I11 サヨウナラの時間

 その日、静花ちゃんがバウンサーでゆらゆらといつものように遊んでいるように見えた。

 広縁から落ちた陽が眩しそうだ。

 静かになったので、俺が抱っこする。

 息を呑む間もなかった。

 衝撃が走る――。


「いいか、ひなぎく。俺は組合病院へ行って来る。留守を頼んだ」


 抱っこしたまま玄関から飛び出したかったが、妻に一言なければならない。


「あなた……? どうかしたの」


 ひなぎくは、キッチンで離乳食のお粥を作っていた。

 オレンジ色のフィーディングスプーンが消毒液に漬けてある。

 静花ちゃんのお気に入りのだ。


「そうか、お腹空いちゃっているかな。すまん、静花ちゃん」


 ざわめきを背負い、チャイルドシートに娘を乗せた。


「ぶほお!」 


 ハンドルを左右にきり、峠をすっ飛ばす。

 もう暗くなってしまったが、無事に組合病院の救急入り口へ辿り着けた。


「お願いいたします。娘の黒樹静花が、四十一度も、四十一度も熱があるんです」


「当直は小児科の医師です。こちらへお越しください」


 子どもは、いつ何が起こるか分からない。

 静花ちゃんに、とうとう危機が来てしまった。

 俺はどこかで何かを覚悟していたような気がする。

 決して、どうにかなって欲しいだなんて思っていやしない。


「これは、髄膜炎ずいまくえんが疑われます。ウイルス性かを調べる髄液検査を許可してください」


「はい。お願いいたします」


 医師、看護師がバタバタとしている。

 俺は、何てちっぽけな存在なんだ。

 娘の大切な命を抱えることもできない。


「当病院は、完全看護の為、本日はお帰りください。明日、面会時間にお越しください」


「はい。よろしくお願いいたします」


 組合病院へ静花ちゃんとおむつを置いて、去って行くしかなかった。

 行きと同じ道を辿った筈なのに、迷子の蟻みたいだ。

 帰宅したのは、もう、日付が変わろうとしていた。

 ひなぎくを置いて行ったのは、正しかったと思う。

 冷え固まったお粥の前で、ひなぎくが塞ぎこんでいた。


「あなた! 静花ちゃんは、どうしたの?」


「静花ちゃんには静花ちゃんの幸せがある。なにが幸せなのかを決めるのは、誰でもない。本人なんだ」


 ひなぎくから訊かれることは、幾度かあった。

 俺ときたら、彼女の望むように答えて来たのだろう。


「病院へ行ったのよね。でも、どうしてお家に帰って来ないの?」


 ひなぎくは、椅子から勢いよく立ち上がった。

 天井のランプが俺達を照らす。

 足元から幾重にも伸びた影があった。

 影踏みゲームをクリアしたのは、誰あろう。


「ああ」


 俺は、ずっと振れていた。

 振り子のように。

 ひなぎくもシンクロしていると思っていた。

 だが、人生は単純なものではないらしい。

 母親の目は、俺よりも娘を選ぶよな。

 

