女がうつむいた。

 最初に会った時からそうだった。

 彼女は時々、おかしなことを言う。それがとても面白くて、俺が指摘した後に恥ずかしそうにうつむく仕草が可愛くて。

 楽しい、もっと一緒に居たいと、彼女を喜ばせたいと、どんどん言葉が出てきた。

 自分がこんなにお喋りだとは思わなかった。

 異性との会話がこんなに、楽しいとは思わなかった。


「じゃあ、次は釣りに……」


 行こう。

 次はいつにする?


 そう聞こうとして、途中で言葉を止めた。

 うつむく彼女の指先には桜色の唇。

 ふっと、熱が引いていくのが自分でもわかった。


「今度は、そいつと来なよ」


 俺の言葉に、彼女が顔をあげる。

 不思議そうに首を傾げて俺を見上げるその仕草が、上目遣いになる角度だと分かっていたので、あえてそちらを向かない。


 どんなやつ?

 俺と出会う前からそいつのこと好きだったの?

 じゃあなんで、猫カフェついて来たの?

 水族館行きたいって言ったの?

 俺なら嫌だ、俺以外のやつと二人で出掛けるなんて絶対、許さない。


「今日はありがとう」


 心中にある黒い感情は声に出さず、淡々とお礼の言葉を述べた。

 正面を向いていたから、その時の彼女の表情はわからない。


「こちらこそ、ありがとうございました」


 彼女の声が震えていることには気付いていた。

 だけど気にしないふりをして足を進めると、慌てた彼女が小走りでついて来た。


「先輩も……」


 歩幅は合わない。

 自分のペースで進む俺の背後から小さく、彼女が声を出した。


「次は好きな子と、来れるといいですね」


 聞こえない。

 気付かなかった、聞こえなかったふりをしようと思った。

 下唇をぐっと噛み、緩んでしまった歩みを少し速める。

 より一層小走りで、必死に、彼女が俺の後を追った。


 



『キスならしたことある』と、彼女が言ったのは、大水槽についてすぐのことだった。

 彼女の身長の二倍以上ある高さの水槽に、様々な種類の魚。


「すごい、色とりどりで綺麗ですね」


 そう呟いた彼女の言葉にふっと、感心した。

 色を見るんだ……女の子は。

 意識して水槽を見ると確かに、青を背景に銀や黒、灰色、褐色に赤や緑、岩土の茶色とたくさんの色があった。


「すごい……」


 彼女につられ、呟いてしまった。

 水槽の彩りもだけどそれよりも、そんな見方があったのかと、自分とは違う観点があったことに感心した。

 井の中のかわずなんて言葉があるが、今までの俺は正にそれだったのだろうと。

 世界はこんなに綺麗に、色がついていたのだと。

 コツンと、俺の指が彼女の手の甲にぶつかった。

 思わず手を引いたが、すぐに思い直した。

 目を見開いてもう一度、彼女の手に視線を落とす。

 手を、とりあえず指を……そう思った時、


「キスって名前の魚、いますよね」


 彼女が呟いた。


「キス?」


 変なことを考えていたせいか、それが何かを理解するまでに時間がかかった。

 しばらくしてきすのことだと気がつき、大水槽に目線を戻す。


「鱚か、ここの水槽にいるかな?」

「あ、大丈夫です。見たいわけじゃないんで」

「興味あるの?」

「えっ、興味?」


 ぱっと、彼女が俺を見上げる。

 真っ赤に染まった耳たぶ、動揺が見てとれる混乱した表情。


「興味というか、いえ、えっと……そんなことなくて、中学までは全然、興味なくて、あれが初めてだったし」


 ボソボソと呟く彼女の言葉は、ところどころ聞き取れなかった。

 そもそもこの子、なに言ってるんだ?

 初めて? なんの話?


「み、三日前のあれが、初めてで……それまでは全然、興味なかったんだけど……」

「ごめん、なんの話してる?」

「え?」

「鱚が好きなのって話だったよね?」

「えっ? あ、いや、だから……三日前が初めてです」

「初めて? あ、そっか。もしかして行ってみた?」

「言ってみた?」

「猫カフェの時、釣りの話したよね? だから興味持ってやってみたとか?」

「えっ、違……興味本位とか、そんな感じじゃないです! いや、えっと、キスというかぶつかったというか」

「ぶつかった?」


 もしかしてこれ、会話が噛み合ってない?

