1-1 銃声で台無しの週末
流れていた曲がスローテンポのラブソングだったからだろうか。インペリアルホテルの屋上を広々と使ったバーに、その銃声はよく響いた。
たった一度の銃声だ。しかし、セントポールの中心街で平和に慣れ親しんだ善良な男女が耳にするにはあまりに凶悪な音だった。たちまち悲鳴と怒号が混ざり、一杯数十ドルのカクテルが床に落ちて割れる。客もウェイターも厳しい顔で左右を窺い音の出所を探るが、奇妙な表情をして互いに見つめ合うだけで終わった。
銃声は聞こえたが、武装した人間が何処にも見当たらないのだ。状況が不透明な中、インペリアルホテルの従業員は優秀で、冷静に客を避難誘導していった。警察への通報も既に完了しているだろう。
従業員を捉まえて、テロじゃないから大丈夫と教える気にはなれなかった。避難誘導に従って客がぎゅうぎゅうに並んでいるエレベーターホールの裏で、アリシアは深く息を吐いた。横に空調の室外機が並ぶだけの侘しい空間で、バーの男女を盛り上げたネオンライトも届かない。清掃員だってこんな裏手には来ないだろう。どうせ人目につかないのだからこのまま室外機たちと朝を迎えたいところだが、そうも行かない。
アリシアはバーの客に交じってインペリアルホテルから脱出しなければならなかった。
「いったあ……」
弱音が口から零れたが、ぐっと奥歯を噛み締めて撃たれた左脇腹の治療を終える。治療と言っても消毒液をぶちまけてガーゼと包帯で圧迫しただけの荒い手当てだ。血がじわじわと滲んでいるが、歩けないほどではない。根性、根性……とぶつぶつ呟きながらすばやく着替えを済ませたアリシアは、ぱっと表情を切り替えた。ひらりと小窓から化粧室に体を滑り込ませる。他の客はいない。
アリシアはあくまでお洒落という体でハンチング帽子をかぶった。髪の毛のウェーブや前髪を気にするようにして歩けば、化粧直しをしていた女の出来上がりだ。そうして不安そうに化粧室から現れたアリシアを、ウェイターはすぐに見つけてくれた。
「お客様! こちらです」
「あ、えっと……? これは一体」
「詳細は不明です。一度バンケットホールでお待ちいただきます」
小走りで駆け付けたウェイターは、丁寧ながら有無を言わせずアリシアをエレベーターホールの客の最後尾に加える。まだ避難が完了する前でよかった。ブロンドヘアの若い女性客なんてバーにはありふれている。
エレベーターホールで、目の前に並んでいた女性がぶるりと震えた。思わずといった様子で肩を抱く男性はぎこちなく、おそらくまだそういう関係ではないのだとわかる。
「怖いわ……銃声だなんて……」
「大丈夫だよ、ほら、警察も来たみたいだ」
男性が優しい声音で微笑むと、女性もほっとした表情を浮かべた。
いくつものサイレンの音が鳴り響いている。高層ビルの屋上は、案外地上の音がよく聞こえるものだ。しっとりしたラブソングと混ざってどうも虚しい。高層ビルの間を吹き抜ける風で、アリシアのブロンドヘアが踊った。今更、サイレンに心乱されたりはしない。
エレベーターに乗る間際、アリシアは一度だけ振り返った。インペリアルホテルの真正面にそびえる高層ビルに大きくK&Kの文字が輝いている。K&K本社ビルである。
「……」
じっと目をすがめても、屋上に狙撃手の姿はなかった。いつまでも留まっている道理はないが、まだそこにいるような気がしてしまう。
「——お客様」
「は、はい」
従業員の声に促されて、すし詰めのエレベーターに加わる。目深にかぶったハンチング帽が少しでも周囲の注意をアリシアから逸らしてくれることを祈って、じっと階数表示のパネルを見つめた。隣の客と肩どころか腕や胸まで触れ合う距離で、ただでさえ腹から血が流れているというのにさらに地獄のようだ。
エレベーターはバンケットホールのある二階で停止した。アリシアと共に客が下りた先は、廊下も含めて人で溢れていた。座れる場所やもたれかかれるような壁が先客で埋まり、僅かな休息もできない。
あまりの痛さにだんだんと苛立ってきた。立っているだけで褒めてほしいのに、たまに誰かと肩が触れ合い傷口に響く。おまけに買ったばかりのハイヒールだ。クラッチバッグと同じバーガンジーが黒のタイトワンピースに完璧に合っている。今秋お気に入りの靴になるはずだったが今はそれさえ憎らしい。
スニーカーで出入りするような店ではないことは分かっている。ただ、アリシアだって脇腹を銃弾で抉られたまま歩く破目になるとは思っていなかった。奥歯を噛み締め、腕を組むことで痛みを耐え忍ぶ。じわじわと額に汗が滲んでも、ハンチング帽が吸収してくれるので周囲を気にする必要はなかった。
間もなく、込み合うバンケットホールに館内アナウンスが状況を告げた。ざわめく客も顔を上げ、注意深く耳を済ませる。
『——お客様にお知らせいたします。先ほどの銃声に関しまして、市警察より安全確認が完了したとの連絡を受けました。繰り返します……』
要するにテロではないので避難は解除ということらしい。すぐさま出来上がった帰宅する客の流れにのって、アリシアもさっさとインペリアルホテルを後にすることにした。もたもたして市警察に目をつけられたくはない。
インペリアルホテルの正面には多くのパトカーが並び、三十三番通りの通行止めを行っているところだった。サイレンこそ止まっているが、赤と青のパトランプがくるくると回り目に悪い。K&K本社ビルを取り囲み、警備員や従業員に事情聴取を行っている横で、ドローンも飛び交っている。標準搭載されたカメラに映らないよう、アリシアは足を早めた。
