3章 5.僕はただ座ってるだけで、彼女を見た。

 今、僕の目の前には、フレッシュオレンジな匂いをびちゃびちゃな体から放出しながら茫然ぼうぜんと座ったままの変態男がいる。そして、その男の前には怒りの形相で空のコップを握り潰し、立ちはだかる愛らしい顔立ちの

 

 それも海外に逃亡したあの元会長と同じ服装で。

 

「ま……さか、最上さいじょう、まこ……なのか……?」


 どうにかそう呟いたこの変態男は、今何が起こったのか分からないのか、ただ目を見開き目の前に立つ『最上まこ』を唖然あぜんと見つめるだけで微動だにしない。


 その女の子は、全てをやってのけたんだ。

 震えが来るほどハラワタ煮えくり返る僕の代わりに。


 僕も隣の席で全ての会話を聞いていた。


 だけど、出来なかった。

 何も出来なかったんだ。


 ――彼女のように。


 妹の由衣は突如現れた不可思議な元会長な『最上まこ』を目をぱちくりとさせながら口をポカーンと開け、見上げている。


 店内はあまりの突然な衝撃と彼女の先程の大声に静まり返り、一瞬時を忘れたかのように他の客達も『最上まこ』へ視線を集中させていた。が、すぐさまざわつき始め、店員のひきつりにこにこお姉さんも更にもっと酷くピクピクと顔が痙攣けいれんしているみたいだった。


「今、あの人最上まこって言わなかった?」

「え、マジ? 最上まこなの?」

「すっごい今暴言吐いたよね?」

「なんであの会長のコスプレしてんの? なんかの撮影?」


 店内から聞こえてくる様々な声。

 先程まで被っていたはずの彼女の青いキャップは床に脱げ落ちていて、あの綺麗な茶系のロングヘアがあらわになっている。マスクや眼鏡はしていたままだったが、あの目立つ変装に、これだけ注目を浴びれば明らかにばれそうな小さな頭、綺麗に整った顔立ちをしている。それがここではマイナスにしか働いていない。


 するとスマホのシャッター音がどこからともなく僕の耳に届いた。店内の誰かが彼女を撮り始めたのだ。するとそれに続くように次々と様々なシャッター音が店内に鳴り響く。


「お兄ちゃん……」

 

 この異様な事態に思わず椅子から立ち上がった僕を、不安そうな顔をした由衣が助けを求めるかのように弱々しく呟いた。由衣にはとんでもないお願いをしてしまった。


 ……全ては勇気のなかった僕の責任だ。


 すると、妹の隣で立っていた『最上まこ』と僕は今度こそ間違いなく目が合ってしまった。先程の怒りの形相とは打って代わり、彼女は冷静さを取り戻したのか顔が少し青くなっていた。


「立石……、なのか……?」


 鳴り響くシャッター音。

 そんな中、元会長な彼女は不安と動揺が入り交じった顔で一言そう呟くと、急に僕から顔をパッと背け、入り口へ向かって駆け出した。


 ……反射板をキラリと光らせて。


 まだ店の外で電話をしていた水戸さんが店内から勢いよく出て行った彼女に気が付くと、直ぐ様電話を切り、「あとできちんとお詫びに伺います、申し訳ありません」と店内の顔面引きつり店員に早急に告げると、すぐさま『最上まこ』を追って走り出した。その姿はまるで彼女のナイトのようだった。


「おい、何がどうなってんだよ……」


 取り残されたのは、釈然しゃくぜんとしないようにそう呟くこの無様なみかんぶっかけられ男と、僕ら兄妹、そして彼女が座っていたテーブルに残された水玉模様のケースに包まれたスマホ。


 その壁紙に僕は目を疑った。


 ――それは僕が初めて書いたファンアートだった。

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