試読「魔女たちに薔薇の花を 」

葛野鹿乃子

上巻 試し読み

上巻  第1話 「人魚姫」 魔女凶騒

 キャンバスいっぱいに広がる青い色が、濃淡をつけて重ねられていく。

 絵筆が伸びやかに、そして時には繊細に動く様子を、弦月小夜子(つるつきさよこ)は傍らで見つめていた。

 キャンバスの前に座る青年は、左手にパレットを持ち、右手でひたすら絵筆を動かしている。

 青年――槻崎一伽(きさきいちか)は、少年のような顔立ちを真っ直ぐキャンバスに向けている。顎や鼻筋がほっそりしていて体格も小柄だから、一伽は二十歳になっても幼く見える。

 キャラメル色の巻毛と、淡い色の瞳。肌も色白だから、全体的に色素が薄い。儚さとも取れる彼の雰囲気は、小夜子の目には弱々しい印象として映る。

「人魚たちは、陸には上がれない。海の中だけで暮らすって、やっぱり狭く感じるのかな」

 キャンバスと向き合ったまま一伽は呟いた。その言葉は独り言のようにも、小夜子に語りかけているようでもあった。一伽が向き合うキャンバスには深い青が広がっている。オレンジや黄色の魚が泳ぎ、ピンク色の珊瑚や白い貝に彩られている。

 やっぱり海の絵だ。

 一伽は昔から海の絵が好きだった。

 海に行ったことも潜ったこともないだろうけれど、彼はいつも海の絵を描いていた。描いているモチーフは子供の頃から同じなのに、まったく同じ絵は一枚もない。

 小夜子と一伽は幼馴染だ。

 家が隣で、小学校に入る前からいつも一緒に遊んでいた。

「いつも似たような海の絵ばっかり描いて、飽きないの?」

 多分、以前にも何度かしているだろう質問を、小夜子は一伽に投げかけた。一伽は筆を動かしながら即答する。

「飽きないよ。海の絵を描いていると落ち着くから」

 この答えだって、何度聞いただろう。

 一伽は昔から変わらない。

 日々人生を楽しんでいるように見える。

 彼がつまらないと思うことは、きっと退屈だけだろう。

 絵を描いたり楽器を弾いたり、歌ったり、詩を書いたり、本を読んだり、彼は好きなことをいくつも持っている。

 多趣味とは違う。一伽には、今を楽しく生きようとしている節がある。享楽主義的なのかもしれない。それは彼の持つ性質の大部分のような気がする。

 その性質には、おおよそ切羽詰まった理由がある。

 小夜子は一伽の痩せた背から目を逸らした。

 お見舞いに持ってきた花をずっと持っているわけにもいかない。小夜子は室内を見回す。

 清潔感のある個室だ。白いカーテンに囲われた白いベッドが部屋の大部分を占めている。サイドテーブルや棚には、長い滞在を示す生活感が色濃く反映されていた。タオルや食器などの生活に必要なもの以外は、詩集やスケッチブック、絵の具や小説などが収められている。

 一伽はもう半年以上も、この病棟の個室に入院していた。

 子供の頃から一伽は心臓が弱かった。

 身体を壊して入院。元気になったら退院。そのうちまた入院というのを、断続的に繰り返していた。

 学校に行き、友達と外で遊んだりすればたちまち熱を出す。クラスメイトとの触れ合いや登下校中に病を拾ってしまうこともあった。数ヶ月から半年以上の入院のために学校を休むことも、一伽にとっては珍しくないことだった。

 彼の生活の中心は、いつも病院のベッドの上だ。

 彼が享楽的に過ごすのも、いつ死ぬともしれない人生をせいいっぱい楽しむため。小夜子はそう思っている。

 一伽から実際に聞いたことはない。

 彼はそうした真面目な話を小夜子にしないのだ。小夜子の方から持ちかけても、のらりくらりと躱して話を変えてしまう。そうした話題を避けているのかもしれない。

 棚に仕舞ってあった花瓶を見つけ、花を活けてから備えつけの洗面台で水を注いだ。

 白い陶器の花瓶。一伽が子供の頃から使っている、入院のときばかりに使われている花瓶だ。外に出られない我が子を憐れんだ彼の母が買ったものだ。子供の頃から見慣れた花瓶に花を活けると、やるせない気持ちがさやかに胸に渦巻く。

 今日は庭に咲いていたカスミソウを少し摘んで持ってきた。

 小さな白い花がぽんぽん、無数に咲いている宿根カスミソウ。素朴で清楚で、あまり特徴のない花。小夜子は一年草の、もっと花が小さな種類が好きなのだけれど、花瓶に飾るのなら宿根カスミソウの方が綺麗に映える。

