いつかの相転移

木本雅彦

 この町には風が吹かない。私の記憶にあるかぎり、一度も吹いたことがない。


 そんなことに気付いたのは、アパートメントの階段を降りて、歩道への一歩をとんと踏み出した時のこと。暗い廊下と、明るい街道の落差に驚いて、あれ? こんなに気温の急転直下みたいなところでも、風は吹かないんだと思った。


 でも、だから——なのかもしれない。この町が壊れずにいられるのは。


 世界は塩に侵略されている。


 テレビをつければ、毎日そのニュースばかりだ。今日の塩の被害について。海沿いの建築物の崩壊に、身体が塩結晶化する奇病にかかって死んでいく人々の話題。


 どの町も、どの国も、どんどん塩に侵されて、少しずつ壊れていっている。


 私たちの世界はどこに向かって、いや、向かわされているのだろう。そんなことを、世界中のみんなが考えていた。——多分。


 ヨーロッパの片隅に存在するこの町は、世界から取り残されたように生活していた。周囲を山に囲まれているというのが、一番の理由だ。他の国では、塩が結晶になって空から常に降っていたりするようだったが、この町はそこまで深刻な状況にはなっていない。それでも空気中に細かな塩の粒子が満ちているようで、油断すると建物に結晶がこびりつく。


 この町が塩に侵略されるのも、時間の問題だろう。


 私は石で舗装された街道を走る。目的は図書館だ。私はこのところ、毎日のように図書館で本を読んでいる。調べたいことは山のようにある。この町のことや、塩のこと、世界がどう作られて、どう壊れていくのか。未来のことは本には書いていないけれど、過去を勉強すれば想像できることも多い。


 図書館は、私にとって知識と想像の種の宝庫だった。


 街道を歩く知り合いに挨拶をする。道まで椅子がはみだしたカフェの若いマスターとは、すっかり顔なじみだ。もっとも、向こうは私みたいな一六歳の女の子のことは、ただの子供だとしか思っていないだろうけれど。


「カレン、これを持っていきな」


 色取り取りに野菜と果物を並べた八百屋のおじさんが、りんごをくれた。


「ありがとう。糖分、重要だものね」


「まったくだ。がんばって勉強するんだな」


「うんっ!」


 カレン・サリバン、私の名前。ちょっと古風な名前だけれど、気に入っている。この名前だと、女の子っぽい喋り方も似合わないし、女の子っぽい服装も似合わない。御期待どおりに私の喋り方は理屈っぽいって言われるし、今の服装もアクティブにパンツルックだ。歴史あるこの町に住むには、私のようなのは邪道扱いなのかもしれない。


 それでも私は、この町が好きだった。


 町は今、選挙活動のまっただ中だ。塩の被害にどう対応するのか。あるいは、何もせずに黙って、他の町と同じようにいつかくる崩壊の日を待つのか。


 大きな壁を町の周囲にはりめぐらせればいい。


 いや駄目だ、塩は上空からやってくる。


 ならば、大きなドームで町を覆えばいいではないか。


 そんな費用は捻出できない。


 費用の問題じゃない。町のためにやるしかないんだ!


 いいじゃないか、このまま俺たちも町も消えてしまえばいいんだ。


 そんなこと認めないぞ! 俺たちは生き延びる! 世界が滅びても、俺たちは生きるんだ!


 一〇人の大人がいれば、一〇人の意見があり、それでも選挙に立候補している人数は限られるので、意見はいくつかに集約されていく。


 評議員の改選選挙だった。


 町の評議員の半数の改選選挙が、丁度この時期にあたっていた。当然のように、選挙の争点は塩への対処方針だった。


 大人は大変だなと、私は思う。


 私はひたすら本を読んで、自分なりに塩のことを学んでいたけれど、選挙に立候補している大人達は、そんなに勉強しているようには見えない。それなのに、あたかも自分がこの町で一番塩の問題に詳しくて真剣に考えているかのような素振りをみせないといけない。


 カラフルな旗を持った集団が歩いていった。チラシを配りながら、先頭の男性が大きな声で叫んでいる。


「最後のお願いです。この町の未来は、みなさんの一票にかかっています」


 当然のように、私はそのチラシを貰えない。祖母の代から、成人女性も選挙権を手に入れたが、私はまだ子供だ。通りすぎる集団を横目に見ながら、鼻を鳴らした。


 私は少女で、そして非力だった。


 非力ではあるけれど、微力はおそらく持っていて、でもその力を使う方法を知らない。だから、ひたすら勉強をする。


 町の図書館は、他の建物と同じように古い石造りの建造物で、防音性能はかなりのもの。中に入ると、違う国に来たんじゃないかという気分になる。


 本の臭いと、人の臭い。それとも、人が少ないことから生まれる「空席」の臭いだろうか。高い天井も、空気をなだめるのに一役かっているのかもしれない。


 私は読みかけの本を二冊抱え、新しい興味を求めて本棚を巡り、更に三冊を積み上げて椅子に腰かけた。使い込んだ木の机と木の椅子だ。


 ページをめくる。紙のこすれる音がする。その音は、私の頭の引き出しをカタンと動かす合図だ。ページを読んだ、さあ次の内容。カサッ。また次の内容。


 この難解な専門書たちを、理解できている自信はない。私は少しだけ背伸びが得意なだけの普通の少女で、世界を救う天才ではないし、なれる見込みもない。


 ただ、万が一、頭の中に詰め込んだ知識が化学反応を起こして、突拍子もない打開策を思い付いたりしないかな、なんてことは、ほんの少しだけ思っている。そうしたらこの町を救って、そして堂々と出ていけるかもしれない。


 そう、今の私は、町をでていけないよなあという漠然とした思いに囚われている。


 この年頃の女の子なら、誰もが一度は通る道らしい。うちの母親はあっけらかんとした人なので、こういう悩みも相談してみると「そうねそうね、そういうものよね」と相手をしてくれる。決して女子たるもの生まれた町に身を埋めなさいなどというお説教は始まらない。それでいて彼女は、私がどこに出ていくこともできずに、この町で暮らすのだろうと信じている節がある。実は、私自身もだ。


 それで最初の話に戻り、もし私が塩の被害から町を救う方法を思い付いて、町を救ったヒロインになったりしたら、逆にいづらくなって町を出るきっかけにならないかなあ、などと思ってみたりするのだ。


 過ぎた願いだと知りながら。


 時計塔の鐘の音が響く。お昼だ。私は本を机の上に置きっぱなしにして、カフェテラスに移動する。オープンサンドとミルクティーが、このところ毎日の昼食だった。今では注文しなくても「あれ、ください」だけで出てくる。


「悪いけど、今日は早めに店じまいするんだ」


「どうしてですか? ……ああ!」


「そう、午後から投票だからね」


 投票は正午から六時まで行われる。一晩おいた明日の朝が開票で、明日の昼には結果が分かるだろう。


 直接は言われなかったけれど、急かされている気になって、私はあわててオープンサンドを頬張った。だけど不思議と迷惑だとは思わない。選挙ならしかたがないし、ちょっとワクワクする気持ちもあった。自分が投票するわけではないけれど、この町の未来がかかっているんだという意識は子供なりにもっていた。


 トレイを片付け、カフェのおじさんに挨拶をして、私は読書に戻る。


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