第16話:落胆

 王子稲荷社までは、途中で休憩もあったので、結構時間がかかりました。

 明治になって蛮行された神仏分離令の前なので、王子稲荷社は王子権現と一緒に祭られていました。

 思っていた以上に広大で、とても賑わっています。


 参詣の人々がとても多い影響なのか、近くには江戸の郊外とは思えないくらい、多くの茶屋が立ち並んでいます。

 これが門前市をなすという状況なのでしょうか。


 大名家の下屋敷や旗本御家人の屋敷も多く、辻番所に助けを求める事も可能です。

 久左衛門殿が余程の馬鹿でなければ、事前に辻番所に人をやっているでしょう。

 まあ、今までの道筋にあった辻番所や木戸番小屋、自身番屋では番人や番太が表にでて見張ってくれていたので、十分手配りしてくれているのでしょう。


 お登勢さんが駕籠脇で話してくれましたが、近くに巣鴨村や駒込村があるというので、切絵図と現代の場所を一致させようとしたのですが、無理でした。

 ただ思い出したのは、この近くに江戸四宿の一つ板橋宿がある事です。

 日本橋から始まる中山道の宿場町の一つで、とても栄えていたのが板橋宿です。

 こんな時でなければとても興味を持ったことでしょう。


「姫様、ここからは駕籠を降りて歩いてもらわなければなりません」


 お登勢さんが駕籠脇から声をかけてくれます。

 老中の養女であろうと、神仏の前ではただの人間です。

 社の前まで駕籠で乗り付ける、無礼が許されないくらいは知っています。


「はい、降りて歩きます」


 私は自分のスニーカーを駕籠の中で履いて出ました。

 何時襲われるか分からない以上、慣れない下駄や草履など履けません。

 幾らなんでも山門の中で襲ってくるとは思えませんが、相手はあの一橋と松平定信がですから、絶対に大丈夫だとは言い切れません。

 そんな常識がある奴らなら、徳川家基を毒殺したりはしませんから。


「虎太郎は二人連れて物見に行け、私は殿を固める。

 当麻殿達には姫君の両脇を固めてもらいます」


 久左衛門殿がそう命じると、虎太郎と呼ばれた若侍は少し悔しそうな顔をしましたが、大切な両脇を外部の人間が護るのですから当然でしょう。

 百七十センチを超える長身と、筋肉の塊のような体つきは勿論、顔がとても似ているので、虎太郎と呼ばれた若侍は久左衛門殿の息子なのでしょう。


 田沼家の侍と女中、当麻殿と門弟三人に護られて、私は御稲荷様の社まで歩いたのですが、残念ながら鳥居を潜っても何も起きませんでした。

 社の前で額づいて請い祈り願っても、元の世界には戻れませんでした。

 情けない事に、また嗚咽が込み上げてきて我慢できませんでした。

 大きな泣き声を上げないようにするだけで、精一杯でした。


「姫様、大丈夫でございます。

 稲荷社はここだけではありません。

 まだ他にも多くの稲荷社がございます。

 その全てを一緒に回らせていただきますから、もう泣かれないでください」


「その通りでございます、姫様。

 殿からも、姫様が望まれるなら、蝦夷であろうと御供せよと命じられております。

 どこであろうと御命じください」


 そうですね、諦めてはいけませんね。

 一番可能性があるのは田沼家上屋敷にある社ですが、私がこの世界に来る直接の原因になったのは、伏見稲荷大社です。

 こうなったら、伏見稲荷大社まで行くしかないのかもしれません。

 よくよく考えれば、私がこの世界に来る直前に会った、赤い着物の童女が直接の原因としか考えられません。

 

 田沼意次は私の事を神使と言いますが、あの時の会った童女こそ神使だったのではないでしょうか。

 私はあの時、童女に誘われるように鳥居を潜ってしまいました。

 しかも鳥居を普通に潜るのではなく、右左中とおかしな潜り方をさせられました。

 よくよく考えれば、あの可笑しな潜り方が原因なのかもしれません。

 

