第2話

 すぐ近くで鳴っていたけたたましい音は、美晴が目を開ける前に消えた。そして、すぐ近くにあった温もりも消えた。それでも美晴は目を開けることができず、遠ざかっていく足音を聞きながら意識を手放す。


 朝、睡魔との勝負に美晴が勝つことはない。

 目が覚めてもすぐに溶けるように眠る。


 夢を見たり、見なかったり。

 寝返りを打ったり、打たなかったり。

 結構な時間をベッドの上で過ごして、美晴は二度目の目覚めを琴子の声で迎えることになる。


「はるちゃん、起きて」


 美晴は、琴子のいつもの台詞で目を開ける。


「ねむい。まだ寝てたい」

「だーめ。そろそろ起きて」


 美晴がくるまっているタオルケットは琴子によってめくられ、ベッドの片隅で丸まっていたパジャマが手渡される。


「とりあえず着て。風邪ひくよ」

「もう七月だし、大丈夫」


 脱いだパジャマを着ることなく眠ったが、寒いということはない。夏が近づいてきていることがわかるほど室温が高く、美晴はパジャマをもう一度丸めて横になった。


「七月でもひくときはひくから。ちゃんと着て。あと起きて」


 琴子に腕を引っ張られ、美晴は無理矢理体を起こして目を擦る。パジャマに袖を通してまた横になると、ぺしんと額を叩かれた。


「はるちゃん。私、そろそろ行くから」


 琴子の声に、美晴はベッドの上に座ってしっかりと目を開ける。


 綺麗に整えられた少し癖のある髪。

 皺一つない紺のスーツ。


 夜とは違う朝の琴子は、先生に見える。

 ベッドで乱れていた琴子はどこにもいない。


 美晴はそれがつまらなくて、でも、よそ行きの顔をした琴子にも惹かれる。要は琴子であれば、どんな姿でもいいのだ。美晴は、年の離れた叔母に盲目的に恋をしている。たとえ、本人に想いを認めてもらえなくてもそれは変わらない。


「ごはん、作ってあるから。ちゃんと食べてね」


 ベッドの上から動かない美晴に、琴子が母親のように言う。


「うん」

「あと、鍵閉めてね」

「うん」

「それと、知らない人は部屋にあげちゃ駄目だからね」

「琴ちゃん。私、留守番できないほど子どもじゃないんだから、毎朝言わなくてもわかってる」

「そう? でも心配で」

「大丈夫だってば」


 美晴は、立ち上がって琴子の背中を押す。そして、そのまま琴子を寝室から追い出し、玄関へと向かう。


 放っておけば、琴子は遅刻寸前まで心配事を並べていく。


 美晴がこの家で留守番をするようになって一年近く経つ。出がけに琴子が言う台詞は聞き飽きるほど聞いたし、覚えてしまった。


「今日、帰ってくるの何時くらい?」


 玄関に辿り着き、美晴は姿見で身なりを整えている琴子に尋ねる。


「いつもと同じ」

「じゃあ、夕ご飯作っとく」

「ありがと」


 美晴は高校に入学したばかりの頃はまったく料理ができなかったが、二年生になる頃には簡単な食事なら作ることができるようになった。


 琴子が学校へ行き、美晴は行かない。

 そういう生活を続けているうちに、掃除や料理といった生活に必要なことが上達した。それは、美晴が長い間学校へ行っていないことの証でもある。正確に言えば、美晴は入学してから必要最低限の日数しか学校へ行っていなかった。


 理由は特にない。

 いじめがあっただとか、家庭環境が悪かっただとかそういった多くの人が期待するような“正当な理由”があって学校へ行かないわけではないから、学校へ何故行かないのかと問われても美晴は答えることができない。


 黙って学校へ通い続けていることの方がおかしい。

 決められた時間に学校へ行き、血の繋がらない相手と恋愛をする。そんな世界の方が間違っている。


 美晴はそう思っている。


「ねえ、はるちゃん。ちゃんと隠れてる?」


 琴子が最後の仕上げとばかりに、ブラウスをの首元を指し示して美晴に尋ねる。


 なにが隠れているのか。

 それは尋ね返すまでもなくキスマークだ。


 これまで美晴が痕をいくつ残しても、琴子は怒らなかった。

 見える場所に残したときですら、怒らなかった。

 もちろん、今日も怒っていない。

 琴子は、優しすぎるほど優しい。


 こんなに優しくては、学校で生徒がいうことをきかないのではないかと心配になることがある。それくらい琴子は優しくて、美晴に甘い。あまりに優しすぎるから、体だけ貸してくれているのではないかと疑いたくなる。同時に、自分が怒る価値もない存在だと思われているのではないかと不安になる。