 気がついてすぐに、それが何故か理解した。

 彼女の言っていることの意味を、なんとなく。


「もしかして魚じゃない? キス……は?」


 目線がぶつかったが、すぐに顔を背けられた。

 それで確信した。

 そっちだ、そっちのきすか!


「なにそれ、どんなギャグ……」


 鱚とキスって、なんだよそれと笑い飛ばそうとしたが、笑えないことに気がついた。

 目を見開いて彼女を見つめると、唇が見えた。


 誰かと触れ合ったという、桜色の。

 三日前……三日前?

 俺その時、告白する決意してたけど。

 水族館に行く約束、交わしてたはずだけど?


「今まで誰とも付き合ったことないって言ってたよね?」

「あ、はい……」


 混乱しているのが目に見えてわかる。顔どころか耳まで真っ赤にして。言い訳とか、上手い言葉を考えているんだと思う。

 初対面の時からそうだった、混乱するとその仕草がとても可愛くて。

 今も可愛いけど、そんなことよりも……


「キスならしたことあります、三日前に……公園のブランコで」


 会話が下手で、嘘がつけない子だろうとは思っていたけどこれは……正直すぎないか?

 途端、気を失ったように目の前が真っ白になった。

 どれくらいの時間惚けていたかわからないが、しばらくして我に返った俺は、無意識に、今告げるべきじゃない言葉を呟いた。


「俺さ、好きな子がいるんだ……好きな子がいる」


 その時の彼女が、どんな表情をしていたかはわからない。


「…………え?」


 しばらくの沈黙のあと、彼女が惚けた声を出した。





 帰宅したのは十二時半だった。

 お昼ご飯どうする? って言葉も言えなかった。

 水族館を出ると同時に「今日はありがとう」って告げて、踵を返して歩き出した。

 振り向かなかったから、その後、彼女がどうしたのかは知らない。

 帰り道は同じ方向なのに彼女が俺の後をついて来なかった理由も、その時の表情も、なにも知らない。

 玄関のドアを開けると、すぐそこに年の離れた兄がいた。


「あれ? 今日デートだったよな? どうした?」


 ちょうど出掛けるところだったみたいで、靴を履き終えた兄が腰を上げる。


「デートって……俺、話したっけ?」

「直接は言われてないけど、服がどうのって俺たちに聞いてきただろ? あ、これ、母さんに言わないほうがよかった?」

「母さんに言ったの?」

「夜も外で食べるかもなー、お小遣い大丈夫かなーって」

「変な心配するなよ」

「で、この時間ってことは昼飯すら食べれなかった?」

「…………」


 無言の意味を即座に理解した兄が、くくっと小さく笑う。

 

「話聞いてやりたいけど俺、今から出かけるから。帰ってからな」

「……デート?」

「夜はうちで食べるから二人分用意しといてー、って母さんには言ってるから、心配しなくていい」


 睨みつけると、兄は逃げるように玄関を出ていった。

 

「……いいな、結婚までいける……好きだと思った人が、自分のことを好きなんて」


 廊下の先にあるリビングのドアを開けるとふわっと、涼しい風が顔にぶつかった。

 台所に立っていた母の目が、俺へと向く。


「なにあんた、今日デートでしょ? どうしたの、ふられたの?」


 言い方考えてくれよ、なんだよこの親子。

 そう思いながらも口にはせず、鞄を下ろして父親が座っているソファの隣に腰を下ろす。


「……ふられたのか?」


 窺うような父の言葉にうんざりして、昼飯はいいやと自室に戻った。





 その日の晩、熱が出た。


 気がするから明後日は学校休む、と家族に言ったら、兄の婚約者にまで笑われた。


「おまえ、そんなに未練あるならちゃんと話してこいよ。明日は日曜だしさ」と兄。

「え、でも付き合ってないんでしょ? 告白してふられたなら、もうダメじゃない?」と、兄の婚約者。

「どっちでもいいけど、学校には行きなさいよ」と、無関心の母。

「明日、父さんとゴルフ行くか?」と、空気の読めない父。


 そういえばこの人たちカップルだな、俺を除いてペアになってるな。

 なんてことを思って、馬鹿馬鹿しくなって体温計を握って熱を測った。


[36.9]


