第6話 爪の跡
『お前のしでかした事で、先方は怒ってんだよ。どう責任取るつもりなんだ』
整髪料で髪を後ろに撫で付けた中年の男が、背凭れの付いた椅子にふんぞり返っている。木製のアンティーク調のどっしりとしたデスクを挟み、黒いパンツスーツを着た女性が肩を小さくして立っている。女性は前で手を組み、俯いて返事をしない。
『なぜ納期に間に合わないんだ?』
女性は何か話そうとするが、言葉が出ない。
『理由を聞いてんだよ!』
怒鳴り声の後、中年男は太くて短い足を上げ、革靴のままドンッとデスクに足を乗せた。これが細くてスラリとした長い足なら格好がつくが、尻から爪先までをピンと張り、体勢を無理に保っている。デスクの上に足がギリギリ届いる姿が滑稽である。下ろしている方の足はガタガタと貧乏揺すりをしている。車輪の付いた椅子の金属音が聞こえる。
女性が口を開くが、雑音に混じり殆ど声が聞こえない。
『あぁ?』
中年男は威圧的な声をあげる。
『あの、それは』
立っている女性は、更に肩を小さくして膝を擦り合わせモジモジとしている。そこから先を話そうとしない女性に、中年男の貧乏揺すりは速度を増す。
『怒らねえから言ってみろ!』
その言い方自体、怒声である。こういう奴は客観視なんてできず、言っていることと、やっていることが違うことが多い。
『部長が許可していただいたので』
こういう奴の言っていることは鵜呑みにしない方がいい。貧乏揺すりが大きくなり、中年男は全体を震わせている。
『じゃあ、俺のせいだって言ってんのか!』
中年男はデスクの上のペン立てを女性に投げつけた。女性は顔を背けて両手で顔を覆ったが、ペン立ては女性の頬に当たり、ペンがバラバラと床に落ちた。
『なんだ、その目は!』
声と共に中年男は立ち上がった。勢いよく立ち上がったので、車輪付きの椅子が、後ろの壁に当たり、その反動で椅子がこちらに向かってくる。
ガシャンと音と共に風景がぐるりと半回転し、画面は床と茶色い壺の淵を映した。
「あーあ、お前が傘の取手なんかにつけるから、こんなことになっちまうんだよ!」
天馬が一休の頭を叩こうとした。一休はそれを片手で払う。俺たち4人は、『カルマの部屋』でパソコンを取り囲むように覗いていた。昨晩依頼人の女性が勤めるオフィスに侵入して、取ってきた小型カメラの映像を見ていた。今朝方、一休が映像解析してたものだ。傘の取手に付けた小型カメラは、椅子が当たった拍子に向きが変わってしまったのだろう。床を映しただけの画面で、音声だけが流れている。
「壁とかに固定しときゃよかったんだよ。考えればわかるだろ、普通」
「壁に固定して付けたりなんかしたら、掃除の時にバレちゃいますよ。それにあの傘は安いビニール傘でした。多分、外出先で急な雨が降ってきたために買った物じゃないでしょうか。他の傘はブランド品ばかりでした。そういう見栄を張る人は、そこから外出する時にビニール傘を持って行く可能性は低いと思います。僕はそこまで考えて、傘の取手に取り付けたんですよ」
天馬の指摘に、一休は的確な答えで返す。それに対して天馬が言い返そうとすると、蓮実が、ちょっと静かに!と2人の揉め事を制した。
『だって、私は期日には間に合わないからと、何度も申し上げました。けど、部長は』
彼女が意を決して言い返すも、『なんだと!』と怒鳴り返された。ガシャン、とまた物音がするが、映像ではな何をしたのか確認できないので、想像するしかない。『やめてください!』彼女の悲鳴が聞こえる。またも何かが叩きつけられるような物音。
『俺はそんなこと聞いてない!仮にだ、仮に上司が間に合わせろって言ったんなら、なんとしてでも間に合わせるのが部下の役目じゃねえのか!』
ドカドカと何かを叩きつける音と、女の悲鳴と啜り泣きが聞こえる。蓮実が、物音がする度に顔を
『お前さぁ、頭使ったってバカなんだから、体使えばいいだろ』
『何度も足を運んで、頭も下げました。でも無理なものは無理なんです』
ガラガラ、バンッ、また物音。
『体って、何度も行けってことじゃねえんだよ。わかるだろ、お前、女なんだから』
やめてください、途切れ途切れにか細い声が聞こえる。
『お前みたいなブスでも、取引先のおっさんくらい誘惑できるだろ』
その後服の布地が擦れる音。
「あー、ちょっと見てられない」
蓮実が席を立ち、窓際に向かった。
「見てられないって、映ってんの床だけどな」
天馬が緊張感なく
「おい、これ以上は未成年には見せられん。あっち行ってろ」
天馬は、今度は一休を揶揄う。
「昨日、映像解析するとき全部見てますよ」
一休は涼しい顔で答えた。
「劉くん、どう思う?」
窓の
「これだと証拠としては不十分だろ。これで訴えても、肝心なところが映ってねえんじゃ、どうにでも逃げられるぞ」
「でもパワハラは確実ですよ。それに言ってる内容も、充分セクハラに該当するかと思いますが」
「だって、これ、依頼人に吹っかけて来いって俺らが言ったから、こうなったんだぜ。証拠にゃならねえよ」
天馬と一休が言い合っているところ、蓮実は頭を抱えていた。依頼人には3日前に面会した時に、隠しカメラを設置して、上司のハラスメントを映像で押さえる提案をした。小型カメラは録画可能時間もあるため、態と失敗を犯し、ハラスメントを受けてくれ、と指示した。蓮実は始めこれを咎めたが、依頼人が承諾したため今回のミッションを遂行した。蓮実は、無理にでも止めなかった自分に責任を感じているのだ。
会社の防犯カメラに移っていたなら、法的証拠として認められるだろうが、盗撮となると正式な証拠として認められない場合がある。ただ、それは裁判を起こす場合だ。俺たちの仕事は、裁判の証拠集めではない。依頼人が裁判を望むなら、弁護士を紹介して、俺たちの出番はない。だが、依頼人が裁判を望まず、このまま泣き寝入りするのには耐えられないと言うのであれば、俺たちの出番だ。だが、その出番も依頼人が望めばの話だ。
蓮実がスマホの画面を見た。もうすぐ夕方の5時。あと1時間もしないうちに依頼人がやってくる。
「どうしようか、劉くん」
蓮実の問いに、また少し間を置いた。胸糞悪い映像だった。思い出すと、
「依頼人次第じゃねえか」
言葉は平然を装っていたが、握った拳を開いてみると、掌に爪の跡が残っていた。
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