蛇の口裂け
星詠 橙子
蛇の口裂け
木々を赤く燃やす夕陽を浴びながら、心に色が付くならば、まさにこの色だろう。自然が遥香の心を映し出しているように思えて頬が緩んでいく。
木々の隙間を縫うように歩きながら、最もいいモノを探していた。
大樹。その下の土には窪みがあり、木の上からは眺めが良く、他の木立が景観の邪魔にならず、誰にも使われていないもの。
肝心なのは、誰にも使われていないもの。という一点であり、他の要望は単なる要望に過ぎない。そこまですべてが揃う事はないだろう。と、頭ではよくわかっていた。
山中をさ迷うには、星柄のワンピースに紺のミュールと似つかわしくない格好だが、治かにとってはお気に入りの服であり一張羅と言ってもいい。だからこそ、片道のハイキングにはちょうどいいと着てきたのだった。
遥香自身。私生活がうまくいっていないわけでも、金銭的なトラブルを抱えているというわけでもない。ただ、疲れた。それだけではあったが、疲れて休みたい。という考えに支配されるようにここ数日は動いていた。休むための場所を探し、予定を組み、要望を具体的にまとめ、こうして実行に移したのだ。
良い幹を見つけては立ち止まり、見上げては枝の太さや周囲の木々に落胆する。それを繰り返しながら奥深くへ歩いていると、徐々に森から色が消え始めてしまった。
今日は野宿になるだろうか。と、休みにちょうどいい場所を探し始めた頃、その屋敷は唐突に視界に入り込んできた。
古く、歴史を感じさせる造りの屋敷。その庭には大樹が聳え立ち、それはまさに遥香が探し求めていた大樹であった。香りの良い薄紅の花が咲き乱れ、秋の入り始めとなったこの季節に咲く花は何だろう?と、暫し考える。理想通りの丁度いい大樹ではあるが、誰の屋敷かもわからないのだ。手入れの行き届いた庭からして廃屋とは思えない。家主がいるならば道に迷ったと説明し、一晩泊めてもらえやしないだろうか? 夜に閉ざされた山中で予定外の事故にあうのは避けたい。そう思い、門をくぐり扉を叩いた。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
返事はないが、声を掛けてしばらく待っていると鍵が開くような音が耳に届く。
「あの、すみません」
再度声を掛けると、今度は僅かに扉が開いた。そっと手を掛けて開くと、中からは出汁の匂いが漂ってくる。
「どうぞ、ごゆっくり。あるものはご自由に使用して下さい。」
屋敷の奥の方だろうか。年老いた女性の声だけが響いてくる。出迎えもなく、声は聞こえるが人の気配は感じない事に気味の悪さを覚えたが、奥から漂ってくるいい匂いにつられ靴を脱ぐ。
「おじゃまします」
頭を下げ、匂いにつられて奥に進むと、出来立ての食事が机に並んでいる。
煮物に味噌汁。焼き魚と出汁巻き卵。果物も切っておいてあり、白米は脇に置かれたおひつに入っている。
まるで旅館に来たかのようだ。10畳近くありそうな部屋の中心に用意された食事はきっちり一人分だ。屋敷を見つけてから数分程度しか扉を叩くまでにかかっておらず、それを考えると不自然ではあった。だが、もとより休む場所を求めていた遥香にとって、恐怖というよりもおいしい物を食べて休めるならそれはそれで。と、どこか諦めにも近い感情を抱くのみで恐怖を感じるほどではなかった。それよりも空腹を抱く自身に驚き、恥を覚える。
休む場所を探していたというのに、未だに叶わず、得体の知れない屋敷の歓待を図々しくも受けようとしている。自身の厚かましさにうんざりしながらも、用意された食事に礼を述べ、ゆっくりと口に運んでいく。
「美味しい」
食事を美味しいと思ったのはいつ以来か。そう思いながらも箸をすすめ、食べ
終わると食器を下げる場所を探して屋敷を歩く。
台所を見つけて流しに入れようとしたが、なんとなく洗う人がいないように思えて水を出し自身で洗った。食器が綺麗になるたびに、少しずつ憂鬱を孕んだ疲れが取れていくようで、不思議と気持ちが前向きになっていく。