「微熱がある」

「あんた、小さい頃から体温高いのよ」

「……頭が痛い」

「気がするだけでしょ?」

「腹が……」

「もー、面倒くさいわね。それなら明日一日寝てなさいよ」


 寝込んだら仮病を本物として扱ってくれるだろうか。

 そんな淡い期待は打ち砕かれ、月曜の朝、普通に叩き起こされた。


「あんたの好きな子、男の子なの?」


 朝食を食べている時、母に言われた。

 父と兄はすでに仕事に行って家にいない。


「は?」と惚ける俺に、母がため息を漏らす。


「ふられたことと学校に行きたくないのは関係ないはずでしょ? だから土曜の相手、同じ学校の子だったのかと思って」


 意味がわからないと思ったがしばらくして、自分が男子校に通っていると思い出した。

 口に含んでいた食パンが喉にはりついて、軽く咳き込む。


「ふざけんなよ、なんでそうなるんだよ」

「違うの? じゃあどうして学校行きたくないの?」

「どうしてって……」


 あれ? どうしてだっけ?

 学校に行っても彼女に会うことはない、そこは気にしなくていいんだけど。


「報告、どうしようと思って」

「報告?」

「後輩に、水族館で告白するからって……そういえば俺、言ってない?」

「なに? 後輩の子に相談してたの?」

「相談しようと思ってたけど、体調悪いって部活休んで……いや、なんでこんな話になってんの?」

「あんたが喋ったんでしょ?」


 体調というか、調子が悪いのは本当だと思う。

 だけどそんなことは言えず、黙々と家を出た。



 高校へは電車で行く。

 最寄駅はわりと栄えていて、駅ビルを抜けたところに猫カフェなど専門店が入っている小さな建物もいくつかある。


「猫カフェ……」


 人の流れに沿って電車を降りたところでぽそっと呟いた。

 はぁーっとため息を吐いて、階段を降りる。

 その時ふわっと、花のような香りが通りすぎた。


「あっ、すみません……ごめんなさい」


 振り返ると、肩甲骨辺りまである髪をふわふわと揺らしながら階段を駆け上る女子高生の後ろ姿が見えた。

 彼女はちゃんと上りの印がある場所を通っているのに、ルールを守らなくてそこを降りる人たちに律儀に謝りながら階段を登る。


「あっ……」


 彼女の声とともに、俺の身体は人の波に押され前を向いた。

 間に合わなかった? きっとそうだ、間に合わなかったんだろう。

 引き返せば……いま、引き返せば、話ができる。


 電車間に合わなかったの? この時間じゃもう遅刻だよな、とか。

 偶然だね、とか。

 俺も今日調子悪いから学校休むと言えば、彼女はどう返してくれるだろう。


 調子悪いんですか? どこが痛いですか? 頭ですか?

