オムニバス:「愛と狂気大盛り、倫理観と道徳抜き」の物語たち

そすぅ

彼が死んだ日のこと

 彼氏を殺した。

 死体を、遺体をどうにかしないと。

 スマートフォンのスピーカーで、音割れするほどの音量で流しておく。同じ曲をリピートするように設定する。女性ボーカルの少し低い声と歪んだギターが心地よい。平日の昼間。隣人たちは家を空けている。それほど広くもない部屋で、窓も扉も締め切っているから、少し緩い空気が溜まっている。空気を入れ替えたい。でもこの空気を入れ替えるのは怖い。この空気には、彼の匂いが詰まっている。それは死んだ匂いとかそういうものではなくて、雰囲気というか、残り香というか、残像というかそういうものに近い。だから窓は閉めきったままにしておく。


 とりあえず、包丁とキッチンバサミ、ノコギリを用意した。つい最近、買い換えるつもりだったベットを、解体するために買ったばかりのノコギリはサビひとつない。バラバラにされる予定だったシングルベッドは、今も五体満足で部屋に居座っている。

 死体をバラバラにしよう。このまま置いていても腐ってしまう。どこから切ろうかと、迷っているうちに彼と目が合った。吸い込まれる。部屋が暗いから、瞳孔が開きっぱなしなのも、そんなに不自然ではない。それなのに、生気を感じない。もしも彼の心臓が動いていて、脳が働いていたとしても、私は彼が生きているとは思わないだろう。不明瞭ながらに、しかし明らかに、何かが違っていて、死んでいるのだ。この何かこそが21gくらいものなのかもしれない。吸い込まれたまま、私は動けないでいた。そして滲み出るようにして、ぽつぽつと色んなことを思い出してした。思い出してしまった。初めて彼を見た日のこと、告白した日のこと、友人としての日々、恋人としての日々。色んなことを思い出した。笑顔が、温もりが、声が、甦り、黄泉がえり、頭を蝕む。彼の瞳の拘束から解かれる。解放というよりは、突き放すかのようだった。手についた血を見て吐き気がした。冷ややかな目に刺されているのを感じて恐ろしくなった。夢を見ていたような感覚から急に現実に引き戻された。血の匂い。動悸。汗。全て生々しい。


 うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 ごめんなさい! ごめんなさい!

 違う! ごめんなさい!!

 あああああああああ!!


 声とは呼べない音を、悲鳴を、咆哮を淀んだ空気に響かせる。一生分の喉を使い果たすほどに響かせる。髪をむしり取る。壁に頭を打ちつける。血が滲むほど強く床を殴る。音は全て音楽にかき消された。


 重苦しくて残酷な現実に耐えかねて床に伏す。このまま意識が遠のいて死んでしまえたらいいのに。動こうと思っても動けない。腕が、足がその場から動きたくないと言って、言うことを聞かない。

 音楽は何ループしただろうか。今流れているのは2番のサビ。サビが終わったら動こう。いや、ギターソロが、いややっぱりこれが終わったらにしよう。そう思ったけど、結局動けず、さらに何回かループした後にようやく腕が上がった。穴の底から登ってくる怪物のようにむくりむくりと体を起こす。頭に血が行かなくなって一瞬くらっとする。開きたがらない瞼を開いてもう一度現実に戻る。どこから来たのかわからない涙で潤んだ目に、再び彼の死体が映る。どうしよう。どうしよう。死んでしまった。彼をどうしよう。揺すっても決して起き上がらない。キスをしても目を覚まさない。正真正銘の死体。だけど捨てたくない。土に埋められた彼が蛆にたかられるなんて耐えられない。燃やしてほんの少しの灰になってしまうのもさびしい。海に捨てて鳥や魚にぐちゃぐちゃにされるのもむごい。

