第24話 危機
ジルバの背に乗せられ、村へと飛ぶように戻る。ここから逃げ出す算段を必死で考えるが、ぴったりと張り付くように並走するセヴェリオがいる為に脱出することは不可能だった。
あっという間に村へと帰還し、ジルバに腕を掴まれながら村へと戻る。門の所でセヴェリオの帰還を出迎えたクロエが、レティリエの姿を見てさっと青ざめた。
「あなた……」
クロエの声が震えている。村を出ることは彼女にも伝えてあるから、今の状況が自分達にとって喜ばしくないことを悟ったようだ。だが、彼女は無理やり平静を装うと、セヴェリオに向き直った。
「長。この子はかの黒狼の
クロエが畏まりながら問うと、セヴェリオがふんと鼻を鳴らしてレティリエを一瞥する。
「こいつが孤児院の子供や夫を置いて逃げるとは思ってもなかったからな。だが逃げる意思があるとわかった以上このままにしちゃおけねぇ。二度とここから逃げられないようにしてやる」
「具体的には……」
「そうだな」
そう言うとセヴェリオはレティリエの顎を掴んでグイと上を向かせた。レティリエが震えながらもきっと睨み付けると、セヴェリオの残虐そうな金色の目が楽しそうに弧を描く。
「お前には俺の子を孕んでもらう。そうなれば、お前は一生俺から逃げられない」
「なん……ですって……?」
セヴェリオの非情な言葉にレティリエが震える声で聞き返すと、彼はクツクツと楽しそうに笑った。
「お前みたいなやつは、自分のことより他人が傷つくことを苦痛とするからな。例え俺がお前に暴力を振るったとしてもお前は屈しないだろう。だが、それが子供であれば話は別だろうからな。そうだろう? ジルバ」
「ああ」
レティリエの両腕をガッチリと掴んだジルバが頷く。
「甘いのはあの黒狼も同じだ。例え憎き相手であっても、愛する女の子供を自分の手で父無し子にするわけにはいかないからな。この女の逃亡を阻止すると同時にお前の身も守られる」
「決まりだ」
セヴェリオがレティリエの腕を掴み、グイと引き寄せる。強い力で握られ、彼女の細い腕がミシリと鳴った。
「いやっやめて!!」
必死で抗うが、大の男にガッチリ掴まれている為に逃げられない。足を踏ん張りながらも抵抗するが、ぐいぐいと引っ張られ、あっという間に彼らの居住地である集会所まで連れていかれた。
「レティリエ!!」
建物の中に連れ込まれそうになった瞬間、聞きなれた声が響いた。声がした方を見ると、グレイルが驚愕の顔で立ち尽くしている。背後に目立たないように控えるクロエを見るに、彼女が密かに呼んできたのだろう。
だが、彼がこちらに駆け寄ろうとした瞬間、どこからともなく出てきた数匹の狼が彼に飛びかかり、グレイルは狼になることなく地面に叩きつけられた。
「お前ら!! 邪魔だ!! どけ!!」
地面に押さえつけられながらも闘志を絶やさないグレイルが怒りで目を激しくぎらつかせながら吠える。だがセヴェリオは意に介さず見下したように一瞥するだけだった。
「ふん、負け犬はそこで吠えているがいい。目の前で己の女が蹂躙される様をな」
そう言うと彼は突如レティリエの顎を掴んでグイと上を向かせ、露になった白い喉元に食らいついた。そのまま見せつけるように赤い舌を覗かせると、彼女の細く白い首筋を一息に舐めあげる。
「──っ!!」
ゾワリと全身を這うような嫌悪感に、レティリエは声にならない悲鳴をあげた。ヌルリとした舌の感触がおぞましく、彼の目の前でなすがままにされているという羞恥で目頭が熱くなる。涙目でグレイルを見ると、彼は色を失ったように目を見開いていた。
「レティリエ!! くそっ……貴様!!」