 とか、おかしなことを言ってきっと、また、俺を笑わせてくれる。

 そしたら耳を真っ赤にして、恥ずかしそうにうつむいて。


 立ち止まれば。

 いま、振り返れば……


 歩きながら、指先を唇に持っていった。

 後ろを歩いていたリクルートスーツの女性が不思議そうに俺を見つめ、追い越していった。


『キスならしたことあります』


 彼女の言葉が脳によみがえって、途端、目頭が熱くなって。

 こぼれ落ちないようにと、ひたすら、必死に、人の波に乗って歩みを進めた。





 教室に入って一番、「俺、今日調子悪いから」と言ったが、誰も心配はしてくれなかった。


「仮病使うなよ、今日なにかあるっけ?」

「何もない、調子が悪いだけ」

「合同体育バスケだからな、よろしくな!」

「お前ら、今日俺が倒れたら絶対後悔するからな。心配しとけばよかったって、絶対後悔するからな?」


 くらいの冗談を言えるほどには元気だった。

 普通に生活できたし、普通に食事も喉を通ったし。

 放課後、普通に部室に行くと先に来ていた後輩が掃除をしていた。


「……っ、す」


 全然聞こえない声量で挨拶らしきものを言ったあと、後輩はふいっと顔をそらして掃除の続きを始めた。


「挨拶はちゃんとしろ」


 鞄で頭を小突くと、後輩は不貞腐れた顔をして「お疲れさまです」と微妙な声で返事した。

 他には誰も来ていない、二人しかいない部室の中。

 そうだ、こいつ先週部活休んだんだった。

 体調が悪いから帰るって言ったのが木曜で、次の日も来なかったから結局、相談は出来なかった。


 お前の幼なじみに、告白しようと思うんだ。


 そう言おうと思ってた。

 今さら、それまで何も言わなかったのにと思われるかもしれないが、後押しして欲しかったのかもしれない。

 それに彼女と後輩は言葉も話せないころからの付き合い、幼なじみだ。

 彼女が俺のことを相談して、なにか知っているかもしれない。


 大丈夫ですよ、彼女も先輩のこと好きですよ。


 なんて言葉を、期待していたのかもしれない。


「……恥ず」


 言わなくてよかった、そう思って盛大なため息を吐いた俺の背中に、後輩の声がぶつかった。


「水族館、どうでした?」


 いつの間にか後輩が俺のほうに向き直っていて、真っ直ぐな視線をぶつけて来た。


「水族館……え? あ、もしかして聞いた?」

「週末に水族館に行くって」

「あ、あぁ……土曜に、行ってきた」


 どう……どう答えよう?

 ふられた? いや別に、告白なんてしてないし。

 ただ一緒に、水族館行っただけだし。

 特に意味なんてなかった、そこに感情なんて……


 好きだと思う、そんな気持ちなんて。


「お、まえの幼なじみさぁー、すごいよな」

「すごい?」


 後輩の瞼がすっと、半分落ちる。

 直視できなくて、俺のほうから顔を背けた。

 ロッカーに片手を置き、無意味に鍵を回してみた。

 小さな金属音が、室内に反響する。


「すごいって、なにがですか?」

「な、んかさぁ、他に男が……彼氏ではないって言ってたけど……それなのに、俺と一緒に水族館行くとか」

「男?」

「俺じゃない他の男がいるみたいで……キスしたって、三日前に……水族館の約束した次の日に、違うやつと」


 熱が、血が頭に上っていくのを感じた。

 反応がないことが不安で顔を上げると、後輩が目を見開いていていた。

 目が合うとはっと我に返り、視線を落とす。


「だからさぁ、それなのに、俺と水族館行くって……自意識だけど、好かれてる自信があったんだ。自信っていうか確信? 両想いだって、そう思って、告白しようって……」


 かちゃかちゃ、かちゃかちゃ。

 ロッカーの鍵の金属音とともに、自分の声が響く。

 あれ、俺、なんでこんなに喋ってんの?