 起き上がってからおそらく4ループ目の音楽が終わる。

 ただ座り込んで、彼を見つめているだけ。そのうちに、不思議と食べられるような気がしてきた。食べるといってもどうやって食べればいいのかわからなくて、なんとなく、彼の首筋を吸血鬼のようにして噛んでみる。簡単にはちぎれなくて、思い切って強く噛む。少しの肉片と血が口の中に残る。味はしなかった。肉片は硬くて咀嚼できなかった。呑み込んでしまおうと思ったけど、それは叶わなかった。吐いた。吐いてしまった。彼の一部と、これから私の一部になるはずだったものをみんな。彼との最後の食事で食べた野菜の残骸が、吐瀉物の中に混ざっているのを見つけて、また吐いた。いつかひどい風邪をひいたときに、吐いている私の背中を、彼が優しくさすってくれたのを思い出して、さらに吐いた。背中をさすってくれた「腕」は確かにすぐ横にあるけど、「彼」はいない。


 口の中に胃液の嫌な味が残っていた。ふらふらと台所へ向かい、口をゆすいで再び彼の所に戻る。彼の体は首筋に少し傷は増えたものの、死んだ時とほとんど変わっていなかった。部屋の隅にある姿見に映った自分を見て少し笑えた。私の方がよっぽど死んでいるみたいで、ぐちゃぐちゃで、醜くて、まるで私の方が解体されているみたいだった。

 彼の冷たい頬を撫でながら考える。捨てられないし食べられないならどうしようか。保存しておこう。とても自然な発想だった。冷蔵庫の中に食べ物がないから、買い物をしに行こうというくらいに。捨てられないし、食べられない。ならば保存しておけばいい。でも全部はとっておけない。ある程度、厳選しないといけない。彼の全身を品定めをするようにして眺める。

 自然と私の目を惹いたのは腕だった。

 腕、腕がいい。私を抱きしめてくれた腕、繋いでくれた手、背中をさすってくれた手、頭を撫でてくれた手。また私は迷った。両腕にするか、片腕にするか。右腕にするか、左腕にするか。

 口をゆすいでから6ループ目の音楽が終わる。

 右手は彼の利き手。頭を撫でてくれるときも右手、私にあーんをしてくれるときも右手、私の送ったラインに返事を打つときもきっと右手、二人で自撮りするときにシャッターを切るのも右手。

 左手はいつも私を抱きしめてくれた手。頭を撫でているときも、自撮りをしているときも私を抱きしめていたのはいつも左腕。


 そうだ、一本は私の腕と取り替えよう。右手は捨ててしまおう。私は左利きだし、それに左手には結婚指輪もつけられる。それで私の右腕の代わりに彼の左腕をつけよう。もちろんしっかり指輪をつけて。彼の右手は家で大切に保管しておこう。疲れた日や、悲しい日に取り出して、慰めてもらおう。名案を思いついた私は数分前の私よりずっと希望に満ちていた。人間、希望が見えるだけでこれほどにまで活力が湧いてくるものなのか。さっきまで自重じじゅうにさえ耐えられなかったのが嘘のようだ。包丁とノコギリを手に取る。音楽が終わり、一瞬静寂がもたらされて、少し我に返る。


 彼の最後の写真をしっかりとっておかないと。スマートフォンを取り出し、何枚も何枚も何枚も写真を撮る。普通のカメラアプリだけじゃなくて、可愛く撮れるカメラアプリで撮ってみたり、フィルターをかけてみたりもした。机の上に彼の一眼レフが置いているのが目についた。持ち主の手を離れ、持ち主の最後の姿を写す一眼レフ。シャッターの音が空気ごと彼の最後をこの空間から切り取ってくれているような気がして安心した。これでもう、彼を失うことはない。最後に一枚、写真を撮った。彼の横に並んで二人で一緒に撮った。重たいカメラを持つ左腕がプルプルと震えた。安らかな顔の彼と、満足げな私が写っているのを確認する。もう大丈夫。私は彼を失わない。言い聞かせるように念じながら、カメラをそっと机の上に戻す。


 音楽が何ループしたのか、もう全くわからない。私の右腕は最後の仕事、のこぎりをひくことに勤しんでいる。骨を削るような音も、ノコギリが軋む音も、全部音楽が飲み込む。貧弱な私の腕には乳酸が溜まり、疲労を私へ訴えかけていた。わかってるよ。でも最後まで頑張るんだよ。今までありがとう、右腕。そしてこれからもよろしく、これからよろしく、左腕。彼の21gはずっと私と一緒だ。



 ※本作はフィクションであり、殺人などの犯罪を助長する意図はありません。

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