2.鯨岡

「だ・め・だ! 当たり前だろ。このマンションは動物禁止なんだぞ!」

 児童指導員の鯨岡くじらおかが眼をつり上げて怒鳴った。

「そこをなんとか! だってこのマンション、あんたの会社のものなんでしょ? 大家さんとかいないわけじゃん。ここは特例ってことで……」

「ダメだったらダメだ。なんのためにルールがあると思ってる。おまえのわがままでルールが変わるなら、来月にはここは動物園になって居住者ゼロだ」

 鯨岡の態度はびくともしない。長い付き合いだからツカサには無理がわかっていたが、それでもよるちゃんの愛らしい姿を見せて、必死に可愛さをアピールした。

「にゃーん」

「なにがにゃーん、だ。小さければ許されると思うなよ。そんなのはすぐにでかくなって部屋のあちこちにクソをするようになる」

「そういう言い方ないでしょ! いいよあたし勝手にやるもん。イーだ、バカオジラ!」

 〝オジラ〟というのはツカサが鯨岡に付けたあだ名だ。もともと〝鯨岡おじさん〟だったものが、いつしか短くなって怪獣みたいな名前になった。

 しかしこの鯨岡という男、実に怪獣のような風貌をしていた。強面こわもてなのは生まれつきだとしても、鬼瓦の型にはめたような不動の怒り顔をしている。剃り込みを入れた短髪で一九〇センチはある体格もやたらがっちりしていた。脇なんか筋肉のせいでいつも閉まらず、歩く姿もゴリラそのもので周囲を威嚇しまくっている。おまけにダークスーツにサングラスが定番の衣装で、教育関係者――それも児童指導員という福祉の仕事だと言っても信じる人間はまずいない。

「いいかげんにしろツカサ!!」

 ツカサは肩を震わせた。小さい頃からお決まりの――そしていつになっても慣れないその怒号。それに鯨岡の声は〝格別〟だった。

 実は彼の喉元には、なにかでくりぬいたような円形の傷痕がある。本人曰く、喉の腫瘍を切除したときに声帯が傷つき、一時は声を無くしてしまったらしい。そこに機械を入れて修復した結果、独特のかすれと電子的なハモりを持つ、人工的な声になったのだという。

 そして彼が怒鳴ると、まるでハウリングを起こしたスピーカーのように音割れを起こし、極めて不快なのだった。

「今日俺が来たのは猫の件だけじゃないぞ。おまえまた公道でスケートに乗っただろ。あと周辺から不法侵入やら道路への飛び出しやら、苦情が山ほど来ている!」

「でも、しょうがないじゃん。仕事なんだし……。あとインラインスケートはブレーキがついてれば〝ケーシャリョー〟なんだよ。自転車と同じなの」

「んなわけあるか!」

「でも法律だっておかしいじゃん! 馬が軽車両で、車輪のついてるスケートがなんで車両じゃないのよ!」

「屁理屈をこねるんじゃない!」

「どっちだっていいもん。だってあたし日本人じゃないもん。日本の法律じゃなくて外国の法律に従うもん。アメリカじゃスケートは軽車両なんだからね!」

「き、貴様というヤツは……!!」

 ツカサはソファを抱きかかえるようにしてふてくされた。自分でも、無茶苦茶なことを言ってるのはわかってる。だけどスケートのこととか、交通ルールのこととかで口論になると、決まってこんな不毛なやりとりになってしまうのだ。

 鯨岡は、ツカサがまだ小さな頃からつきっきりで世話をしている保護者だった。養護施設を経て独り暮らしをするようになっても、彼は児童指導員という肩書きのままつぶさにツカサの生活を監視していた。

 ツカサだって、それが自分を心配してくれてるからだというのは十分承知なのだが、どうしても素直になれる気はしない。年頃のツカサにとって、反抗期の牙を向ける相手が彼しかいないというのもある。