 ぺらぺらと、なに言ってるんだろう。


「待ち合わせ場所でも、楽しそうで。俺のこと見つけた途端、小走りになって……約束の時間の十分も前なのに、遅くなってごめんなさいって」


 自分がなにを言っているのか、なにをしているのかわからなくなっていた。

 声が、いま喋っているのは誰なのか、そんな状態ですらあった。

 話を続けようとする俺の声を、後輩が遮る。


「それ、三日前じゃないですよ」


 口元に手を当ててなにかを考えていた後輩が、顔を上げてそう言った。

 じっと、真っ直ぐに俺の目を見つめて。


「木曜日のことだから、土曜からさかのぼると二日前。三日前じゃないです」


 言われていることの意味が、すぐには理解できなかった。

 一秒、二秒過ぎていくにつれ、木曜がキスをした日だと当てはまり、同時に疑問が生じる。


「お前それ、なんで知ってる……そういえば先週の木曜って、体調が悪いとか言って……」

「部活休みました。その時に彼女と会って、公園のブランコでしましたね」


 なにを、とは言わなかった。

 けど、なにをしたかは明白だった。


「え、待って……なに……え?」


 かちゃかちゃ、ガチャガチャと、うるさいな何の音だよと思ったら、俺がロッカーの鍵をいじる音だった。

 ガタガタガタガタ、壊れそうなほど乱暴な音がやがて、ガンっと殴りつけたような音に変わった。


「……痛っ」


 右手の小指から血が出ていた。

 ロッカーを殴っていた、俺の手が。

 自分の名前が貼られたロッカーの蓋が歪んで壊れていて、耐久性ないなもっと頑丈なの買ってくれよ、と馬鹿みたいなことを考えた。

 いや、


 馬鹿は俺かもしれない。


「でもお前、彼女いるって……」


 ロッカーに右手を押し付け、うつむいたまま問いかける。

 後輩の表情は見えないが、なにも変わっていないに違いない。

 返ってきた声は、淡々としたものだった。


「全部嘘でした。それは悪いと思ってます」

「嘘?」

「彼女がいるってことも、体調が悪いと言ったことも、猫カフェに行く予定だった日、用事があると言ったことも」

「……もう一度、今度は別の言葉で聞いていいか?」


 ちらっと目を向けると、表情を変えず俺を見つめている後輩の顔があった。

 こんなやつじゃなかった、こんなやつじゃないと思っていた。

 優柔不断でやや会話下手、自分の気持ちをはっきりと伝えない……

 あぁ、だからあのとき誤魔化した。


 用事があると言って嘘をついて俺から逃げようとして、その嘘のせいで逃げれなくなってしまったのか。


「お前さ、好きな子いるの?」


 後輩の表情が、わずかに動いた。

 下唇を噛み、決意したように顔を上げる。


「います。幼なじみの、彼女です」

「……あぁ」


 聞くんじゃなかった。

 答えて欲しくなかった。

 なにこれ、なに?

 どうして、なんで?


 なんだこれ?


「……ははっ、あははははっ」


 意図せず、笑いが込み上げてきた。

 いつから?

 だってこいつ、彼女いるって……あぁ、そうか、嘘か。

 猫カフェは? いつかお礼言わなきゃって思ってたんだ。彼女と出会えたのは後輩のおかげで、二人きりにしてくれて……

 違う、嘘だ。

 用事があると嘘をついた、と。

 彼女と会えたから、彼女といたかったから、邪魔な俺を排除するために、彼女と過ごすために、猫カフェには行けないと……

 なにかいいことあったのか? と俺を茶化す部活の同級生たち、その輪の中に絶対、入って来ようとしなかった。

 相談しようと、先輩なら大丈夫ですよって言って欲しかったのに。

 あぁ、そうか。それを言うのが嫌でこいつは、仮病を使って逃げたのか。


 馬鹿にしてんなよ。


 なんだよこれ、意味がわからない。

 なにが……なにが嘘だった?

 だって彼女は、猫カフェでも俺の話を真剣に聞いて、時々恥ずかしそうにうつむいて。

 連絡先だって、向こうから聞いてきた。

 聞かれなくても聞くつもりだったけど向こうが先に、聞いてくれた。

 次の予定を尋ねると嬉しそうに、「いつでも空いてます!」って大声で返事してくれて。

 刺身とか、唐揚げ作ってくれるって。キャンプしよう次は海で、って。

 砂浜で釣りができないって知った時の表情が、真っ赤に染まる耳たぶがとても、可愛くて。


「……っ」


 目頭が熱いと思ったら、涙が溢れていた。

 見られるのが嫌で、慌てて下を向く。

 だけどそうするとこぼれ落ちてしまいそうで、唇を噛んでやり過ごそうと思った。

 いや、待て、なんで俺、怒ってるんだろう?

 悲しいことも、つらいことなんて何もない。

 だって別に、水族館行っただけだし。

 告白? いや、してないし。

 別になにも、恥ずかしいことなんてない。

 始まってもない。


 あぁ、そうだ、勘違いだ。


 好きだと思っていた。

 だけど彼女の好きな人は俺じゃないかもしれない、それに気がついて。

 もやもやするこの感情に、[勘違い]と名前をつけた。

 その途端、気が抜けて、俺は意識を失った。





 倒れると同時に他の部員が部屋に入ってきたみたいで、一時大騒ぎになったが、幸いすぐに意識を取り戻した。


「体調悪いなら言えよ! あ、朝から言ってたな、そういえば!」と、同じクラスのやつが一人ボケツッコミみたいなことを言い、早く帰れと促された。

 保健室で休んでいく、一人で大丈夫と告げ、鞄を抱えて部室を出る。

 ドアを閉める前に一瞥したが、後輩は頭を下げているだけだった。



 保健室は鍵が掛かっていて、職員室に行くのも面倒なのでそのまま廊下に座り込んだ。

 顔を上げると、校舎の窓越しに空が見えた。

 積乱雲の合間にときどき青空。

 彼女が見たら『雷雲ですよね?』なんて言い出しそうだなと思った。だけど次の瞬間にはきっと、『あれ? 違いますか?』と、耳を赤くしてうつむくのだろう。

 

「大丈夫、あってるよ」


 そう答えると彼女は、どんな顔をするだろう?