「勘違いはなしよ。あなたを嫌いになった訳ではないの。だけど、重要なことよ。今しかないわ」


 ひなぎくは、激昂している。

 こんな姿は初めて見る。


「直ぐさま、病院へ行きたいと」


「そうよ。静花ちゃんに何かあったら……。もう、生きて行けない」


 彼女を宥めて、休むように促した。

 けれども、こんなときに休んだら、静花ちゃんに申し訳ないとかぶりを振る。

 涙を目でも鼻でも垂れ流しだ。

 興奮しているのだから、仕方がないか。

 こうなると思って、俺一人で病院へ行ったが、それも危険なプライマーだったようだな。


「すみません、本日伺った黒樹静花の父ですが。はい、はい」


 俺は、病院へ問い合わせた。


「やはり、翌朝九時から面会に来て欲しいと」


「サヨウナラするのは」


 ひなぎくは、そっと右手を差し出した。


「今までありがとう、プロフェッサー黒樹。とても楽しい家族ごっごができたわ」


 ひなぎくは穏やかに微笑んだ。

 アルカイックな口元は、彫塑で強いられた形でしかない。

 もう彼女の答えは出ているようだった。

 いつまでも、甘ったれなままに。

 俺は、目の前の手を見つめる。

 その手を掴めば本当のオサラバだ。

 掴まなければ、どう出る。 

 別れを選ばせるなんて、残酷だな。


 ◇◇◇


 それから、六時間近く睨み合っていた。


「家族ごっこは言い過ぎだろうよ」


「……その言葉、八回聞いたわ。ずっと真摯にママンになろうとして来たけれども」


「それは、認めるよ。誰よりもひなぎくにしかできない愛情があったさ」


 二人で俯き、お茶一つ飲まなかった。

 これが、キッチン初喧嘩と呼ばれる事件だ。

 次々に、子ども達も起きて来た。


「今度の組合病院だが、入院病棟は狭いので、皆でお見舞いに行けないんだ」


 朝ごはんがてら、キッチンにて説明会になった。


「そうなの? 静花ちゃん、大丈夫かな」


「劉樹か。お前は世話焼きだからな」


 俺の好物、スイートコーンをスプーンで全て劉樹に寄越した。


「心配しているもん」

「心配しているもん」


「分かったよ。虹花も澄花も心優しいよな」


 ダブル目玉焼きを一つずつ二人のプレートに飾った。


「車の運転ならできるよ」


「和、試練の場となるから、俺達だけで行かせてくれ」


 もう、和には、ハンバーグを上げちゃう。


「一番上なのに、こんなときに何もできないなんて」


「大丈夫だ。蓮花は、アトリエも手伝ってくれている。助かるよ」


 女の子だし、ラストの大好きフルーツ、オレンジは如何ですか。


「ひなぎくと俺だけになるが、ちょっとお熱が出ちゃった静花ちゃんに元気になって貰うよ」


 結局、俺はトーストだけになった。

 でも、何故かバターにマーガリンにイチゴジャムにオレンジマーマレードにチーズが盛ってある。

 いざ。

 皆の愛情じゃもん。

 もぐむしゃ、ごっきゅん。

 

「さあ、組合病院へ行くか?」


「ええ。私は、生きているって信じていますわ」


 胸に手を当てて、何かを言い聞かせているようだった。

 ガッタンガッタンとノアを揺らして俺達は急いだ。

 いつもは、話に花が咲くのだが、静まり返っている。


「お茶はないかな」


「忘れましたわ」


 これだものな。

 でも、それが当然の反応だ。

 俺でも、じっとりと汗ばんでいる。

 ハンドルが滑りそうだ。

 病院まで長いようで短かったな。


「落ち着いて聞いてください。ウイルス性髄膜炎です」


 女医からの言葉が空に浮いた。


「それは、治るのですか?」


 噛み付くように乗り出すひなぎくの肩を掴む。


「俺もそれを知りたい」


「細菌性と違い、本人の体力次第です」


 特効薬がないと言うのか。

 見守るだけだと。

 そのまま、看護師に静花ちゃんのベッドまで案内された。

 肩で息をするひなぎくが弱々しい。

 大丈夫じゃないな。


「い、嫌――!」


 ひなぎくの琴線がぶつりと切れた。


「嫌、静花ちゃん。嫌よ」


 ぶら下がっている紙おむつを掴み出した。

 眉間が激しい。


「お、おい」


「何で生まれたばかりの可愛い子が、お空に逝かなければならないの?」


 涙ボロボロになって。


「落ち着け、な」


「初めて産んだ子なのよ。ママが手術したの知っているでしょう? もう閉経して、産むことができないの」


 静花ちゃんが管に繋がれてよく寝ている所へ寄って行こうとする。

 看護師が止めに入る前に、俺ががっしりと受け止めた。


「分かったから、安静にだ」


「それより、何より、静……。静花ちゃんに代わる命はないのよ……」


 散々泣いていた。

 泣きさえすれば解決するのか。

 だったら、俺もそうするさ。

 俺の腕から、するりと落ちる。

 力尽きたのか、静花ちゃんの餅のような頬を擦りに行く。


「ほら、静花ちゃん。ママがここにいるから。ね、お目目を開けてね」


 つーんとした空気が漂っていた。

 もう少し覚悟をさせるべきだったのか。

 人のえにしには運があるものだと。


「ひなぎく、お見舞いなんだ。静花ちゃんは、静花ちゃんはいつだって俺達の傍にいてくれるさ」


「ああ……。こんなときに何もできないなんて。私、愚かだわ」


 その翌日もお見舞いに行ったが、病状に変化がなかった――。

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