四章

伸ばした手のひら

 扉を閉じて、ため息をつく。息が白くなるほどの寒さではないが、それでも冷たい空気が肺に入ってくる。それを一度だけ大きく吸い込んでから、俺は今の自分が帰るべき寮へ向かって歩き出した。

「はぁ……。つっかれた」

 肉体的な疲れは大したことはない。だけど面接に何箇所も落とされるというのは、まるで自分を否定されたみたいで精神的にどうしようもなく疲れる。就活で知っていたことではあるが、まさかまた経験するハメになるとは思わなかった。

 元々は、どれだけ嫌な仕事だろうと公務員の立場にしがみつく気満々だったのだから。

「……それにしても、夜でもこの辺りは人通りが多いんだなぁ」

 辺りを見渡しながら、俺はゆっくりと道を歩いていく。昨夜シルフィーさんの後ろに着いて歩いていただけの道を、今度は一人で。彼女の魅力的な声と背中が無いのは残念だが、その代わりに視界は昨夜よりもずっと広く感じられた。

 数多くの異種族たちがまだ歩き回っているのが見える。種族も違う人々が集い酒を飲み交わしている店が見える。そして明かりが灯り、楽しげな声が聞こえる家々が見える。

 魔力灯がある時点でなんとなく分かっていたことではあるけれど、よくある中世ファンタジーものみたいにロウソクを買う値段を気にして夜は早く寝る、という文化ではないらしい。人類は電気の発明と同時に生活時間が夜にずれこんだと言うけれど、似たようなものだろうか。

 まあもしかしたら猫耳を生やした獣人とか、あとは見るからにそれっぽい黒マントを纏っている吸血鬼らしき人あたりは、夜のほうが暮らしやすいのかもしれないけれど。

「酒場なんかもあちこちにあるみたいだし、落ち着いたら開拓してみたいなぁ。……この世界って、ウィスキーとかあるのかな」

 酒飲みというわけではないが、人並みに酒を嗜む俺としては酒類の流通がどうなっているかは気になるところである。これだけ発展している文明だし、ある程度の期待は出来ると思うのだけど……。

「酒と言えば、寮があるのが街の中でも少し辺鄙なところっていうの、なんかリアルだよなぁ。やっぱり街の中心は地価とか高いんだろうけど」

 現実の福祉関係の施設も何かと辺鄙なところにあるのが常で、都心にあるのは一部の宿泊所とか就労移行支援施設くらいだった。しかも都心とは言っても、大抵は駅まで遠かったら恐ろしく古かったりが当たり前。

 そういう意味では、役所まで微妙に距離があって更にメイヤーさんのおかげで綺麗に保たれているとは言え、かなり年代物の建物であるあの寮はそのイメージにピッタリと合うのだ。

 その予想を証明するように、等間隔に並ぶ魔力灯を何本もくぐっていくと、その間隔がじわじわと開いていく。人通りが徐々に減り、周囲にはお店のたぐいはほとんど見つからなくなっていくのが分かる。

「……もう少し街灯を増やしてほしいな……怖いし」

 この世界の治安がどの程度なのかは分からないが、暗がりがところどころに落ちている道は歩いていて少し不安になる。日本よりもいい……と言うのは流石に期待しすぎだろう。

 まあ俺はその日本でナイフに刺されて死んだわけなのだが。そんなほとんどトラウマになっている経験のせいか、俺は無闇に周囲を見渡しながら歩いてく。だが幸いにして、牙を光らせる狼男や俺を呪い殺そうとするゴーストの類は見当たらない。

「って言うか、俺みたいなヒューマンってこの世界じゃ格好の獲物なんじゃ? それこそミノタウロスとかに襲われたらひとたまりもねぇぞ……」

 非力で足も遅く魔力も使えない上に夜目も効かない。仕事の話の再現ではないけれど、ヒューマンを容易に殺せる種族なんて言うのは枚挙にいとまがないだろう。あれだけ福祉の制度が整っているのだし、人を喰うような種族は居ないと思いたいが……。

