第31話 姫君の知らぬこと

「アル、ありがとう」


 エルトゥールに絡んだ男性客は、アーノルドが睨みをきかせて手を引かせた。

 ぶつぶつ言いながら引き下がったのを見て、エルトゥールはほっと息を吐き出し、アーノルドを見上げる。


「お客様。大丈夫でしたか」


 見下ろしてきたアーノルドの瞳のよそよそしさ。

 「お客様」と線を引かれたことに、胸がきゅっと締め付けられる。

 強く掴まれたせいで、いまだにひりつく手首をかばうように隠して、エルトゥールは微笑んだ。


「お忙しい中すみません。お仕事中ですね。引き留めちゃいけないので、もう大丈夫ですから」


 目を見ていられず、早口で言いながら俯いてしまう。

 アーノルドの靴の爪先を見ながら、自分の目の前から立ち去って欲しいと願った。

 よそよそしい会話を続けられる自信が無い。


「……痛くないのか。痣になってない?」


 ぎりぎり聞こえる音量の声。

 ぼそりといつもの口調で言われて、エルトゥールは自分の手で手首を隠すように軽く握りしめた。

 動悸がする。

 顔を上げることもできないまま、なんとか答えた。


「うん。びっくりしただけだから。普段、男の人のふりをしているの、それなりに効果あるんだね。中身同じひとなのに、服装が違うだけで、こんなにも甘くみられるなんて」

「ああ、その服。なんか見覚えがあると思ったら、ジャスティーンか。俺がジャスティーンに贈ったものだ」


 それは本当に何気ない一言。

 どきんと心臓が跳ねてから、急速に体が冷えていくような感覚。 


(そっか、アーノルド殿下からジャスティーン様に身に着けるものを贈ることくらい、あるよね。それを私が着ていたから、見ていたんだ。それは気になる、うん)


 アーノルドとジャスティーンの婚約は王族と貴族として、様々な思惑が絡んだ結果生まれる前から取り決められていたのだろうが、長じた今となっても、二人は仲が良い。

 学校では節度ある友人のように接しているが、他の人には見せないだけで、恋人として過ごしている時間もあるのだろう。


「ごめんなさい。知らなくて。私、外に出歩くのに適当な服を持っていなくて、ジャスティーン様が貸してくださったから、素直に着てきてしまったんです。どうしよう、私」

「それ、ジャスティーンに合わせて作らせたんだが、贈ったときには身長が伸びていて、たしか一度も着ていないはずだ。むしろまだ手元に置いていたことに驚いている。エルの方が似合うんじゃないか」

「そういう問題では……! 手元に置いているのは、大切だからですよ。あ~、信じられない。なんとお詫びをすればいいのか」


 アーノルドからの贈り物で、ジャスティーンが一度も袖を通さぬまま大切に所持していた服を、自分が着ているとは。


(あれほど……、あれほど学校では露骨に避けてまで、二人の間に割り込まないように気を付けてきたのに。ジャスティーン様も人が悪いです。もっと違う服もあったのではないですか)


 手持ちの中では、自分が着られないほどにサイズが小さいのはこれだけだったのかもしれないが、それにしても。


「外歩き用の服がない、か。そうか……、それも似合わないわけじゃないけど、俺がエルに贈るならもう少し違う感じだな。瞳の色に合わせたり」

「何を言っているんですか。アルからの贈り物なんか受け取れませんよ」

「どうして」

「どうしても何も、アルは」


(婚約者が、いるじゃないですか)


 言葉として口にするのには妙な抵抗があり、エルトゥールは黙り込んだ。

 よくわからない、といった様子のアーノルドと見つめ合うこと数秒。

 仕事に戻る、と言ってアーノルドが背を向ける。

 思い出したように肩越しに振り返り、「気を付けろよ。綺麗だから、目立つ」と素早く言った。


(それは、アーノルド殿下が婚約者に贈るような服を着ていれば目立ちますよね。気軽に外歩きというには、やはり少し贅沢な作りですし)