銃声から市警察の安全確認終了まで、やけに短かったことが気になった。K&K社の警備員が狙撃していたならその事由を深く調査し時間がかかるはずだ。そもそも非認可の銃だったわけで。
K&K社が何かしらの方法で狙撃手の存在を隠したように見えるし、だとすれば後ろ暗い何かを抱えているように思えてならない。
アリシアは三十三番通りを西に進みながら、露店の前で足を止めた。気だるげな中年の店員がくわえたばこで携帯を操作している。画面に映った昨晩のサッカー試合を真剣な目で見つめているので、まだ結果は知らないのかもしれない。後半十分、青いユニフォームの人気選手が繰り出したロングパスが見える。あと五分もすれば試合の流れを変える得点が決まるのだが、そこまで店員を気遣ってやる義理はない。ミネラルウォーターを購入して、いい加減に鎮痛剤を飲みたかった。
「おじさん、これ頂戴」
片耳にイヤホンをつけた店員はじろりとアリシアの手元に目をやった。ミネラルウォーターと清涼カプセル、おまけに赤ワインのボトルが収まっている。日曜の夜中に中心街をうろついているのは馬鹿な若者とワーカーホリックだと相場が決まっている。タイトワンピースで露店のワインを買う女は完全に前者だ。
「……嬢ちゃん、飲みすぎには気をつけな」
「ありがと~」
アリシアはへらへらと軽薄に笑って、武骨な手に紙幣を押し付けた。ちょっと雑なくらいで丁度いい。
「まいど……タクシー呼ぶかい」
「大丈夫大丈夫」
ゆらゆらと揺れながらワインを大事に胸に抱える。店主はやれやれと肩をすくめただけで、サッカー観戦に戻った。間もなく得点の場面になったのか、歓声があがった。きっと明日には夜中の女性客なんて忘れているだろう。
歩きながらクラッチバックに入れていた鎮痛剤をミネラルウォーターで流し込んだ。単純に喉も乾いていたので、ぐいぐいと水が減っていく。ペットボトルを閉めようとしてその口が綺麗だったので、もう少し真面目に誤魔化そうと思い直した。中心街で遊んでいたなら、グロスをしていないなんてあり得ない。
アリシアは三十三番通り沿いのベイサイドガーデンに寄った。ベイサイドガーデン入口の公衆トイレは混んでいるが、敷地に入り込んだ場所のトイレは閑散としている。建て替えたばかりで小綺麗なので、ワインを口にするのも抵抗はなかった。
何度か口をすすぐと香りが体につく。本当なら一気に飲んでおきたいところだが鎮痛剤との飲み合わせが恐ろしいので数滴に収めた。いつの間に鎮痛剤が効きはじめたのか、じわじわと指先まで温かい。アリシアは最後に鏡を確認した。化粧のくたびれ具合はいい感じだが、やはり何もつけていない唇が浮いている。さっと濃い目のグロスで仕上げて、ベイサイドガーデンの目につくベンチの上でようやく腰を落ち着けた。
「はぁ~」
疲れを凝縮した声が、口から零れる。ベンチの冷たさが疲れ切った体の火照りを癒してくれた。ベイサイドガーデンの見どころである池や白鳥のモニュメントには遠く、寂しいベンチだが、遠くに見える街灯や銀杏のさざめきが心地いい。
一度座ってしまうと、どっと疲れが押し寄せた。今日のアリシアは頑張った。本当に頑張った。撃たれてもちゃんとやり遂げたのだから、少しベンチで休むくらい許してほしい。横になっていてもワインの香りの女はただの酔っぱらいだとしか思われない。明日は仕事だったが終電も諦めた。
芝生を駆け抜ける秋の風にそっと目を閉じた。痛みが和らいだ一方、副作用で眠気に襲われる。それはもう体だって回復したいだろう。どうせタクシーを使うなら、一時間くらい寝てから帰っても問題ない——。
——そのとき眠りかけの脳が知らない声を捉えた。
「……すみません」
「……」
アリシアの耳には届いていたが、目を閉じたまま口を結んだ。相手にする気力が残っていない。どうか放っておいてほしい。
「あー……お姉さん、大丈夫?」
若い男の声だ。諦めて去ってもらえるように寝たふりを続けた。
「……、ぐう」
「こんなところで寝ると危ない、んだが……」
寝たふりは通用しなかった。男は軽く肩を叩いて、起きるよう促してくる。
「弱ったな……」
「……」
なかなかめげない男に、アリシアは薄目を開けた。酔っぱらいを放置できないお人好しがどんな顔をしているのか、拝んでやろうと思ったのだ。
そして結果として、さらに目を見開くことになる。
「……あ、よかった、起きたか」
それはそれは顔の整った青年が、アリシアに微笑みかけた。青みがかった黒髪に、深緑の瞳が爽やかである。ついでに、ワイシャツの上からでも分かる厚い胸板と日焼けした首筋がセクシーだ。腕時計や靴はブランド品で、さぞやいい暮らしをしているのだろう。
王子様のキスで目を覚ます、なんて童話を思い出した。幼い少女が夢見るような完璧なストーリーだ。目が覚めたら王子様が自分に夢中で、二人は幸せに暮らしましたとさ。
「……なるほど、夢ね」
妙に納得してアリシアはあっさりと意識を手放した。現代版王子様と出会えるなんて、夢でも嬉しい。
「え? あ、ちょっと!」
王子様の抗議の声は徐々に遠のいていった。
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