邪鮫海域
ソメガミ イロガミ
1 海より来るもの
全ては
それでも人は生き続けていくのだ。
日が沈みかけ、朱色の光は辺り一面を飲み込もうとする。それは魔物のように
光を受けつつ波打つのは水ではない……砂。
そこは確かに海だった。
だがそれは砂でできた異様な海。
その砂海の波を立て、行く当てもなく彷徨う影が一つ……艇(ふね)だ。
元は
今それは『戦艦』ではない。放浪者に過ぎないのだ。
十八ノットで巡行する装甲戦艦≪ヒュペル≫は、全長二七〇・五メートル。乗組員は三百人。
主砲は空を向いてはいるが何かを警戒する様子はない。
艦内には医療施設、保育施設、資料庫等生活する上で必要な施設や食糧庫、
乗組員はそれらを享受し、時折来る砂の海の危険を避けつつ暮らす。
それは日が落ちても変わらず、また日が昇ろうとも逸することはない。
そう、来訪者を除くならば……
砂粒子変換エンジンの唸りが周囲の夜風を揺らす。
戦艦のまわりには六体の鉄塔みたいな建造物が浮いていた。それは電磁
青白い月の光は、静まり返った周囲の砂の一粒一粒のうねりまで照らす。
そのうねりに紛れて月明りは人影を照らす。
それは艇の上に、ではない。
海上に浮遊する
それは波を裂き、
乗組員の多くが艦内にいる今、その接近に気が付く者は殆どいない。
彼は甲板に寝転がり、自分が暇を持て余しているのだと主張するかのように風に口笛の音を乗せる。
途中あくびを噛み殺し笛の音を中断させ、ようやく彼は波の音に気が付いた。
双眼鏡を取り出し軽く辺りを見渡して彼の瞳に映ったのは、この世の
今ではその姿を殆ど消した海を連想させる蒼髪を、風に揺らしている。
飛び散る砂の衝撃を避ける為、
肌の色は防具の隙間から微かに覗くが絹のように白く、何処か異国の貴族なのではないかと思わせる気品があった。
生体車の側面には
舞う砂飛沫の痛みを
脚部も、胸部や上腕部に対し装備が薄く長靴を履いてはいるが砂の海を行くにはあまりに心許ない革材質である。
旅人に違いなかった。それも、商売人ではない……何かの目的をもって彷徨う来訪者に違いなかった。
少女は
そのまま車体に抱き着き、
すると、体は一瞬収縮し波に飲まれる。
次の瞬間、まるで鳥が羽を広げるかのように
弧を描き、小さく飛ぶ。それは一度だけでなく加えて回数を増すごとに飛距離と高さを増していく。
そうして十度を越そうとしたときには、電磁
双眼鏡を携えていた男もこれには驚く。
そのままの勢いをもって
男は若者ではない。だからと言って中年でもない。
見た目こそ
彼は少女の落ちたであろう甲板の位置まで駆け寄る。
少女は
「おい、大丈夫か! おい!」
そうすると次の瞬間には力を失っていた体に力が戻り始める。
微かに肩が動き、呼吸の振動は一定の
瞳は髪と同じく蒼色をしていた。だが、見た者に髪とはまた違うものを連想させた。
それは炎。
その瞳はまるで高温の
少女はその瞳を男に向けたまま上体を起こし、すくりと何事もなかったかのように立ち上がった。
「ありがとうございます。少し意識を失っていて……」
少女の声は透き通るように美しかった。だがそれ以上に焦りを含み、瞳は辺りを見渡し始める。
「この規模の戦艦なら多少の衝撃には耐えられる筈でしょう……。失礼ですが、ここの海域は?」
「
「それならよかったです……」
少女はそう言って微かに笑うと
そしてまた
その方向は、先ほど少女の飛んできた方向であった。
耳を澄まし、辺りを見回し手首を鳴らす。何かを探し、待ち構えるような姿。
「何か来るのか」
「はい。……お腹を空かせた子が一匹」
次の瞬間、ざぶんっという波の立つ音がしたかと思うと、甲板に黒い影が落ちていた。
影の主は空中に浮かぶもの……男は空を見上げた。
跳んでいた。
それは甲板に跳び乗ろうという意思をもって、通常では超えることのできないであろう電磁
二メートルは優に超える体長の鮫は口を開け、目は殺意に輝かせ牙を向けていた。
その視線は少女から外れることはなく、甲板に落ちてこようとしている。
男はそれに対して一度距離を取らねばと少女の手を取ろうとした。こちらに逃げよ、と導こうとしたのだ。
だが少女はその手を拒む。
そのまま鮫を見据え、右手を掲げる。
対象を鮫とし、手を開いて向けるのだ。
男は言葉を失う。
何をしようとしているのか理解ができない。
だが確かなことは、この少女には何かわからぬがこの状態における勝算があるということだけだった。
それで十分、とばかりに少女は一言。
「喰らえ」
次の瞬間、少女の手の平から何かが飛び出した!
それは真っ赤な血飛沫であったが、それが主ではない。もっと大きな異物が手の平から飛び出した。
何か?
それもまた鮫であった!
全長二十センチ程度の鮫が少女の血管を裂き、手の平から銃弾の如き速度をもって飛び出したのだ!
その鮫は、弾丸と言って相違ない。
血管を
空中の巨大鮫はこれに驚いた。
小鮫が弾丸として飛んでくるなど砂の海の魔物とて理解の
避けるという意思を覗かせる隙もなく、小鮫は弾丸として巨大鮫を貫く。
意識を失う鮫はそのままごとりと甲板に落ちた。
それが闘いの
血を流しながらその手の平をもう片方の手で押さえつつ、少女は
男は呆然としながら少女に目を向ける。
「大丈夫……なのか」
「慣れましたから。これくらいの痛みは」
それでも声色は痛みに歪む。少女は傷のない方の手で生体車に取り付けた鞄を指差す。
「その中に、注射器が入ってますから……それを取って、……ください」
少女の言葉に答え男は
彼はそれを少女の傍らにケースから取り出して置く。少女はそれに会釈をして、注射器を
「……お前、旅人だろ? ……名前は」
「オーエンとでも、呼んでください」
少女の声には再び余裕を持った美しさが戻っていた。
「とうに名前はすてましたから、おじさま」
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