第27話 通りすがりの

 「なによこれ!!! なによ!!! これ!!!!」


 お父さんと再会した刹那、私は家を飛び出した。


 凄まじい勢いで蘇る記憶から逃げるように、私は、走り続けた。肺が限界になるほ

ど走り続けた私は、海浜公園の砂浜に、沈み込むように膝を付け、戻った記憶に戦慄

し、涙を流した。


 白木が、私の、『あの日の』記憶を消した。


 天気のいい、あの日。


 家出少女だった私を泊めてくれた女子大生。


 「私、授業があるから、そのまま留守にしてていいよ」


 出会ったばかりの彼女は、私を信用しきった様子で、外出した時も私を家の中に居

させてくれた。


 その好意は、悪意だったことを知らずに。


 別れようと思っていた恋人と同居している彼女の家に、そいつが急に押しかけてき

た。


 合鍵を返しに来た、と彼女が不在の時に現れたその男は、不良然とした男で、私

は、布団の中に隠れた。


 しかし、近づく男の足音は次第に大きくなり、


 「みぃつけた」


 急に、私を覆うように両手を床に押さえつけられた。


 「ちょっと、なにっ…!」


 頬を張られた。


 「叫んだり、暴れたりしたら、ぶっ殺すからな」


 脅し文句を耳元で囁き、カッターナイフで、私の腕に薄く切れ目を入れ、ニヤリと

不敵に笑った。


 それ以上は、声が出なくなった。


 「いやあ、俺たち、グルでさ。家出した女とか、家の中が嫌いな女を、同性である

あいつが安心させて家に泊めてから、昼になったら俺が急に襲い掛かれるって遊び

を、かれこれもう半年はやってるからな。…今日も、楽しませてもらうってわけ」


 声が出ない代わりに、涙が目から側頭部を通過した。


 「えっ!? お前、初めてなの? …まあまあ、痛くしねえから、安心しろって、

いっひひ」


 彼は私の服を脱がし、その数瞬後に、想像以上の痛みと気味の悪い感触が、一ヶ所に走った。


 お父さん…。


 厳格な父に反発しようと、学校をさぼったり、髪を染めたり、道を外しそうになっ

た私を何度も引っ張って引き戻し、引っぱたいてくれた父の顔を思い出す。


 「お、父さん…、た、す、け…」


 針にでも刺されているように痛くて、今にも悶絶しそうで、泣き叫びたい気分だっ

た。


 一時間後。


 「じゃあな、また遊ぼうぜ? また会えたらな」


 男は、あっさりと消えていった。


 再び、涙が流れだした。


 五分くらい、全裸の状態であおむけになった私は、そのまま服を着ることなく泣き

続けた。


 そして、男がまた来る恐怖と、私をだましたあの女の顔を見る恐怖に駆られた私

は、慌てて服を着て、荷物を整理し、急いで部屋を出て行った。


 家には、すぐに帰れなかった。


 事情なんて、誰にも話せなかった。


 家族も、友人も、絶対的に信頼できるような人間なんか、この世にはいなかった。


 知らない男に身包みをはがされ、あんなことをされてしまったのを、誰に話すこと

が出来るだろうか。


 商店街を、ふらふらとさまよいながら辿り着いた本屋。賑やかな通りの喧騒を遮断

するように静かな店内は、すさんだ心をいくらか落ち着かせた。


 棚に並べられた文庫本のタイトルを眺めながら、ああ、この本はきっとこんな話な

んだろうか、想像できないタイトルで少し読んでみようかな、とか思いながら、あと

十分したら実家に帰ろうと考えていた。


 三分ほど早く、本屋から出ていたら、私は大きな傷を負ったまま、誰にも打ち明け

られずにそれを抱えたまま、家に帰っていたかもしれない。


 私を救ったのは、通りすがりの『チカラ』。


 不思議な感覚だった。


 今日一日が、何も思い出せなくなった。


 そして、父親の記憶が、脳からごっそりと抜け落ちていた。


 どうしてこんなところにいるのだろう、とそればかり考えて立ち尽くすばかりだっ

た。


 ただ、嫌な予感だけは残っていて、泣いた後のような感覚が目のあたりからして、

普通ではない何かが私に起こったのだろうか、と私の足を実家へと向かわせることに

なった。


 それにしても、変な人だった。自分が持ち込んだ本を、ちょうど隙間の空いた本と

本の間に差し込み、今度は違う本を抜き取り、あろうことかそれをレジに持ち込ま

ず、老人の店員らしき人物の目を盗んで店を出たころには、この日の何もかもを全て

を忘れていた。


