第1話 ある終わりと始まりの物語
ここは日本のとある地方都市
国道沿いのファミリーレストランは平日なのに込み合っていた。
このレストランで最も安い、フレンチフライとドリンクバーのセットを注文したのは4時間前。長時間の滞在に、苦情の一つも寄越さない日本のファミリーレストランは、国際社会に於いての日本そのものに思えた。
俺はコンビニで買った週刊誌のグラビアを眺めながら、その若くて大きく柔らかそうなおっぱいの感触を想像していた。
おっぱいの感触。
走行中の車から手を出して感じる風圧は『ナビエ・ストークス方程式』というので求められる。
それによると時速60キロでDカップのおっぱい、時速100キロでFカップのおっぱいの感触を得られるらしい。
そうか。このグラビアアイドルがFカップらしいから、これを見ながら時速100キロで走行すれば圧倒的な没入感と没乳感が・・・・・・。
「井上さんですね?」突然、男の声がした。
俺はすぐさま雑誌をたたみ、平然を装った。内心はビビりまくっていたのだが。
20代前半だろうか、細身の濃い紺色の背広を身にまとった男は、見た目に反した低い声でそう尋ねた。こんなイケメンの知り合いはいない。
「そうですが、なぜ私を?」
__知っているのか?俺を知っているやつなんてこの町にはいないはずだ。
目の前のイケメンは、さわやかな笑みを浮かべるとほっそりと長い右手を俺に差し出した。
「初めまして。
意外にも普通な名前。
「
『耳なし芳一』がどんなお話かご存じですか?
耳にだけお経を書かれなくて、亡霊からもっていかれちゃう話。
どうして耳に書き忘れちゃったんでしょうね。
哀れだな。そう思いませんか?」
自分の名前に対して大層な執着があるらしい。芳田と名乗る男は、俺の正面に腰かけた。
「なぜ私の名前を?」
俺はもう一度尋ねる。
「ああ、すみません。あなたを探してたんですよ、井上さん。驚かせてしまいましたね。
井上ダイさん37歳、みずがめ座のO型、長崎県出身、独身、昨年ここ盛岡に越してきた。あってますよね。」
芳田はへらへらと話した。
「すいません。アイスコーヒー」
芳田はウェイトレスを呼び止めるとアイスコーヒーを注文した。窓の外は雪が降り続けていた。
「あんた誰なんだ? どこから個人情報を手に入れたか知らないが、急に訪ねてくるなんて、少し異常じゃないか!?」
見ず知らずの突然の来訪者に俺は恐怖していた。
昨年来たばかりのここ盛岡に知り合いなど居るはずもなく、仕事を辞めてからは人との関わりを極力避けてきた。
自宅のアパートにならともかく、わざわざこんなファミリーレストランに訪ねてくるなんて。一体何が目的なんだ?
「悪いが、失礼させてもらう!」
テーブルの端に丸められた伝票を掴むと、俺は立ち上がった。
「ちょっと待って下さい。怪しい者じゃありません。」
慌てた芳田は左手を上げて制止した。
「怪しいやつは皆そう言うんじゃないのか? それに、こんな真冬にアイスコーヒーを注文する奴は信用できない」
「いいから座ってください。冷たいコーヒーが好きなんですよ。それにほら、店内は暖かいでしょ」
確かに暖房は効いていたが、それでも俺にとってはひんやりと冷たく感じられた。どうなってるんだ東北地方は。
「九州の冬はもっと暖かいんですよね。降雪しないとか」
「そこそこ寒いし雪は降る、ここほどじゃないが。てかそんな事より一体何の用なんだ!」
諦めて席に着く。
「ようやく話を聞く気になってくれたんですね。改めまして、芳田です。
芳田は話し始めた。依然表情は柔らかい。
「だったら何なんだよ。」
そう俺は答えた。
13年務めた会社を辞めたのが去年の暮。社内の小さなトラブルがきっかけだった。
納品先からのクレームに対応しきれなくなった後輩が無断欠勤してから、俺の管轄が倍に増えたことに始まった。
休日出勤や連日の残業で、何とか後輩の穴を埋めようと励んでいたが、クレームに逆恨みした後輩は、あろうことか取引先の倉庫に火をつけて、逮捕されてしまった。本社からの連絡に、何が起きたのか、初めは理解ができなかった。
よっぽど頭に来たとしても、放火なんかするだろうか。
信じられなかったが事実だった。それからというもの、取り調べや裁判で、業務は完全に停止してしまった。もともと人手不足の支店内で、歯車はだんだんと崩れていった。
最初に潰れたのは支店長だった。
新築のマイホームをフルローンで購入した矢先に起こった事件だった。監督責任を問われた支店長は、本部からの嫌がらせに耐えられず、体調を崩して休職した。
エリア長は、取引先からの度重なる契約破棄に責任を感じ、鬱病と診断された。少し前まで健全だった職場環境が、たった一人の若手社員に潰されてしまったのだ。
俺も例外ではなかった。
泊まり込みの残業が続いていたある日、突然に髪の毛が抜け始めた。始めは数本だった抜け毛も日を追うごとに数十本と増えていった。
食欲も失せ、日中は急な睡魔に襲われることがあった。
それでも仕事に専念し、なんとか持ち堪えようとした。
だがある日の通勤途中、ホームに入った特急列車に手を伸ばしていた俺は、駅員に引っ張られてホームに倒れた。
触れていれば死んでいたが、俺の意識は会社のデスクでキーボードを叩いていた。現状に頭は回らないまま、「邪魔するな!」と駅員に怒鳴っていたらしい。
どうやら俺にも限界が来ていたらしい。
心療内科で鬱の診断を貰うと、何故だか気持ちが楽になったのを覚えている。
この男は、俺の一体何を知っているのだろうか。
「そうだ、仕事を辞めて半年、貯金も底をついてきた。あんた、助けてくれるのか? そうでなきゃ、宗教の勧誘か? 悪いがそんな余裕はないんだよ。あんたらにお布施をあげるくらいなら、真っ先に小麦粉でも買い込んでうどんでも打つ。粉もんが一番安くて腹に溜まるからな」
そう自嘲ぎみに答えた。
「井上さん、あなた今なんと?」
芳田は目を丸くした。
「だから小麦粉でも買い込んで…」
そう答えると、芳田は話を遮って言った。
「その前です!」
「なんだ助けてくれるのか?」
「宗教です」
「だからそんな余裕はないんだよ!」
なんなんだこの男は!まったくふざけやがって!
もういい。怒鳴り散らしてやる!
大きく口を開いたその瞬間、芳田はまたも遮ってこう言った。
「井上さん。よく聞いてください」
イケメンの表情が初めて硬く真剣みを帯びた。
「あなたに・・・・・・教祖になっていただきたい!」
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