第三章
第27話 二人の距離と、問題
「アーノルド様」
ざわめきの中で、彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。
その瞬間、考える間もなくエルトゥールは席を立った。
勢いがつき過ぎたために、治りかけの足にぴりりと痛みが走ったが、気にしてなどいられない。
「エルトゥール様、どうされたんですか?」
「忘れ物を思い出したから、一度寮に帰る。私のことは気にしないで、次の授業に向かって」
会話をぶつりと中断するタイミングだったため、隣に座っていたレベッカが追いかけるように立ち上がった。
それを「いいから、なんでもない。休憩時間まだあるし、座ってて」となだめる。
エルトゥールは、食事のトレーを持ってテーブルから離れた。
辺りを見回すこともせず、足が痛むのも構わずにトレーをカウンターの端、所定の場所に返却して一目散に食堂を出た。
(アーノルド様が近くにいた。学校では、顔を合わせたくない)
シェラザードで酔客による騒動のあった夜より、数日経過している。
怪我の為に仕事は休み。
その間、エルトゥールは学校でアーノルドを徹底的に避けていた。
とにかく、気配を察知すると逃げの一手。顔を合わせても挨拶のみ。会話になりそうなときは、周りの誰かにそれとなく話を振り、直接言葉を交わさないように気を付ける。
露骨だという自覚はあったが、やむを得ない。
(学友で仕事仲間とはいえ、一国の王子と王女。個人的に親しいと噂の的になる危険は冒せない)
何しろ、アーノルドには婚約者のジャスティーンがいる。
一方のエルトゥールは、残りの留学期間で結婚相手を見つけなければならない身。
この状況で、エルトゥールがアーノルドに接触した場合、「自分の目的のために王子に取り入り、婚約破棄を目論んだ悪女」になるのは間違いない。
(アーノルド様には恨みはないんです。ですが、私としてはもう少し危機感を持って頂きたいと考えているわけでして……! このままだと、全員不幸になるんです。私は私で結婚相手を探し……てはいなんですけど、これからきちんと探して自分のことはどうにかするので。近づかないで頂きたく……!)
その思いから、混雑する食堂から闇雲に抜け出てきた。目的地があったわけではないので、行き場を失う。
しかし、ぐずぐずしていたら、どこかでアーノルドと出会ってしまうかもしれない。
そうかといって、次の授業の教室で待機するにしても、アーノルドが早目に現れたら本当に逃げ場がなくなってしまう。
ひとまず、昼の間はどこかに隠れていなければ。
エルトゥールは足を引きずりつつ、図書館に向かった。
* * *
故郷イルルカンナの王宮を出てから船での長旅を経て、留学先であるここリンドグラードでの生活を続けているうちに、エルトゥールはあることに気付きつつあった。
それは、「自分はそこまで出来損ないではないかもしれない」ということである。
(姉さまたちが優秀すぎて気付きませんでしたが……。授業ではさほど苦労を感じていませんし、体を動かす科目では他の女生徒たちよりも動けているようです。仕事も……それなり……)
図書館の書架の間で、読む本を見繕って歩きまわりながら、エルトゥールは溜息をついた。
こんな気休めを考えていても仕方ない、と。
(学業的には、アーノルド様といつも一緒にいるマクシミリアンさんがトップ。殿下もジャスティーン様も優秀。シェラザードの仕事では、アーノルド様に全然及ばない。結局、何をやっても二番手以降。その上、仕事が忙しいのもあったけど、結婚相手の目星もつけられていない)
このままでは、卒業と同時に呼び戻されて、結婚……。
「勉強しよう。遊んでいる暇はない」
本を読むなら何かためになるものを、と書架に目を向けて、手を伸ばす。適当に一冊指をひっかけて取り出したところで、ふっと影が落ちて来た。
後ろに人が立った気配。
「エル」
「わあっ」
聞き覚えのある声。
エルトゥールは悲鳴を上げて本を取り落とす。
しゃがみこんで拾う前に、さっと伸びて来た手に拾われた。
「驚かせてごめん。エルトゥール姫」
「いえ。こちらこそ、大きな声を出して申し訳ありません。アーノルド殿下」
俯き加減で目を合わせず、差し出して来た本を受け取る。
そのまま、くるりと背を向けた。
「待てよ、エル。そんなに逃げなくても良いだろ。立ち話もだめか」
(逃げますし、だめです。特に、こんな風に周りにひとがいないところでは、もし誰かに見られたときにどんな噂を立てられるかわかったものではありません)
「話すことはありません。仕事には、あと数日で復帰できると思います」
「そうだな、足、少し引きずってる。痛みはまだあるのか」
「はい。中途半端な状態で仕事に戻って悪化させるより、完全に治してからと殿下は仰っていましたが、もっともだと思います。では、失礼します」
できるだけ急いでその場を立ち去るべく、言い終えるなりエルトゥールは歩き出した。
しかし、さっと横を追い越したアーノルドに回り込まれて、行く手を阻まれてしまう。
「殿下……」
「俺はエルトゥール姫と、もう少し話がしたい。同年代の王族として興味があるし、姫の国のことも姫の口から聞いてみたい。そういう時間を、作ってはくれないだろうか」
真摯な黒の瞳に見つめられて、エルトゥールは困り果てて口をつぐんだ。
やがて、見つめ合っていても仕方ないと、なんとか言葉を探して告げる。
「私は殿下の仕事をする姿も知っていますから、『どういう人間か』はわかっているつもりです。正直に言えば、とても頼りにしていますし、憧れています。でも、私と殿下がこれ以上仲良くなるのは何かと問題だと思っています。人の目もあります。こうして二人で会うだけでも、危ないです」
「ジャスティーンのことがあるからか。結婚相手の決まっている男とは、友人関係も無理だと」
「はい。せめて私が男だったら良かったんですけど……」
アーノルドのことが嫌いなわけではない。エルトゥールも、本当はもっと仲良くなりたいと思っている。
状況が許さない。
言い訳が必要になるような事態は、避けねばならないのだ。
真剣な表情でエルトゥールの話に耳を傾けていたアーノルドが、ぼそりと呟いた。
「もしジャスティーンが男だったらどうだ」
「なぜそんなあり得ない仮定を口にするのかわかりませんが、男性だったら殿下と婚約関係にはないのではありませんか?」
アーノルドは、いかにも何か言おうとするかのように口を開きかけていたが、何も言わずに口を閉ざした。ぐっと飲みこんだようだった。
エルトゥールはすかさずその場を立ち去ろうとしたが、最後の念押しをしておくことにした。
「殿下と私は、国は違えど王族同士。公的な場で親交を持つなら、国際交流の一環として推奨されるかもしれません。逆に言えば、それ以外は難しいです」
いかに学友という名目があれど、男女である以上、カジュアルに距離を詰めるべきではない。
その意味からの苦言であったが、アーノルドはやけに納得したように「なるほど」と頷いて言った。
「公的な場での親交か。わかった。手配する」
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