グレイルが目を血走らせながら鋭い形相で睨み付ける。レティリエもセヴェリオの腕から逃れようと必死にもがくが、逆に彼にぐっと引き寄せられ、首もとに噛みつかれた。
肩を貫く鋭い痛みに、レティリエは悲鳴をあげた。ぬるりとした生温かい液体が自分の首もとから流れ出るのを感じる。反射でセヴェリオの胸を押して抵抗するが、ガッチリと抱き抱えられている為に動くことができない。
「貴様……殺してやる!!」
グレイルが怒りに吠えた。地面に爪を食い込ませながらあらんかぎりの力でもがくが、一匹の狼が頭上に馬乗りになってグレイルの頭を地面に叩きつけた。
「この女には俺の子を生んでもらう。お前はそこで事が終わるまで見ていろ」
セヴェリオが残忍な笑みを浮かべながらレティリエを引き連れ、集会所の中へと入っていく。
あとにはグレイルの咆哮だけが残された。
集会所の中に入り、最上階の部屋へ連れていかれる。セヴェリオとジルバの寝室だ。部屋に入ると、レティリエは寝台の上に投げ出された。従ってたまるかと身を起こそうとするも、セヴェリオが両腕を一息に掴んで布団に縫いとめ、レティリエの上に馬乗りになる。
目の前に映る赤茶の髪と金色の目。いつも見ている光景と同じはずなのに、恐怖と嫌悪でレティリエは震え上がった。
「いやっやめて!!」
必死に叫ぶが、レティリエの悲鳴は胸をわしづかみにされることで遮られる。自分の体を這う感触が、全て乱暴で痛い。いつもの優しいグレイルの手つきとは異なるそれに、レティリエはポロポロと涙をこぼした。セヴェリオの手が衣服の裾にかかり、レティリエが悲鳴をあげた時だった。
「セヴェリオ様!」
バタバタと大きな物音を立てながらクロエが部屋に飛び込んできた。セヴェリオが苛立った顔でクロエを睨み付ける。
「なんだ。今忙しい」
「セヴェリオ様、あの黒狼が暴れて手がつけられません。あなた様もこちらに来てくださいませ」
「そんなものジルバに処理をさせろ」
セヴェリオが苛立った声をあげる。その鋭い睨みに、クロエは一瞬怯えたような顔をしたが、すぐに唇を噛んで拳を握った。
「いえ……その……私が思うに、このような場合は長、あなたが直接従わせる方が良いかと思います」
クロエが絞り出すように言葉を紡ぐ。
「あのように血気さかんな者は、敗北を味あわせねば何度でもあなたに歯向かうでしょう。このあと彼をどうするかはわかりませんが、あなたが上の者だと自らがしっかりと示す必要があるかと」
「お前は俺にどうしろと?」
セヴェリオの言葉に、クロエがビクリと肩を震わせる。だが、彼女はしっかりと目を見据えて言いはなった。
「下に行って黒狼を自らの手で
クロエの言葉をセヴェリオが無言で聞いている。彼が返事をしないのが不気味だった。だが、セヴェリオはレティリエの腕を離すと寝台から起き上がった。
「お前の言うことも一理あるな」
口端に笑みを称えながらセヴェリオが部屋の扉へ向かう。二人が部屋を出て行く際に、クロエがチラリとこちらに視線を寄越した。その瞬間、レティリエは彼女の意図を理解した。
クロエは逃げ出すチャンスを作ってくれたのだ。支配欲に飢えたセヴェリオの性格を理解し、わざと刺激する言葉を選んで上手に連れ出してくれたに違いない。
ガチャリ。と乾いた音を立てて扉の鍵が閉まり、見張りを呼ぶ声が聞こえる。レティリエは寝台から起き上がると、脱出の糸口を探しだしにかかった。
深呼吸をしながら辺りを見回す。部屋の中には二つの寝台と小さな物机しか置かれていない。物机の上を探しても、この部屋から出るのに役立ちそうなものは見つからなかった。