「ツカサ、猫を捨てろとは言わん。うちの会社にもそういう動物を保護する部署がある。まずはそこに連れて行け。俺だって責任を感じてるんだ。あの仕事を斡旋したのは俺だからな」

「……うん」

 鯨岡がツカサに仕事を紹介しているのは事実だった。鯨岡自身も依頼者に会うことなく、お仕事募集サイトなんかで拾ってくるだけだから今回のようなトラブルも起きる。確かにペット探しの依頼ばかりを引き受けてくるのは不自然だと思うが、なんでも屋を立ち上げたとはいえ未成年のツカサが直接依頼者とやりとりをしても、うまくいく確率は低いだろう。

 今日の猫の飼い主のような、なんとも言えない疑いの眼差しを見てしまうと、ますます自信はなくなってくる。

「今日だけは特別に家に置いてもいい。だが明日になったら必ず届けに行けよ。会社には俺の方から伝えておく」

「……わかった」

 クッションに顔を埋めたままツカサが言うと、鯨岡はかすれたため息をついてから、強めにドアを閉めて部屋を出て行った。



 よるちゃんにエサをやって、シャワーを浴びるとツカサは洗面所の鏡に向かって髪をとかした。安物のブラシは、クセの強い髪に引っかかってなかなかスムーズには進まない。

 ツカサの肌は褐色だったが、しっかり日焼けした日本人にも近い色の人はいる。それでも顔のつくりはエキゾチックで鼻や目元の彫りが深い。ちなみに瞳の色素は薄く緑がかっていて、髪は明るい栗色だ。

 国籍がないことからも、両親が外国人なのは間違いなさそうだった。それでも日本人とのハーフによくある顔立ちだから、ますます混乱する。親の片方が日本人なら、その子は自動的に日本国籍を有するからだ。

 悩んでも仕方がないことだが、自分は出所不明の一品ものだという自覚はある。

 なんというか、この国では工業製品がもてはやされることをツカサは肌で実感していた。性能よりも、デザインよりも、まずはラベルが必要なのだ。〝メイド・イン・ジャパン〟。いやそうでなくても〝製造国〟が明らかな方が、そうでないより安心感を与えるだろう。

 ツカサはバスタオルを巻いたまま、よるちゃんを抱きかかえて頭を撫でた。

「おまえもあたしと一緒なのに、一緒に住めないのはなんでかなぁ」

 ツカサはそのままソファに座ってぼんやりとテレビを見た。

 この部屋にあるものはすべて、ツカサではない誰かが彼女のために買ったものだ。

 鯨岡も所属しているWOP財団には、〈シルクスレッド・プラン〉と呼ばれる弱者支援プログラムがある。孤児であるツカサはそのプログラムに支えられ、今まで生き抜いてこられたと言っていい。

 自分がいつそのプログラムに選ばれ、支援を受け始めたのかは知らない。生まれついて両親を知らず、いつも他人の手に頼るしか知らなかった彼女は、その手がどの組織や団体に属しているかについてあまり興味がなかった。

 だけど中学を卒業して、希望するままに独り暮らしとなった今は、自分の特異な環境に戸惑うこともある。里親ではなく、ずっと指導員がそばにいて、遠回しに自分を見守っているという状況も不思議だった。生活のためのマンションがすぐに用意され、調度品が勝手に運ばれ、そして毎月少額だが生活費ももらえている。それは実に手厚い生活保護だった。小さめではあるが、傷一つない新品の液晶テレビを眺めながら、ツカサは自分の境遇に後ろめたさを感じていた。

 ここまでしてくれるなんて、自分はどこまで〝弱者〟なのだろう。宝くじの当たったような幸運を、自分のような後ろ盾のない子供が受けていいのだろうか。

 鯨岡に対するわがままも、本当は間違っているとわかっていた。だけどツカサはこだわるのだ。本当に自分の力で生活し、本当に自分のしたいことを貫き通したい。

 そして誰かの役に立たなければ、自分の居場所はこの世界にはないのだと――。

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