 何やらどっと疲れた、とエルトゥールはフロアに視線を向ける。

 立ち上がったきっかけになった酔客の席も、店員が入って事なきを得たらしく、騒ぎは収まっていた。

 ほっと息を吐いて、エルトゥールも歩き出す。

 背後から声をかけられたのは、そのときだった。


「エルトゥール様? エルトゥール姫ですよね?」


 * * *


「アル、またおかしくなってるんだけど。盛り付けが散漫なサラダって滅茶苦茶カッコ悪い。仕事にならないならどっか行ってれば?」


 アーノルドが仕上げてフロア係に渡そうとした皿を、横から取り上げた長身美貌の店員は、紺碧の瞳を細めてきつい口調で言う。


「ジャ……ジャスミン。いや、ジャスティーン。あれはお前の仕業か……」

「そうだけど。アル、顔赤いし、目が泳いでいるし、見てるこっちが辛い。本当に辛い」


 顔見知りとの遭遇を避けた「ジャスミン」こと店員姿のジャスティーンは、本日は厨房にこもりっきり。代わりにアーノルドがフロアに出ているのだが、出るたびに様子がおかしくなって戻って来るので、周りが全員笑いを堪えている始末。

 堪えきれなかった者が顔を背けつつ噴き出すと、次々に笑いが伝播していく。


「今日、『いつものお嬢さん』と『おひとりさまの先生』と一緒に来ていたのって、やっぱりエルだよね。滅茶苦茶可愛くてびっくりした。お姫様みたいで、びびって声かけられなかった」


 フロアから戻って来た男性店員が笑顔で言って、周囲の笑いに悔しそうに耐えているアーノルドをちらっと見て続ける。


「アルは動揺しすぎだと思うけど。たしかにいつもと雰囲気違うけど、エルじゃん。普通に話せばいいのに」


 すかさず、ジャスティーンが「無理だって」と口を挟んだ。


「アルにそんな甲斐性を求めてどうする。ただでさえ目に入れても痛くない後輩のエルが、お姫様みたいに着飾って現れたってだけで、大事件なんだ。立て続けにヘマするくらい」

「そんなにしてない。たまたま一つ二つミスしかけただけで、お客様に迷惑をかける前に気付いているし、言うほど……」


 反論するアーノルドであったが、周りから「今晩眠れないな」「むっつりは大変だね」と遠慮なく声をかけられ、ほぼ全員から揶揄われていると悟り、絶句する。

 そっと歩み寄ったジャスティーンは、アーノルドの肩に手を置き、耳元に唇を寄せて言った。


「あー、早く婚約破棄したい。さっさとこの男をエル姫に進呈したいんだけど。あんまり不甲斐ないと返品されるな。しっかりしろよ、王子様」

「本当に、言いたい放題言いやがって……、全員」

「言いたくもなるよ。とりあえずエルにはそろそろ仕事復帰して欲しいね。いない間俺が人員の穴埋めしているわけだけど。店はともかく、仕事でもエルに会えないアルが枯れてしまいそう」


 厨房にいればいるほど周りからいじられるだけと気付いたアーノルドは、フロアへ出ようと目を向ける。

 見たいけど見るのに抵抗がある、でも見てしまうエルトゥールの席の方へと視線をすべらせたところで、ふっと真顔になった。

 気付いたジャスティーンが、横から小声で耳打ちした。


「ラッセル侯爵の嫡男、セドリックだ」

「学校で、いつもエルトゥールに話しかけたそうにしていた奴」

「そうそう、むっつりのアルがガードしていたけど、最近はアルが姫に距離を置かれていたから、あの辺の男が近づいているんだよね」


 エルトゥールの席の側で立ち話をしている同級生の姿を見ながら、ジャスティーンが挑発するようにアーノルドに笑いかけた。


「それで、殿下はどうするの? ぼやぼやしていると、お姫様、横からかっ攫われるよ」


 

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