 そう思いつつも、自然と足が早くなってしまう。駆け出すまでいかないのは、シルフィーさんが路地裏に近づけなければ大丈夫だと言ってくれたおかげだろうか。

 そもそもよく考えたら、日本に居た頃から俺は怖がりだったのだし、異世界に来てもそれが変わらないと言うだけだ。

 ホラー映画を見れば髪を洗う時に背後が気になったり、隙間が空いた押入れから何かが覗き込んできているような気がしたり、夜の非常灯の灯りだけが照らす学校がやたらと怖かったり。

 日本人ならきっと誰でも持ち合わせているであろう、ぼんやりとした恐怖心。ただこの世界では、その恐怖を現実に出来るであろう種族が山程いると言うだけだ。だから──。

「……グスッ」

 そんな子供の鳴き声が聞こえてきた時も、自分の恐怖心から生み出された幻聴だと思った。

「な、なんだ今の……。まさか本当に幽霊とかもいるのか……?」

 独り言を呟くのは恐怖心を誤魔化すため。だけど俺の独り言なんかでは、恐怖心は消え去ってはくれない。そして幻聴であってくれという願いと裏腹に、その声は先程よりもハッキリと聞こえてくる。

「いたいよ……」

 思わず足を止めて、息を呑んだ。幻聴なんかではない。確かに子供のすすり泣く声が聞こえる。それは目線の先、俺が歩いている通りから伸びる路地の暗闇の中から聞こえる声だ。

「グスッ……うっうっ……」

 暗闇の中に目を凝らす。冷たい石畳が敷き詰められた路地裏には、魔力灯の一つも立ってやしない。だが微かな月明かりが照らすそこには、確かに一つの人影があった。

 地面に座り込んだ、小さな人影。緑色の長い髪の毛を地面に垂らし、下を向いてすすり泣いている子供。まるで出来の悪い怪談のような景色に、俺は小さく息を詰まらせる。

「さむいよ……」

 早く立ち去るべきだ。俺はこの世界のことを何も知らない。路地裏にどんな危険が潜んでいるかも分かったものではない。俺はこの世界のタブーに、知らず足を踏み入れてしまうかもしれない。

「このまま、しんじゃうのかな……」

 聞かなかったフリをして寮に戻るべきだ。シルフィーさんも言っていたではないか。路地裏には近づかず、真っ直ぐ帰ることだと。あれが見た目通りの子供だという証拠なんてない。近づいた瞬間に、俺が取って食われるのかもしれない。だけど──。

「だれか……たすけて……」

 ──気が付いたら、俺はその暗闇に足を踏み入れていた。考えるより先に、足が動いていた。だからどうしてそうしたのかと聞かれれば、自分でもよく分からない。

 後から理由をつけるなら、きっといくらでも出来るだろう。子供の声だったから。様子を見るだけなら大丈夫だと思ったから。かつての仕事で、虐待を受けていた子供を見てきたから。だけど、本当の理由なんて、ただ一つだ。

「大丈夫か?」

 ──その声が、助けを呼んでいたから。

「っ!!」

 顔を伏していた少女が、俺の声に顔を大きく跳ね上げた。紫紺の瞳が大きく見開かれ、そこに溜まっていた涙が頬を伝い落ちていく。小さい喉が息を呑み、その表情が驚きに彩られる。

 見れば、本当に小さな子どもだった。歳は人間で言うと十を超えたくらいだろうか。顔にはまだまだあどけなさが残り、美しいと言うよりも可愛いという印象が強い。それは恐らく髪についた花柄の髪飾りのせいもあるとは思うが、儚げで可憐な印象があるからだ。

 しかし、その少女を彩る全てを。

その少女の頬や目元、そしてほとんど肌着同然の薄着から除く手足についた痛々しい痣が台無しにしていた。

「だ、誰……!?」

「誰……って聞かれると、ただの江口優斗としか答えられないんだが……。一応は、怪しい者じゃない、つもりだぞ」

 我ながらなんとも曖昧な答えである。だが実際、今の俺は何の肩書もないただのヒューマンだ。信用してもらうために方便を使うのはなんだか気が引けたので、こんな言い方しか出来なかったのだが。

