第37話 嘘と惚れ薬(後編)

「ジャスティーン、香だ。何か焚いている。吸うと危ない。レベッカが少し吸った」


(アーノルド様の声だ。近くにいたの……? だめだ。なんだろう、気持ち悪い)


 エルトゥールは立ち上がれないまま、前のめりに倒れて地面に額をつきそうになる。その寸前、体が浮いた。固い腕にしっかりと抱きかかえられる感覚。

 ふわっと馴染みのある匂いが立ち上る。

 混ざり合ったスパイスの香りが、肌にほのかに残っているらしい。

 吸い込むと、少しだけ呼吸が楽になった。


「なるほど、この濃厚な緑の匂いで誤魔化して、何か仕掛けていたわけだ。飲み物から摂取させる必要はなくて、話を長引かせて薬が効くのを待っていたと。殿下、物はおさえた?」

「見つけた。今マクシミリアンに持たせて外に出した。おそらく『魔法』マニアの侯爵がお抱えの魔導士に作らせた、しびれ薬のようなものだと思う。……効果が女性にだけ限定される」


 目を瞑ったまま、エルトゥールはその声を聞いていた。


(女性にだけ……。レベッカ、来ないでって言ったのに、アーノルド様と来ていたんだ。それで吸ってしまった……。だとするとジャスティーン様も危ない。だからセドリックはあんなに余裕が。私とジャスティーン様が倒れるのを待っていて……)


 女性の身動きを封じた上で、何を企んでいたというのか。「子どもが産めない体にはしない」と言っていた以上、狙いは明らかだ。魔力と遺伝の関係ははっきりしていないにも関わらず、魔導士を妻に迎えたい者は多い。子を産ませるために。


「セドリック。この場を囲んでいたお前の手の者は全部始末した。待っていても助けはこない。この妙な香に関しては、違法薬物として調べが済み次第、侯爵家ごと追及する。逃げられると思うな」


(アルの声、体に響く……)


「ジャスティーン様……、逃げて」


 吐き気を堪えながらエルトゥールが名を呼ぶと、低い笑い声が耳に届いた。

 まるで男装している時に意識して出しているような声で、目を瞑って聞くと本当に男性がそこにいるように錯覚する。


「ありがとう、姫。俺にはこれ、効かないんだよね。女性にしか作用しない『惚れ薬』なんて、やってくれたものだよ。レベッカはどこ?」

「表で休ませている。レベッカがいないと気づくのがもっと遅くなったはずだが、かわいそうなことをした。人はつけているが、早く行ってくれ」

「了解」


 ジャスティーンは「残念だったね」とひどく明るい声でセドリックを煽り、去って行った。


「ジャスティーン嬢には効かない……? それにしても殿下、姫を救いに御自らこの場に現れるとは。噂が事実と認めたようなもの。姫は王子を誘惑した希代の悪女の汚名をかぶるやもしれませんね」


 セドリックの捨て台詞を聞きながら、アーノルドは厳しい声で答える。


「俺がひとりで来るわけないだろう。証言者もいないようでは、俺が権力をかさに着て、お前に濡れ衣を着せて失脚させたと言われかねない。それこそ、不都合な事実を隠すために。それはお前の見込み違いで、俺と姫の間には、後ろ暗いことは何もないが。シェラザードの件も、公表されても一向に構わない。俺と姫が働いていることは学校側も把握している」