 ですがあれを再現するには、元の世界の伏見稲荷大社と同じだけの鳥居が必要になってしまいます。

 何としても元の世界に戻ろうと思うのなら、田沼家上屋敷の社に前に、同じだけの鳥居を再現させるか、伏見稲荷大社に行くしかないですね。


「一度屋敷に戻ってください。

 途中にある御稲荷様の社には、出来るだけ立ち寄って下さい。

 ただ日が暮れる前に屋敷に戻れるように考えてください」


 私はこの一行を宰領している久左衛門殿に伝えました。


「承りました。

 近くの稲荷社から立ち寄るように致します。

 必ず日暮れ前までには屋敷に戻りますので、どうか御安心されてください」


 久左衛門殿が自信をもって答えてくれたので、とても安心出来ました。

 請け合ってくれたように、十幾つもの社に立ち寄ってくれました。

 その全てに額ずいて、請い願い祈りましたが、元の世界には戻れませんでした。

 私達は曲者に襲われることなく、無事に屋敷まで戻る事が出来ましたが、私は疲れと落胆で、もう何もしたくない気分になっていました。


「皆の者、今日は私の願いに付き合ってくださったこと、心から感謝しています。

 明日以降も付き合ってもらうことになるので、この後は十分休んで下さい。

 特に当麻殿達には、道場や役目を休んで助太刀を頼んでしまいました。

 この後は無理をせずに休んでください」


「有難き慰労の御言葉を賜り、恐悦至極でございます。

 明日以降の御供に備える為に、今日はこれで御前を辞させていただきます」


「大儀でありましたね」


 私は何とかこの時代にあってるであろう慰労の言葉をかけて、部屋に戻りました。

 お登勢さんもとても疲れていたのでしょう。

 私の言葉に従って休んでくれました。

 代わりに今日の外出について来なかった、百合さんと楓さんが私の御世話をしてくれることになりました。


 入浴の御世話から食事の給仕まで、二人がしてくれました。

 もう朝のように意地を張る気力もなくなってしまいました。

 まるで幼児のようにとまでは言いませんが、二人に助けられながら食べました。

 食べてる途中に眠ってしまいそうになるほど、消耗していました。


「神使様、御目覚めになられましたか」


 目が覚めて少し身動ぎをすると、直ぐに百合さんが声をかけてくれました。

 

「ええ、目が覚めました」


「身支度を御手伝いさせていただいて宜しいでしょうか」


「ええ、頼みます」


 まだ全身がとても重いです。

 駕籠に乗っているのが、これほど疲れる事だとは思っていませんでした。

 実際に歩いた距離はそれほどでもなかったので、駕籠に乗る事で疲れてしまったと思うのですが、もしかしたら精神的な疲れでしょうか。


「失礼致します」


 そう言うと、百合さんと楓さんが朝の用意を持って入って来てくれました。

 髪を整え御化粧をしてくれました。

 私が言った事を覚え守ってくれていて、白粉を使わないでくれました。

 

