第32話 茶室にて 今川の印
亭主の義元が自ら碗を片づけ、一旦茶道口から水屋に出、再び戻ってきたときは
お湯になるまでの間、客には菓子が出された。義元は頃合いを見て新しい茶碗や薄茶器を持ち出し、
客四人に茶が点てられ、それぞれが茶の味を楽しんだ頃を見計らって義元が口を開いた。
「先ほど北条の話になったが、甲斐の武田は各々どう思われる」
しばらく間が空き、主客の朝比奈親徳が次を受ける。
「やはり、最初は葛山殿の見立てですか」
これを聞いた氏元は少し頭を下げ、
「正直、分かりませぬ」
と答えた。
まあな、と義元は心の中でうなずく。
(北条もそうだが、武田の大将もすぐ分かるような動きを取ることはあるまい)
今川と北条、そして武田は三国同盟を結んでいる。義元の軍師といえる
つまり、相甲駿三国同盟は、それぞれの婚姻関係が実効力となっている。
このことによって今川は三河から尾張へ、北条は関東制圧へ、武田は信濃制圧から長尾景虎との戦いと、それぞれ背後の心配をせずに専念することが可能になった。しかし、あくまでも油断しなければ、の話だ。三国の関係は同盟後も軽い緊張状態が続いている。
「今のところ、これといった動きは見えません。長尾殿も守りはしっかりと固めて上洛したと思われます故、武田殿も今は静観しているのではないかと思われます」
「ということは、長尾が長期に渡り京に滞在していると、武田も動き出すということかな」
三浦正俊が口を出した。氏元は少し口を歪めたがすぐ元に戻すと、
「その可能性は、ないとは言えません」
と無難に答えた。後に言質を問われるようなことは極力避けたいのだろう。彼の立場上、その考えは理解できる。
「うん、そうであろうな。あと備中守に対して聞きたいことはないか」
義元は手なずけるような丸まった声で葛山氏元に話しかけると、三浦、朝比奈の両家臣にそれぞれ目線を配った。二人は無言の会釈でこれに応えた。
「では、この機会に皆の意見を聞こうか」
義元の言葉に客四人は目を向けた。
「先ほど少し話にも出たが、当家も昨年五郎に家督を譲っている」
四人はじっと聞いている。特にお
五郎は氏真の通称で、今川家の嫡男が代々名乗ってきた。
「のう五郎。そろそろ御屋形様と呼ばれるのにも慣れたろう」
薄く笑い、義元は言った。氏真は「は」と息を吐くような返事をし、頭をペコリと下げた。親徳、正俊、氏元の三人は、何の話が始まるのか、と義元に顔を向けている。
「まあそこでだ。そろそろ五郎に印を譲ろうと思う」
ほう、と朝比奈親徳は声を上げた。三浦正俊は小さく口を開け、葛山氏元は逆に少し目を細めた。今川氏真はやや体が固くなっている。
いずれにしても三人の思いは「いよいよか」ということだろう。
印を譲るということは、今川家の当主としての地位を名実共に継承するということになる。
戦国武将が書状を書くとき、花押という独自のサインを使う
どちらも現在と同じく自分を証明するためのものだが、鎌倉や室町の武士は花押が主流だったのに比べ、戦国時代は併用している武将が多かったようだ。
この印判状、最初に発給したのは義元の父である今川
そして義元、彼は複数の印判を使った。そのうち一つは僧侶時代の名前『
次は『義元』。これは前年の永禄元年まで使っていたが、氏真に権力を移行しようとしている現在、使用は少なくなっている。
そして三河で松平を吸収し、相模の北条と敵対していた時期辺りから使いだした印が『
天文二十二年(一五五三)に義元が『今川仮名目録追加』を制定した際、「自分の力量をもって、国の法度を申し付く」という文を記載した。印はこれより以前から使用しているが、「律令の如く」つまり「私が法律」という意味合いを持っていたと考えられる。
また、印には「急急如律令」の意もあるといわれている。漢代の中国から公文書の末尾に使われた『急いで律令の如く行え』という言葉だが、怨霊退散という意味合いがある。古くから日本でも使われ、陰陽師などに受け継がれた。この呪文も、義元は意識していたのだろう。
この印、主に義元個人というよりも今川家としての意味合いが強いときに使っていた。
今川家当主の印といえる。
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