レティリエの心が焦燥感に支配される。折角クロエが作ってくれた千載一遇のチャンスを無駄にしてはいけない。何か道具になるものはないかとレティリエは必死であちこちひっくり返した。
その時、外で誰かを殴り付ける鈍い音が響き、レティリエは慌てて窓に駆け寄った。床まで届くほどの吐き出し窓を開けて外を覗くと、大の男数人がかりで押さえつけられ、地面に這いつくばらされているグレイルの姿が目に入った。彼の目の前にいるセヴェリオがグレイルの頬を殴り付けてその髪を鷲掴みにし、グイと上を向かせる。グレイルもペッと血痰を吐くと不屈の意思を表すかの様に鋭く睨み付けた。金色の目が怒りに燃えて爛々と輝いている。
グレイルが口を開く。彼が何を言ったのかは聞こえない。だが、再度グレイルの胸ぐらを掴んだセヴェリオがもう一撃食らわせ、辺りに鈍い音が響いた。
もう見ていられなかった。レティリエは泣きながらその場に崩れ落ちた。
痛い。苦しい。苦しい。自分の心は悲鳴をあげすぎて張り裂けそうだ。だが、ふと視線を落とすと、セヴェリオの背後に控えるクロエの姿が目に入った。無表情でその光景を眺めているクロエは、顔こそ能面のようだったが握られた拳は固く、彼女もこの苦しい状況に耐えていることがわかった。
そうだ。自分はこんなところで泣いている場合ではない。クロエとグレイルがその身を張って作ってくれた機会をフイにすることは許されないのだ。
レティリエはグイと涙を拭うと、振り返ってもう一度ぐるりと部屋の中を見渡した。
その時一陣の風が吹き、吐き出し窓にかかっているカーテンがふわりと波をうつ。そのはためきを見ているうちに──レティリエは思い付いてしまった。できるかどうかはわからない。だが、もうこれしか方法はない。
部屋の反対側に視線を向け、そちらの吐き出し窓も同じようになっていることを確認する。グレイルやセヴェリオ達がいる方とは逆の窓に近づき、同じように開け放った。集会所は村の南側に面しており、孤児院と村長の家の中間地点に立っている為に、建物のすぐ裏は森になっているのだ。
レティリエは机を移動させてその上に上ると、窓にかかっているカーテンを半分だけ外し、手触りを確かめる。厚手の布地で作られているため、そこそこ頑丈そうだ。レティリエは外したカーテンに牙をあて、布を縦に引き裂いた。半分ほど裂いた所で布の裾を持って窓の外に出る。集会所の高さは三階。そのまま飛び降りれば怪我を負う可能性があるが、一度ワンクッションを入れることができれば、小柄なレティリエなら直撃は免れそうだ。
レティリエは窓の外に出ると、カーテンの裾を持ったまま一息に飛び降りた。カーテンが引っ張られ、一瞬だけ空中に制止する。その後ビリビリという裂傷音と共にカーテンが破れ、体が落下していくのを感じた。だが、飛び降りる高さを少しでも低くすることには成功した。レティリエは空中で体勢を整え、すとんと四つ足で地面に着地する。怪我が無いことを確認し、そのまま全速力で森めがけて走り出した。
誰かに見つかれば一貫の終わりだ。東門にも西門も使えないと判断したレティリエは、一目散に孤児院の裏手にある穴──ローウェン達を逃がした場所を目指す。
柵までたどり着き、そっと板を押すと、カタリと音を立てて空間ができた。この抜け穴がまだセヴェリオ達に見つかっていないことに心から安堵する。だが、それは彼らがここに来てまだ日が浅いからに過ぎない。抜かりのないジルバであれば、柵の確認と修繕は怠らないだろう。ここを使うのは恐らく今回が最後だ。
レティリエは深呼吸をすると一息に穴をくぐり抜け、そのまま村の外へと走り去った。
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