29 謎すぎる誘拐をされました

 人生で初めて自動車に乗るという経験が、まさか誘拐によってもたらされるとは想像もしなかった。


 もうすぐ寮に着くというところで突如として羽交い締めにされたエディットは、抵抗するより早く巨大な鉄の塊に押し込められてしまったのだ。更には目隠しと猿轡を噛まされ、両手までもが後ろに拘束されており、僅かな抵抗もすることができない。


 恐怖で動けなくなっても良いような状況だが、エディットは落ち着いていた。


 野戦病院の方がよっぽど怖かった。自分の判断によっては救えない人がいるかもしれないという状況より、今の方が遥かにマシだ。


 ——何で私なんかを誘拐したの……?


 男たちの短い会話や手際の良さからは、誘拐することのみを目的とした一貫性を感じた。


 エディットの実家は地方の靴屋で、堅実な経営と店主の人柄だけが取り柄の小さな店だ。もちろん自身に資産などないし、特別なものを持っているわけでもない。身代金を要求したって取るものも取れないような女、それがエディットなのである。


 訝しんでいるうちに自動車が動きを止め、慣性で前へと引っ張られる。強制的に降ろされて何かの建物に入り、しばし歩いたところでドアを開ける音がした。


 そこでようやく目隠しと猿轡から解放される。開けた視界に映ったのは、どこかの貴族の館と思しき豪奢な部屋だった。


 エディットを連れてきた男はここでしばらく待てと言い残して出て行ってしまった。同時に鍵のかかる音がして、どうやら閉じ込められたらしいことを知る。


「……なんなのかしら、この状況」


 呆然とつぶやいてみても良いことが起きるはずもない。せめてと脱出口がないか探ってみるが、両手を後ろに拘束されていてはできることも限られている。わかったのはカーテンの隙間から見えた景色が2階以上の高さを有していたこと、そして家具調度品の質がとてもいいことくらいだろうか。


 仕方なくソファに座ってしばしの時間を過ごした末、ノックの音が響いた。ワゴンを押しながら入室してきたのは、メイド服を纏った可愛らしい少女だった。


 年は自身より少し下くらいだろうか。綺麗な赤毛に白い肌をしていて、鼻の頭にそばかすが浮いている。控えめな雰囲気だが目鼻立ちは品よく整っており、翡翠色の瞳にはエディットを案じる色を宿していた。


「こんにちは。お食事を運ぶように仰せ付かりました。リディアと申します」


「エディットです。どうもありがとう」


 名前を言われたので同じように名乗り返したら、リディアは驚いて目を丸くしたようだった。


「随分と落ち着いておられるのですね」


「まあその、落ち着いて悪いことはないと思うし、貴女から悪意は感じなかったから」


 まさか食事係がメイドさんとは、豪華な誘拐があったものである。エディットは駄目だろうなと予感しつつも気になったことについて聞いてみることにした。


「ねえ、ここはどこ? どうして私を連れ去ったの?」


「申し訳ありません。何も喋ってはいけないと旦那様より申しつけられておりまして……」


 リディアは申し訳なさそうに肩を落とした。

 しかし旦那様とは。ここが豪奢な屋敷であることから見ても、主犯はやはり貴族と見るべきだろうか。それにしたって、どうしてお貴族様がこのような犯罪に及ぶのかがまったくわからないけれど。


「食事ってことは、この両手は解いてもらえるのかな?」


 苦笑気味に問いかけると、リディアはやはり目を伏せて首を横に振った。


「私が食べさせるようにと仰せつかっております」


「そう……」


 期待を裏切られたエディットはため息をついた。そろそろ肩と縛られた両手が痛くなってきている。治癒魔法をかけても良いのだが、拘束を解かない限りはかけたはなから痛みが復活するだろう。


「では、まずはスープからどうぞ」


「うう……お手数かけます」


 健康体なのに年下の可愛い女の子にご飯を食べさせてもらうなんて、恥ずかしいことこの上ない。エディットは観念して口を開けたが、その拍子にあることに気付いて唇を引き結んだ。