「よく見せて」


 美晴の声に、琴子が顎を上げる。

 首筋にも首元にも赤い痕はない。


「大丈夫、見えない。……昨日はごめんね」


 美晴は、首筋に触れて小さく謝った。


「いいよ」


 柔らかな声が返ってきて、美晴の胸がちくりと痛む。

 朝から喧嘩がしたいわけでも、怒られたいわけでもない。

 だが、無条件に全てを許されることに息苦しさを感じる。


「じゃあ、いってくるね」


 美晴の思いに気がつかないのか、琴子が明るい笑顔を向ける。昨日の出来事をリセットするような琴子の声に憂鬱になりながら、美晴はこの家で何度も繰り返した言葉を口にする。


「うん、いってらっしゃい」

「鍵閉めてね」


 聞き飽きた台詞を残して、琴子が玄関を出て行く。

 言いつけ通りカチャリと鍵とドアチェーンをかけ、美晴はため息を一つついた。


 朝は苦手だ。

 眠いし、琴ちゃんがいなくなる。


 美晴は当たり前の事実を吹き飛ばすように深く息を吐き出してから、キッチンへと向かう。


 朝食は、冷蔵庫の中にある。

 メニューはほとんど変わらない。


 豆腐と卵焼きにサラダ。

 鍋にみそ汁。

 琴子が用意した定番のメニューをテーブルに並べて、手を合わせる。


「いただきます」


 美晴は、母親が作る料理とさほど味が変わらない朝食を胃に収めていく。


 琴子に預けられたというよりは琴子に頼み込んでこの家で暮らすことを認めてもらった美晴は、母親が住む家にはほとんど帰っていない。そして、母親はそれを黙認している。


 学校へ行こうとしない美晴の相談相手として、七歳違いの妹であり、高校教師である琴子を母親自身が連れてきたのだから、文句をつけられないのかもしれない。


 最初は琴子に自分を押しつけた母親を恨んだが、今では相談相手に琴子を選んでくれたことに感謝している。

 ただ、なんでも冷蔵庫に入れる癖だけは理解できない。


 今、美晴が使っている箸も冷蔵庫に入っていた。

 この間は、財布が入っていた。

 美晴の母親とは違い、琴子にはそそっかしいところがある。


「箸が冷たいのはなあ。ま、そういうところも可愛いけど」


 欠点がない人間は近寄りがたいし、冷たそうに見える。少しくらい足りない部分がある方が人間らしくて、愛らしい。


 相談相手として会うようになった琴子は、叔母というよりは先生だった。そんな琴子を好きになったのは、完璧すぎない姿に温かみを感じたからだ。だから、学校へ行く琴子を見ると、自分と同じように琴子に思いを寄せる誰かがいるのではないかと心配になる。不安になって、やり過ぎてしまう。


 みんなと同じように学校に行けたら、琴子も自分を恋人だと認めてくれるだろうか。


 何度となく考えたことが頭をよぎって、美晴はくだらない考えごと朝食を飲み込んだ。


「今日の夕ご飯、なににしよっかな」


 食器を片付けて、テレビをつける。

 画面を見るわけでもなくだらだらと数時間を過ごして、ベランダに出る。


 空には太陽が輝いているが、それほど暑くはない。

 散歩日和だと思う。


 学校へ行くべき子どもは学校へ行き、会社へ行くべき大人は会社へ行った時間。


 今なら、人通りは少ない。美晴をわざわざ呼び止めて学校へ行けと諭したり、警察を呼ぶような人間はそういないはずだ。


 我が儘を押し通した朝は気持ちが晴れない。

 雲一つない空の下を歩けば少しは気が楽になりそうに思えて、美晴は外へ出ることに決める。


「洗濯は……。帰ってきてからでいっか」


 Tシャツにジーンズ。

 夏に向かう季節に相応しい格好でマンションを出て、通りを歩く。のんびりと美晴が歩いていても、咎めるような目を向ける人は見当たらない。


 見慣れなかった道は、琴子と暮らしているうちに見慣れた道に変わった。


 琴子とジュースを買った自動販売機。

 琴子と一緒に行ったコンビニエンスストア。

 琴子とハンバーグを食べたファミリーレストラン。


 ゆっくりと流れていく景色のすべてに琴子がいる。美晴には、この場に彼女がいないことが不思議に思えた。


 足を大きく一歩踏み出す。

 右に曲がって、歯医者の看板の下を通り過ぎて、大きな通りに出る少し前、美晴は小さな公園の前で足を止めた。中を覗くと、小さな子どもが見える。きゃあきゃあわあわあと明るい声に誘われて、木陰のベンチに座る。


 ブランコと滑り台くらいしかない公園の中、子どもたちが駆け回っている。美晴が座ったベンチの隣に視線をやれば、子どもの母親らしき女性が二人いた。

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