休んだら、もう少し頑張ってもいいかもしれない。そう思ったのは、洗い終わった頃にどこからか風呂の用意が出来たと声が聞こえ、それに従って檜の香りが漂う風呂で体を洗い、身体があたたまったころだった。
この家がなんであれ、自分は確かに休む場所を手に入れた。と、布団にくるまりながら目を閉じる。
翌朝、同じように用意された食事を摂り、食器を洗ってから礼を述べて家を後にした。
あれほど魅力的だった大樹も、家を出る際に見るとただ美しい花の咲いた樹でしかなく、休みたい。という衝動はどこかに消えてしまった。
来た道が分かるかは不安であったが、自身が通った道だけは草が倒れ歩きやすくなっている。そこを辿ると半日ほどで麓にたどり着き、遥香は不思議な思い出と共に自身の住む街へと帰っていった。
山での話を友人にしようと思ったのは、ポシェットの中に見慣れないガラス玉がはいっていたからだった。あの日の夕焼けを閉じ込めたかのように、燃えるような赤から紫紺のグラデーションになっているガラス玉。疲れを感じた際にそれを見ると不思議と気持ちが前向きになる。気持ちが前向きになるからかはわからないが、運がいい。と思う事も増えてきた。
不思議だが、あたたかな思い出として友人に語ると、友人は自身も探してみたい。と、山の名前やどの程度歩いたかを聞いてくる。山の名前しか覚えていない事を話すと、それでもかまわないと食い下がられ、山の名前を教えることにした。
――遥香。私も見つけたよ!
真っ暗な写真と同時にそんなメッセージが届いたのは、それから一か月ほど経った頃だった。
――めちゃくちゃ広いし、高そうなものいっぱいあるね。少しとってもばれなさそう(笑)
なにかを持った腕が真っ赤に染まった写真とちぐはぐの言葉。
――売ったら超高くつきそう。明日すぐ売りに行ってみる! ツフィートとかスレ立てして実況しようかな(笑)
自撮りなのだろうが、首から上が歪んで崩れた写真が共に送られてきた。
その度に、やめたほうが良い。と、送るのだが、なぜか遥香のメッセージは送信エラーとなり、相手に届く事がない。どうしたものかと、共通の友人である美鈴にメッセージを転送してみたが美鈴からは、
――私にも来たけど通知切ったよ。関わらないほうが良いと思う。
とだけ返ってきた。
それから数か月後。山中で一部白骨化した遺体が発見される。
獣に食い荒らされたかのような凄惨な遺体が友人だという事。顔と腕、腹部の損傷が特にひどい事をしった遥香は、自身が教えてしまったからだと後悔に苛まれた。
葬式でそのことを打ち明けようと思ったが、それを止めたのもまた、美鈴だった。
「遥香の言ったとおりに屋敷があったとして、人の気配がない屋敷が人をもてなすなんてことあり得ると思う?
遥香がそれを言ってあいつのご両親が信じて探してもなにもなかったら? ただ混乱させるだけになるんだよ。あいつは、登山に行って山中道を逸れて獣に襲われたの。運が悪かっただけ。あんたは、運が良かっただけ。ただそれだけ。もう忘れたほうが良い」
憔悴しきった母親に近づく遥香を止めた美鈴は、そのまま遥香の背を押して挨拶を行い、外に促した。美鈴の言っている事は正しい。場所も曖昧で実際にあるかもはっきりとしない屋敷の話をしたところで、それと獣の繋がりも分からない。山の名前を教えたからと言って、誰かが遥香を罰することなど出来ないのだ。楽になろうと話したところで、混乱させるだけに過ぎない。泣きながら頷く遥香の背中を数回叩きながら、美鈴は苦い物を含んだ笑みを浮かべた。
「もう、ここにも来ないほうが良いよ。あんたはもう忘れたほうが良い」
そういい、遥香を見送った美鈴は自身のスマートフォンを取り出し、LINJEというメッセンジャーアプリを開く。そこには、
―tsktmyhgnkwrrhykktgmnnsi
という死亡した友人からのメッセージと共に、画面いっぱいに開かれた口が映っていた。
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