「神使様、殿と若殿が朝の御挨拶に参上したいと申しているのですが、御部屋に案内させて頂いて宜しいでしょうか」


 お登勢さんが廊下から話しかけてくれます。


「私から頼みたい事がありますので、来て頂いてください」


「願いを御聞き届け頂き感謝致します」


 お登勢さんはそう言うと、急いで田沼親子の所に戻って行きました。

 まるで私が心変わりする事を恐れているようです。

 確かに昨日の私はいらいらしていましたからね。

 まだ完全にいらいらが収まっているわけではありませんが、元の世界に戻れるかどうかがかかっていますから、気分のままに振舞う事などできません。


「神使様の麗しき御尊顔を拝し奉り、わたくしめ恐悦至極に存じ奉りまする」


 何時も通りの挨拶の後で、田沼親子が部屋に入ってきました。

 更に徳川家基の振舞いについても詫びられましたが、あんな奴の話しなど聞きたくもありませんから、早々に話しを止めてもらいました。

 意味のない前置きなど話す気にもなりませんから、単刀直入に話しました。


「余計な前置きを話すのは時間の無駄です。

 やってもらい事を端的に話します。

 一つは屋敷の社に鳥居を作って欲しいのです。

 一つ二つではなく、京の伏見にある稲荷大社と同じような、沢山の鳥居を作ってもらいたいのです」


「京の伏見稲荷大社と同じだけの鳥居でございますか。

 費えはともかく、大変な時間がかかりますが、御待ち下さいますか」


「いえ、ただ待つ気はありません。

 完成するまでに、出来る事は全部試す心算です。

 私自身が伏見稲荷大社に訪れて、直接主神様に御詫びします。

 だから伏見稲荷大社までの警護を御願いしたいのです」


「承りました。

 出来るだけ多くの家中の者を護衛に付けさせていただきます。

 ただ準備に数日御待ち願いたいのです。

 私の養女という形に致しますので、他の老中や留守居役に願って女手形を作るのに、どうしても数日かかってしまいます」


「分かりました、それくらいの日数は待たせてもらいます」


「それで大納言様の事でございますが」


「その話しは止めてください。

 その事で主神様の御怒りを買ってしまったとしか思えません。

 もう主神様が定められた運命を変えるような事には、一切かかわりません。

 それとも主殿頭殿も主神様の御怒りを買いたいのですか。

 主神様の御怒りを買えば、将軍家も巻き込まれるかもしれませんよ」


 単なる脅しの大嘘ですが、信仰心の篤い田沼意次には効果があるでしょう。


「承りました、これ以上は大納言様のことは申し上げません。

 それよりは、主神様の勘気が解かれるように、努力させて頂きます。

 臣の屋敷の鳥居は勿論ですが、王子稲荷社にも鳥居を作れないか、寺社と町方に話してみます」


 信仰心が篤い田沼意次がそう言うのなら、本気なのでしょう。

 私は田沼意次と徳川家治の男性機能を回復させたのです。

 私を神使ではないと疑う要因など、何もないでしょう。

 大泣きした事も、主神様に見放されて神仏の世界に戻れない事を哀しんでいる。

 そう思ってくれてるのなら猶更でしょう。


 よく考えれば、私が食養生を勧めた事だけで、歴史が激変するかもしれません。

 私が読んだ資料では、徳川家治の死因は心臓脚気だったはずです。

 私は玄米食を中心にして、乳肉と貝類を沢山食べるように指導しました。

 忌引き日に精進料理を食べたとしても、脚気が治る可能性が高いです。

 徳川家治が死なない限り、田沼意次が権力を失う事はありません。


 問題は田沼意知が殺されてしまうかどうかですが、私がその事を予言しているので、そう簡単に殺される事はないでしょう。

 一橋と松平定信が徳川家基の暗殺に成功しても、徳川家治が一橋と松平定信がやらせた事だと知っているのなら、報復される事は誰にだってわかります。

 報復を恐れるのなら、徳川家治も同時に殺そうとしますね。


「神使様、何か御心配事でもおありですか」


 もう徳川家の事など見捨てると決めたのです。

 今さらこの後どうなるかを考える必要も、考えた事を教える必要もないですね。


「いえ、何もありませんよ。

 昨日の疲れが残っていて、少しぼんやりしていただけです」


「気の利かぬことをしてしまいました。

 御前を辞させていただきますので、ごゆっくりされてください」


 田沼意次はそう言うと、一緒に食事をすることなく部屋を出て行きました。

 田沼意知など、挨拶以外はひと言も話すことなく部屋を出て行きました。

 その後でお登勢さんが朝食の準備を整えてくれて、給仕をしてくれました。

 百合さんと楓さんがいなくなっていたので、今日の宿直に備えて休んでいるのでしょうね。


 今日も朝から御馳走が出ました。

 昨日の朝は何を食べても美味しくなかったのですが、今日は気持ちが吹っ切れたのか、とても美味しく食べることが出来ました。


 一の膳には玄米御飯に鶏肉と若芽の味噌汁、鶏魚の刺身に蛤の胡麻味噌和え、それに鶏肝と南瓜の煮物が乗せられていました。

 二の膳には若鮎と若芽の御吸物と鱚の胡麻味噌焼きでした。

 それに大根の糠漬けと大蒜の梅酢漬けが添えられていました。


 どう考えても田沼意次と同じ料理ですね。

 素材がいいのか身体が欲していたのか、とても美味しかったです。

 今日この後の事を考えれば、ダイエットなど言っていられません。

 御姫様用の小さい御茶碗とはいえ、三杯も食べてしまいました。


「久左衛門殿に、今日も御稲荷様の社を参詣したいと伝えてください。

 王子稲荷社でなくてもいいのです。

 日が暮れるまでに往復できる、御府内の御稲荷様でいいのです。

 毎日できるだけ多くの御稲荷様に参詣して、勝手をした事を御詫びしたいのです」


「承りました、直ぐに申し伝えてまいります」

 

 私の頼みを聞いたお登勢さんが、急いで夫に伝えに行ってくれました。

 姑息な方法だと分かっていますが、主神様が怒っている事にしてあります。

 信心深い田沼意次と久左衛門殿なら、徳川家に禍が及ばないように、私の願いを出来るだけ叶えようとしてくれるはずです。

 警護の為に動員がかけられてしまう、辻番所等は大変でしょうが、江戸の町で起こる事件を未然に防ぐためだと思えば、私の胸もそれほど痛みません。


「久左衛門殿が急ぎ駕籠と警護の準備を整えると申しておりました。

 当麻殿達が来られるのを御待ちになられますか」


「ええ、待たせて頂きます。

 出立は当麻殿達が来られてからにしてもらいます」

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