「あ、怪しい人は自分のこと怪しい人じゃないって言うんだもん」

「あー、なんとも反論しにくい正論だなぁ。けど本当に怪しいものじゃないんだ、いや本当に」

「あ、怪しい……」

「……いやまあ、怪しいよな確かに今の言い方は。こんなことなら児童相談所の子供との接し方研修を真面目に受けておけばよかった……」

 かつて自分が半分以上を寝て過ごした研修のことを思い出し、内心で思い切りため息をつく。だがそんな後悔を今更しても、寝ていた研修の内容を思い出せるはずもない。

 だから俺は、せめて少女に目線を合わせられるようにと、少女の目の前で膝を折り目線を合わせて話し始めた。

「俺は、その……。君の声が聞こえたからさ。だから、それで少し心配になって声を掛けただけなんだ。……君のお母さんとお父さんは、どこにいるんだ?」

「お、お母さんはずっと前に、その……遠くに行っちゃったって、お父さんが」

「……そうか。なら、お父さんは?」

 この時点で予感がしていた。いや、ほとんど確信だったと言ってもいい。親のことを聞いた途端に少女が体を反射的に強張らせ、その小さな両手で自分の体をかき抱いたのが見てたから。

「お父さんは……。おとう、さんは……」

 言葉に詰まり、少女は数度口をパクパクとさせてから視線を落とす。肩が震えだして、小さな嗚咽が溢れ始める。

「あ、ごめん、分からないならいいんだ。急にいっぱい聞いちゃって混乱しちゃうよな、ごめんな」

「ぐすっ……わた、わたし……。おかあさんが、いなくなっちゃって。おとうさんと、ずっとふたりで……。だけど、おとうさんが、おと、うさんが……」

「……ごめん、怖いこと思い出させちゃったな。今は思い出さなくてもいいから、大丈夫だから」

 俺はその少女の頭に手を伸ばそうとして、だけどなんとかその手を止めた。この少女に何があったのか、それは推測がつく。だとしたら、俺みたいな男の手はかえって恐怖心を煽りかねなかったから。

 だけど目の前で泣きじゃくる少女を、そのまま泣かせておくわけにはいかない。俺が単純に子供が泣くのを見ているのが辛いというのもあるが、今の状態を人に見られたら誰がどう見ても俺が泣かせたようにしか見えないだろう。

「あー、とは言ってもどうすれば……。って、あ」

 そう思いながら俺は思わずポケットを触り、そこに触れた丸い感触に一瞬だけ固まってから、それを取り出した。

「な、なあ。君、飴は好きか?」

「飴……? 好き、だけど」

「ならよかった。ほら、一個だけだけど」

 最初の飲食店で、落として申し訳ないと貰った飴。それを俺は少女が差し出した手のひらに、出来るだけ優しく置いた。

 その緑髪の少女は、涙が浮かんだ手でしばらくの間その飴玉を眺めていて、それからゆっくりと視線を上げて俺の方を見る。

「……いいの?」

「ああ。実はお兄さん、虫歯だから食べられないんだ」

 苦笑しながら俺がそういうと、初めて微かに頬を緩ませてそれを口にした。アメを舐め始めるとその表情は更に柔らかく、小さな微笑みまで浮かべてくれる。

「はぁ……腹いせに捨てなくてよかったぁ」

 捨てる神あれば拾う神あり、とは言い過ぎかもしれないが。でも俺が面接に落ちたおかげで、このポケットには飴が入っていたのだ。やけっぱちにならないでよかった、と俺は泣き止んだ少女を見ながら安堵のため息をこぼす。

「飴、美味しいか?」

「……うん」

「はは、ならよかった。それじゃあ、その……話を戻すぞ? もしよければ、お兄さんこれから家に帰ってご飯を食べる予定なんだけど、君も一緒に食べに来ないか?」

 出来だけ優しく、諭すように俺は話しかける。そんな俺の話し方が功を奏したのか、それとも単に飴玉が効いただけなのか。その少女は明らかな警戒心よりも、迷うように視線を彷徨わせる。