 活けた花をサイドテーブルの上に置いた。

 ずっと絵を描いていると思っていた一伽が、いつの間にか手を止めてこちらを見ていた。

「今日はカスミソウだね。いつもありがとう」

 一伽は生白い顔色に弱々しい笑顔を浮かべた。

 幼稚園から大学まで、彼はずっと一緒の友人だった。

 外で走り回る遊びはできなかったけれど、室内でテーブルゲームをしたり童話集を一緒に読んだりしたことをよく覚えている。

 学校で会う機会は一伽の入院期間が増えるにつれ減っていったけれど、こうしてお見舞いにも来るので交友が疎かにはならなかった。お互い二十歳になった今でもそれは変わらず、一伽が入院しているとき、小夜子は時間を見つけては病室を訪れる。

 調子がいいときはこうやって、彼はよく絵を描いている。

「小夜ちゃん」

 一伽は昔から、小夜子のことをそう呼ぶ。

「今日は授業大丈夫なの?」

 凪いだ海のような穏やかな瞳が、小夜子へ向けられる。

「平気よ。たまたま一限目と二限目が休講になったの。だから午前中は休み」

「へえ、小夜ちゃんが午前中休みだなんて珍しいね」

 小夜子は必要単位よりも多めに授業を取っているので、授業が毎日みっしり詰まっている。父は感心するが、母は「そんなに詰め込んで大丈夫なの」と言う。小夜子は授業以外でも勉強漬けだからだ。

 妹には、もっと外見にも気を遣えばいいのにとよく言われる。けれど外見にお金や時間をかけるより、参考書でも買ってもっと勉強したいと思ってしまうのだ。

 周囲のお洒落な女の子たちに比べると、小夜子は地味だ。

 ストレートの長い黒髪、シンプルな水色のワンピース。メイクは妹にせっつかれて最近始めたばかりでまだ慣れない。出歩くための最低限の格好をする。自分のそうした在り方を、小夜子は恥じたことはないのだけれど。

 一伽は、こんな小夜子をどう思っているだろう。

「ねえ、一伽」

「なに?」

 一伽は笑みを浮かべたまま、瞳を細める。

「大学を出た後はどうするか考えているの?」

 まだ大学二年生。まだ将来のことを考えなくても、十分悩む時間はある。けれど早く考えて損はない。

 小夜子には夢がある。いや、将来に明確な目標がある。

 それを叶えるためにひたすら勉強に打ち込んでいる。

「小夜ちゃんは、医者になりたいんだよね」

 小夜子は頷く。一伽には以前教えたことがある。

「僕は、今絵を描いているのが楽しい。だから、それ以外のことはいいんだ」

 あっけからんと一伽は言い切る。何でもないように笑う一伽の態度に、いつも無性に腹が立つ。

「ずっと好きに絵を描いていられるわけじゃないのよ。これからどんな仕事を選んで生活するか、もっと考えなきゃ」

 一伽の趣味は、どれも趣味の域を出ない。

 絵を描いても詩を書いても、楽器を弾いても、それは仕事にするためのものではない。自分が楽しむためのものだ。趣味を楽しむ人に対して、それを仕事にするべきだとは決して思わない。

 ただ、その趣味を楽しみ続けるために、安定した生活をする術を模索するべきだと思う。それなのに、一伽は目の前のことに気ままに打ち込んで、これからのことを考えてもいない。

 一伽は、ひたすら今を生き続けている。

 いつ死ぬかわからないから、明日は生きていられるかがわからないから、今のこの一瞬を悔いなく生きている。

 一伽の在り方は、病弱という境遇から形成された価値観だから、そうした考え方を持つことが間違いだとは思わない。

 けれど、小夜子の目には。

 将来を諦めているように見えるのだ。

 ――どうせ長くは生きられないから。

 ――きっと遠くない未来には死んでしまうから。

 一伽の態度には、そうした諦めが含まれているように感じられる。だから苛立ってしまう。そうなると、どうしても自分の感情を抑えられない。

「もっとこれからのことを考えて」

 自然と声音が硬くなる。

 一伽はそんな小夜子の怒ったような顔を見上げて。

 弱々しく笑った。

「小夜ちゃんは、昔から真面目だね」

 どれだけ言葉で押しても、一伽には届かない。

 小夜子がどれだけ訴えても、一伽はいつも笑う。笑って躱して、さざ波のように引いてしまう。

「そんなことどうでもいいのよ。私が言いたいのは――」

 病室の扉がノックされる。

 途端に、言葉とともに吐き出そうとした苛立ちや熱がすっと引いてしまう。完全にタイミングを逃してしまった。

 一伽が声をかけると、白い扉が開いた。

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