 ぱっと顔を上げて、嬉しそうに顔をほころばせる……うん、これが一番有力だな。もしくは正解したことを恥ずかしがってさらに耳を赤くする。得意げな顔をすることはたぶん、ないと思う。

 まだ見たことのない彼女の様々な表情を妄想し、ため息を吐いて頭をかいた。


 違った。


 うん、勘違いだった。

 両想いかもしれないと思ったことも、抱えていた好きという感情も。

 彼女の嬉しそうな顔だってきっと、そう見えただけで。


 全部、勘違いだった。


 もう関わりたくない。

 怖いだろ、なんだよこれ。


 紹介してくれたのはあいつ、後輩だろ。違う、俺が……そうか俺が、声をかけた。

『一緒に行く?』って俺が、声をかけていた。

 待て、このパターン前にもあった……そうか、そのせいで友達が彼女と別れた。

 俺が気軽に、誰かの女に声かけたから。

 気をつけてはいたんだ。

 もうあんなことに、ならないようにって。

 友達の彼女が俺に惚れてそのせいで別れるとか、馬鹿みたいなことはもう二度と、起きてほしくないと。


「でもだって、彼女いるって言ったから……あぁー、そっか、無理してたんだな」


 すとんっと、胸のつっかえが落ちた。

 認める、勘違いじゃない、好きだ。

 好きになってしまっていた。

 だけどもういい、諦める。


 後輩の、誰かの彼女に手を出すなんてもう、絶対に嫌だ。


「仕方ない……それなら仕方ない。邪魔しちゃ悪いもんな、あいつは俺より先に好きだった。うん、なら仕方ない」


 言い聞かせるように繰り返し、腰を上げた。

 空は青の割合が減っていて、雨が降る前に帰ろうと思った。

 

「入道雲、って呼び方のほうが馴染みあると思うけど……知ってる?」


 そんなことは二度と聞けないけれど、空を見上げて一人、呟いた。


「雨が降る前に帰ったほうがいいけど……すぐ止むだろうから、どこかで雨宿りする?」


 なんて、そんなことは。





 例えば、もし、俺たちの状態が三角関係と名前のつくものだったとして。

 俺と後輩と彼女で、三角形を作っていたとして。


 俺は今、その底辺にいるのだろう。

 そこから空を見上げて、積乱雲を見つめて。

 俺の姿が無くなったことであの二人は、ようやく線が結べるのかもしれない。

 幼なじみの運命線ってやつを、三角形の底角と底角から。

 俺という底辺を辿って、やがてどこかでぶつかるのだろう。


「すげ、胸くそ悪」


 声に出してしまったことに気づいて、辺りを見渡した。

 いつの間にか、無意識のうちに、駅のホームに着いていた。

 俺が乗る予定の列車は、しばらく来ない。

 なにをやっているんだと肩を落としたとき、ふわっと風が通り抜けた。

 突風ではなく穏やかな、駅のホームを駆け抜ける風。

 顔を上げると、同じ風に揺られてふわふわと髪を靡かせている女子高生の姿が見えた。

 線路を挟んだ向かい側のホームに、彼女の姿。


 風が一瞬、その動きを止めた。


 互いに見つめ合って、しばらくしたところで彼女の表情が歪んだ。

 ポタッと、その雫が地面に落ちたところで再び風が。今度は突風、彼女のいるホームに電車が入ってきた。

 発着音のメロディ、駅のアナウンス、風を切る音。


「好きな子が、いるんだ……好きな子がいる」


 目の前に、さっきまで見えていた。

 あの電車の向こうに、


 遮られた視界の向こうに。




 気がつけば、足が動いていた。


 待て待て待て、なにしてる?

 

 行っても意味がない、そもそもなにを話しする?