「エディットさん、どうされました?」


 スプーンを手にしたリディアが困り顔をしている。エディットは彼女の細い手首を注視しながら慎重に言った。


「その痣、どうしたの?」


「あ……! こ、これは」


 メイド服の袖口から見えたのは、明らかに人に殴られたことを示す赤紫色の痣だった。


「殴られたのね? 一体誰に」


「い、いいえ……大丈夫ですから……」


 問いかけに対する答えはなく、リディアは手首を押さえて俯いてしまった。


 力のない女の子に暴力をふるうなんて。

 エディットは怒りに胸の内を焼かれる思いがしたが、ぐっと我慢してあえて明るく笑ってみせた。


 ソファの上でくるりと後ろを向いて、縛られた両手を浮かせてひらひらさせる。急な奇行に走った人質に、リディアは呆気に取られたようだ。


「私、治癒魔術師なの」


「え……っ! あの希少な、治癒魔術師さんなのですか?」


「そんな大層な者ではないけどね。さあ、治してあげるから、手に触って」


 引き続き手を動かして見せると、リディアは逡巡ののち、そっと手首を触れさせた。

 集中して魔力を注ぎ込んでいく。予想よりも多くの魔力が吸い取られていく感覚がするのは、彼女が見えないところにまだ複数の傷を負っているからだろう。


「凄い……もう傷が治ってしまいました!」


 驚きと喜びで弾んだ声が聞こえて、エディットは安堵の溜息を吐く。もう一度くるりと回転して座り直すと、リディアは深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございます……! まさか私のような者の傷を治して下さるなんて」


「当たり前のことをしただけだから気にしないで。……ねえ、貴女はここで働いているの? 辛い目にあっているのではない?」


 眉間に皺を寄せて問いかけると、リディアはおずおずと顔を上げて儚げな笑みを浮かべた。


「うちは貧乏で、ここでのお給金は他のお屋敷と比べものにならないほど良いんです。だから仕方ないんですよ」


「殴られることが仕方ないだなんて……。こんなところで働いていたら、取り返しのつかないことが起こるかもしれないのに」


「いえ、でも……優しい方もいらっしゃるので、私、大丈夫なんです」


 胸の前で手を握りしめたリディアは、傍目に見ても幸せそうな、芯の通った笑みを浮かべていた。

 その優しい人とやらは、彼女をどれほど守ってくれるのだろうか。まだ納得のいかないエディットは言い募ろうとしたのだが、本来の職務を思い出したリディアに遮られてしまった。


「お食事にしましょう。まだ冷めてはいないと思うのですが」


 ちょうどいい温度になったスープを笑顔で差し出されたエディットは、観念して口を開けた。



 リディアは去り際、絨毯敷きの床にナイフを落とした。

 くぐもった音のせいで気付かなかったのだろうと声をかけたのだが、リディアは困ったように笑い、一礼してその場を去って行った。


 またしても一人きりになったエディットは、信じられない思いで銀色に輝くナイフを見つめる。


 このナイフを足に挟んで正座の姿勢を取れば、恐らくは後ろ手でも拘束を解くことができる。これはおそらく仕事に失敗したら酷い折檻を受けるであろうリディアの、精一杯の手助けなのだ。


 ——どうしよう。甘えてしまって、いいのかな。


 拘束を解けばここから逃げることができるかもしれない。だがエディットがいなくなって真っ先に疑われるのはリディアなのではないだろうか。

 どうしたらいいのかわからず困り果てていると鍵を開ける音がしたので、慌ててナイフをソファの下に蹴り飛ばす。


 そうして、間一髪で開いた扉から中に入ってきた男の姿を見るや、強烈な既視感に絶句してしまった。


 白の混ざった錆茶の髪に灰色の瞳、そして高い身長。ダークグレーのフロックを身に纏っており、一見すると貴族の紳士然とした佇まいをしている。

 歳の頃がおそらく50過ぎであることと、その顔に人好きのする笑みが浮かんでいることを除けば、どうみてもロルフがそのまま歳をとったような見た目ではないか。


 呆然としていると、男はエディットと目を合わせて笑みを深めた。


「ああ、綺麗なお嬢さんだな。あれもなかなか趣味が良いじゃないか」

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