4-3


***


 百合子は私服に身を包み、夜の街を歩いていた。ショルダーバッグがやけに重い。さり気なく中を確認すると、ノートパソコンとファイルケースらしきものが見えた。こつこつとヒールでアスファルトを叩き、どこに向かっているのかも分からないまま歩みを進める。ショーウィンドウに映るオフィスカジュアルな自分の姿を見て、おそらくはOLだろうと当たりを付けた。

 百合子はこれまで、三十代以上の役を受けたことがない。高校生にしては大人びているが、社会人の格好をすると、少し幼く見えてしまう。現在の役柄は、彼女に与えられてきた役の中でも、おそらくは最高齢と言っていいだろう。といっても、二十代半ば、といったところだが。

 赤信号で立ち止まると、百合子はまたビルに映る自分の姿を確認する。びしっと大胆に引かれたアイラインが、大人に憧れている子供という感じで、妙に気恥ずかしい。歩きにくいヒールと相俟って、それらは百合子を妙な気持ちにさせた。高校生や大学生の役柄が多い自分が、どうしてここまでしてOL役として駆り出されたのか。働く女を演じるだけであれば、適任は他にもっといるはずである。

 信号が青になったので、涼やかな表情で歩き出す。しかし、彼女の頭の中はその表情とは裏腹だった。妙な展開と場面設定に、百合子は軽く疑心暗鬼に陥っていたのである。

 自らに白羽の矢が立った経緯を考えるのは、スポットでモブを演じる際の百合子の癖だった。彼女は常に「どうして自分に声が掛かったか」を考えている。特に、夜道を歩くだけという、誰にでもこなせそうな役の場合は。


 街灯の間隔がどんどん遠くなる。信号だって、先ほどからずっと見かけていない。少し心細くなった彼女は、もう少し歩いてもまだスポットモブで呼ばれた理由が分からなければ、その時は一旦引き返すのもありかもしれないと考えた。彼女がそうしない明確な理由はランプだ。実を言うと、この世界に来てからずっと赤と黄色に点滅しっぱなしなのだ。

 百合子は振り返る素振りを見せずに、鞄の中の物を取り出す仕草を見せる。そして、ちらりと背後に視線だけを向ける。誰もいない。ただのモブが歩くだけのシーンをコマに収めたり収めなかったりする理由とは。

 鞄をまさぐったまま、路地の前を通り過ぎようとしたところで、異変は起きた。


「きゃ……!?」


 何か強い力で、腕を引かれる。体を引き寄せるために腕を引かれたのだろうが、何者かが腕をもごうとしているのかとすら思えるほどの、人間離れした力である。百合子は短い悲鳴だけを置き去りに、路地へと消えた。鞄だけが、その場に取り残されるように落ちていた。


 ――あー……。


 声に出さずとも、百合子は久方ぶりの、深い絶望を味わっていた。薄暗くて狭い路地の行き止まりは雑居ビルの壁だった。百合子はそこに、叩き付けるように投げ飛ばされる。とうの昔に脱げてしまっていたヒールが、百合子を襲った生き物の背後に転がっている。ゴミ溜めのような場所に、ストッキングで降り立つのは心許無い。しかし、今はやそんなことはどうだって良かった。


 ――今回の役、最悪ね


 基本的に、与えられた役に不満を漏らさない百合子だが、今回は特別だ。彼女に覆い被さるように影を落とすのは、明らかにただの人間ではない。二足歩行の狼のような怪物だったのだ。


「いや……なにっ……!? や、やめて……!」


 彼女の前に立ちはだかる黒い狼男は、大きな口の端をつり上げて邪悪な笑みを作る。やめてとは言ったものの、百合子には自分が恐らく助からないであろうことが分かっていた。スポットモブをする時、自分に求められていることを考える癖は、こんな時だって止まらないのである。つまり、何故自分に声が掛かったか、という答えに、彼女はようやく辿り着いたのだ。

 その答えはあまりにもシンプルだった。残酷すぎるほどに。


「ひっ……!」


 並大抵のモブでは精神が崩壊しかねない酷い目に遭わされるのだろう。そのことにすぐに気付けてしまったのは、彼女にとって、きっと不幸だった。

 バケモノは百合子には理解できない呻き声のような言葉で何かを喋ったあと、彼女の細い手首を掴み、深々と腕に噛み付いた。演技するまでもなく喉の奥から発せられた断末魔が、夜の街に染み込む。百合子は既に瀕死状態だが、凶行はこれだけでは終わらない。

 意識は辛うじて保っていた。いや、手放せないと言った方が適切かもしれない。男は味見をするように、百合子の手足に噛み付き、反応を楽しむ素振りすら見せている。四肢からは既におびただしい量の出血があり、悲鳴をあげる余力すら残っていない有様である。時たま、ビクンと彼女の意思に関係なく体が脈打つ。それが酷く無様だと、百合子は消えかけた意識の中で苛ついた。

 抵抗することも逃げ出すこともできなくなった百合子を見下ろすと、男はまた笑った。それからようやく、百合子の身体は肩から食されることになったが、彼女が意識を手放すまでそれから数十秒かかった。地獄のような時間だったことは、言うまでも無いだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る