 さっき決意したばかりじゃないか、諦めるって。

 止まれよ、なんで走って……階段駆け降りてるんだ、俺。


 泣いていたとしても、その涙を止めるのは俺の役目じゃなくて……


 違う、違うけど!


「あぁ、もう……嘘つけない」


 ごめん、正直に言う。

 泣き顔を、その表情を見せて欲しい。

 

 どんな顔して泣いてる?

 目の前にしたら泣き止んで欲しいって思うんだろうけど。

 泣かせないための努力はするけど、その表情を一瞬でいいから俺に見せて欲しい。

 新しい表情を、いろんな顔を、全部見せて欲しい。

 俺の前で泣いていいよ、だから……話がしたい、もっと。

 話を聞いて欲しい。

 ほら、向こうに積乱雲があるだろ?

 入道雲って言ったほうがいいかな?

 雨が降ると思うから少し、雨宿りしないか?



 例えば、


 もし、


 俺がいま、三角形の底辺上にいるとして。



 その線の端と端、底角と底角にいるのが彼女と後輩だったとして。

 

 ハサミで糸を引き裂いてもいいと思ったけど、やっぱりやめる。

 会いにいくよ、俺が。

 君の元へ、会いにいく。


 三角系の底辺から抜けだして、そこに平行線を引いて。


 それを辿って、君のもとへ。



 でも、だから、引き裂くことはできないから、後輩へどう説明しよう?

 あとで考えよう。


 あとでいい、今はどうでもいいと思えるほど気持ちがいだ。


 勘違いだったら笑ってくれ。

 なに言ってるんですかって、怒ってもいい。

 見たことのない表情を、新しい顔を見せて欲しい。



 だから今、平行線を辿って君のいる場所へ。

 抱えているこの感情を、ちゃんと伝えるために。



 階段を登る途中で人とぶつかったが、気にする余裕はなかった。

 走り去っていく列車のテールライト。

 静かになった駅のホーム、俺がさっき眺めていたと同じ場所にぽつんと、女子高生が立っていた。


 俺の存在に気付いた彼女が、ふやっと表情を崩して頭を下げる。


 好きな子がいる。


 そう告げたら、彼女はどんな反応をするだろう?

 前と同じなら言い方を変えないといけない。

 いや、布石を打っておけばいいか。


 歩み寄る俺を見つめる彼女の瞳。

 嬉しそうなのに、ちょっと不安そうな表情。


 やっぱりこの子、俺のこと好きだろ?


 勘違いなら笑ってくれ。

 もしそうだとしても今、ちゃんと、気持ちを伝えたい。


 そうだと思いついて、スマホを取り出す。

 メッセージを送り終えると同時、スマホの画面を彼女に向けると不思議そうな顔をされたが、すぐに自分のスマホを取り出した。

 彼女が視線を落としている間に、手の触れる距離まで近寄る。

 接近に気がつかなかったのか、スマホから顔を上げた彼女が驚いて「ふぁっ」と声を上げた。

 口元を押さえてうつむく、耳まで真っ赤に染めるその仕草が可愛くて、スマホをポケットに納めて彼女に向き直った。



 今から言う俺の言葉に、この言葉を返して欲しい。

 なにも聞かないで、こう言ってくれる?

 ↓


「     」




 彼女のスマホには俺が送ったメッセージ。


「俺さ、好きな子がいるんだ]


 その言葉に、彼女は俺とスマホの画面を見比べたあと、ふやっと微笑んで、目尻に涙を溜めながら、メッセージに書いてある文字を読み上げた。


「誰ですか?」


 なかなか古臭い演出だと思う。

 だけど彼女が笑ったから、面白いと思ってくれたみたいだから、まぁいいかと思った。

 次の言葉を聞いたとき、彼女はどんな反応をしてくれるだろう。

 嬉しそうにうなずいて涙を流すか、感極まってひたすら泣くか。

 もしかしたら本当に俺の勘違いで、『勘違いしないでください』と軽蔑の目を向けられる……ことはないかな。

 

 一呼吸して、決意して、ようやく口を開く。


 名前を呼ぶと次の瞬間、見たことのない顔で彼女が、俺が好きな子が泣き笑った。



 可愛いと、心の底からそう思った。


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