「何故殿下があのような店で」


 声に混じる侮蔑。見下した口調。

 アーノルドはその問いには答えなかった。

 すぐにいくつもの話し声やざわめきが押し寄せてきて、セドリックを引っ立てていくのが聞こえた。

 周囲と二、三会話を交わして、アーノルドが歩き始める。

 やがて、人の気配がなくなった頃、慇懃にアーノルドに尋ねられた。


「気分はどうですか」


 エルトゥールは開かない目をこじ開けてなんとか言った。


「とても悪いです。多少の毒には耐性がありますし魔力もあるはずなのに……」


 何か仕掛けてくるとわかっていたのに、いいようにやられてしまったのが悔しい。

 唇をかみしめたエルトゥールを抱き直して、アーノルドはひどく心配そうな目をして囁く。


「……遅くなって悪い。もう少し早く来たかった。この後、エルの側にはついていられないけど、ゆっくり休んで。仕事も休みで良いから」

「仕事」

「言っておかないと、来そうだから、エルは。動き回るのは、後遺症が無いか確認が取れて、十分に回復してからだ。イルルカンナの王女に手を出そうとしたセドリック並びに侯爵家の罪は重い。メリエム様もこの件、黙っていないだろう。安心して任せてくれ。全部良いようにする」


(「エル」と「姫」が混ざってて、距離感滅茶苦茶ですよ、殿下)


 エルトゥールは脱力感に身を任せてアーノルドの胸に額を寄せながら一言だけ告げた。


「ありがとう、アル」


(「アーノルド殿下」が長すぎて、言えないんです、今は)


 自分に言い訳して、深い溜息とともに意識を手放した。


 * * *


 目を覚ましたら、部屋の中には夕陽が差し込んでいて、ベッドの横の椅子にリーズロッテが腰かけていた。


「エル姉さま。解毒に関しては問題なく終わっています。とても力の弱い魔導士のものだったみたいで、楽に済みました」

「レベッカは」

「大丈夫です。今はジャスティーンが側についています。香の本体に関しても、ドロシー先生が確認しています」


 そっか、と返事をしてから、エルトゥールは毛布の下から手を出して、指の先まで動かしてみる。

 最初は痺れのような違和感があったが、すぐに消えた。


(何か忘れてる……、何か大切なこと……)


 記憶を順番に辿って、気がかりだったことに行きつく。


「女性に効果がある薬が、ジャスティーン様には効かない……」

「それは……、そうなんです。ジャスティーンには効きません」


 リーズロッテに素直に認められて、エルトゥールは口をつぐんだ。

 これまでの出来事が頭の中を駆け巡る。ヒントはたくさんあって、答えも目の前にある。

 ジャスティーンにまつわる様々なことが、腑に落ちる。違和感が埋められていく。だが、その意味するところがまだ実感できない。


(もしそうだとしたら、二人の婚約はどうなるんだろう。アーノルド殿下は、以前、婚約の解消の可能性に触れていたことはあったけど。私は、期待したくなくて敢えて触れないようにしてきた。期待……。私、嫌な奴。ジャスティーン様を邪魔者みたいに。たとえ殿下の横が空いたとしても、そこは……)


 エルトゥールが持ち上げていた手を顔の上に置いたところで、リーズロッテが控えめな口調で言った。


「もともと、アーノルド様は第三王子として、いずれ臣籍降下する身。成人後、その後ろ盾に公爵家がつく予定で、二人の婚約は、生まれる前から決められていました。それが間違いだったのですけど、様々な思惑が絡んで、ジャスティーンが生まれた後にも訂正されませんでした。事情を知る者は多くありませんが……。ジャスティーンは卒業後、体調不良を理由に田舎に引きこもり、折を見て、殿下との婚約を解消。その裏で、別の名前や地位を用意して、本人が望むのであれば国外にでも出す。そういう手筈になっていたんです」


 醜聞とならぬよう、逃げ回るエルトゥールに、二人が何か言いたそうにしていた理由。


「これは内緒ですよ。エル姉さまはまだ知らないこと。薬の見せた幻覚か何かです」

「うん。わかった。まだ頭が追いついていないし、幻覚だと思う」


 両手で顔を覆った。目を押さえていないと、涙が浮かんできそうで、エルトゥールは「少し寝るね」と断って横を向いた。

 湧き出して来た感情が何かわからないまま、声を殺して泣いた。


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