 「美奈ちゃん! どこに行ってたの!? お父さんも、心配してたわよ?」


 「あの人が? どうせ自分の名誉が傷つくことを心配してたんでしょ? 私の身な

んか案じるわけないじゃない」


 「そういうこと言わないの!」


 「…ごめん…なさい」


 家出をした後ろめたさと、珍しく父親のように怒鳴るお母さんに驚き、力なく謝る

ことしかできなかった。


 実家を帰った時には、父親は、東京へと単身赴任となり、今日まで再会することは

なかった。


 だから、私は、父親の存在を思い出せないまま、夏休みとなり…。


 手掛かりを、探すことにした。


 あの町の、市営地下鉄の一日乗車券を財布に入れっぱなしだったのが幸いだった。

あの日の全てを思い出した今にすれば、それは不幸だったのだけど、どうせ父親の顔

は遅かれ早かれ再び見ることになるのだから、それが一概に悪いとは言えないけど。


 それで私は、こんなところで、一人で跪くことになったのだ。


 白木は、どこかで事情を知ったから、私にあんなことを言ってまで、引き留めよう

としてくれたのに、そんな彼の優しさを拒絶してしまった。蔑ろにしてしまった。


 「ごめんなさい…」


 白木。


 お父さん。


 家を飛び出して、知らない人間に騙されて、犯されて、挙句には私のことを友達だ

と認めてくれた人の頬を打って。


 最低だ…。


 「もう、いやだ…」


 涙が、再び頬を流れた。


 波打ち際に歩み、海面に片足を付けると、心は、だんだん…。


 死へと向かっていった。


 誰にも愛されないようなこんな海も。


 私を騙したあんな町も。


 全部。全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部。


 「忘れてしまえ」


 沈む夕日を追いかけるように、私は前へ、前へと流れに逆らいながら海を歩いた。


 「殺してしまえ」


 どこにも帰る場所のない私を、飲み込んでしまえ。


 海が、肩まで浸食した。


 その時。


 後ろから、手を引かれた。


 水圧に逆らうように、強く、力を込めて思いきり引っ張る『彼』が、目を充血させ

て、これ以上は進ませまいと、私の手を掴んで離さなかった。


 「私…、私…」


 「もう、何も言わなくていいから」


 「うっ…、うああああああああああ!!!」


 情けなく、みっともなく、無様に、私はオレンジと紫のちょうど中間の空の下、私

は彼の胸に倒れ込むように縋り付き、死にたいという気持ちが少しでも外に出て蒸発

するよう、祈るように大声でむせび泣いた。


彼らに、全てを話した。






 「大丈夫?」


 「うん、私の方は大丈夫だよ!」


 駅のホームで、私は電車に乗り込む二人を見送る。


 昨日、海に沈んでしまいそうだった私の手を引っ張った白木は、バツが悪そうな顔

で先に電車に乗り込み、泣きじゃくった私を大丈夫だと抱きしめてくれた桃井ちゃん

は、再び私を包み込むように抱きしめた。


 「また会おうね。連絡する」


 「うん…、ありがと」


 彼女は、彼を追いかけるように電車へ乗り込んだ。


 そして、出発の時。


 控えめに手を振る白木と、私を勇気づけるように大きく手を振る桃井ちゃんが、ゆ

っくりとした初速を徐々に速め、手を振る私の元を、気付けばあっという間に走り去

っていった。


 「ありがとう…」


 死ぬほど忘れたい記憶から、私の命を守った二人は、自分たちの町へと帰ってしま

った。


 苦しくて、あの時のことを思い出すたびに、吐き気がして涙が滲み出るような思い

だけど…。


 「何とか、生きて見せるよ。次に会う時には、私も、桃井ちゃんも、白木も、心の

底から笑っていられたら、いいな」


 声に出しても届かない声を、それでも私は、これから強く生きるという決意を込め

るように自分に言い聞かせた。


 『死に至らないから大丈夫だ』


 忘れもしない、十歳のころ、教室の中で暴れる男子たちの一人にぶつかり、頭から

血を流した時も、冷淡で厳格な父親は、痛みと死の可能性に泣き震える私に厳しい口

調でそう言った。


 「弱っちい女に育てられた覚えはないんだから」


 浜風の磯の香りを大きく深呼吸して、私は父の帰ってきた家へと、歩き始めた。

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