「……怪しい人についていっちゃダメって、その……おかあさんが……」

「あー、まあそれは正しい。けど君だって、このままここにいたら寒いだろ? それにほら、お兄さんがあげた飴は美味しいだろ?」

「……うん、美味しい」

「ならほら、大丈夫だ。別に無理にとは言わないけどさ、このままだと夜はもっと寒くなるし、出来れば一緒に来てくれると俺も嬉しい」

 出来るだけ優しくかけた俺の声に、その少女は少しの間悩むように唸ってから、

「……わ、分かった。お兄さんのお家、行く」

 少女はそう言ってゆっくりと、しかし自分の足で立ち上がった。それを見て、俺は思わず安堵で頬が緩むのを感じながら腰を上げる。

「よしっ、ならこっちだ。……って、飴で子供を釣って連れて行くとか完全に誘拐犯のそれだよなぁ……」

 事実、今の俺の行動は完全に誘拐犯そのものだ。夜道で一人うずくまっていた幼女を飴で誘い出し、それから家に連れ帰る。日本だったら完全に犯罪者。逮捕されたら懲戒免職待ったなしの行動。だが、乗りかかってしまったのならもう仕方ない。

「あ、そうだ。君の名前、聞いてもいいかな?」

「えっと……私の、名前?」

「ああ、君のだ。俺はユウト……って、さっき言ったか。あー……ああ、種族はただのヒューマン……らしい」

 はは、と思わず苦笑して、俺は自分の頭をかく。我ながら締まらない、とは前々から思っていたことだから気にしない。

「わ、私はディメルノ。アルラウネ……なの」

 ディメルノと名乗った少女は、まだオドオドとした口調ではあったが、ハッキリとそう言ってくれた。アルラウネ、森の精霊。確か木々に宿る妖精だったはずだが、なるほど花の髪飾りはどうやら本物らしい。

 本当に色々な種族が居るんだな、と内心で感心しつつ、俺は名前を教えてくれたことに対する喜びを隠さずに口を開いた。

「そっか、ディメルノか。家に着いたら改めて紹介するけど、メイヤーさんって悪魔の女の人と、ニシキさんってラミアの女の人と暮らしてるんだ」

 他にも何人か居るらしいが、出稼ぎから帰ってくるのは来週のことらしいので割愛しておく。女性が居ると分かったほうが、この子もきっと安心できる。……恐らくこの体中の痣を付けたのは、この子の父親なのだから。

「女の人が、二人も……? お兄さんって、女たらし?」

「なんでそんな言葉知ってるんだよ……。いや俺もまだ住み始めて二日だし、むしろ俺がたらされたっていうか……」

 入所して二日目でいきなり幼女を連れて帰るというのもどうかと思うが、この場合は事情が事情だ。それに口は悪くても根は良い人のメイヤーさんなら怒りはしないと思えたし、そしてニシキさんに関しては、きっと心配するまでもない。

 この子を何の対策もなしに家に帰すわけにはいかない。一時的に保護して、きっと児童相談所のような施設に保護されるのだろう。それがこの子の安全のためにも、絶対に必要だ。

「でも、女の人が居るなら……少しだけ、あんしんかも」

「お、ならよかった」

 俺は歩くディメルノに刻み込まれた痣を見て、そうと彼女に知られないように拳を握りしめる。こんな異世界にも、我が子を虐待する親が居る。考えてみれば当たり前のことかもしれない。子を虐める親は、野生動物にもいるのだから。

 だけど、それをこうして改めて目の前に突きつけられると、異世界でも日本でも何も変わらないと突きつけられているように感じてしまう。まるでどの世界にも、助けが必要な人は居るんだと。それから目を逸らすのかと、責められているような気がして。だから──。

「ほら、見えてきた。あれが俺の家、サンドラ寮だよ」

 空っぽな元気を振り絞った声で、そう口にしたのだった。

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