第4話
4.Aスピード本社
2年ほど前に、マラソン界に衝撃が走る。フルマラソンの世界記録が1分以上も更新されたのだ。そのケニア人ランナーが履いていたそのシューズが、アメリカの大手スポーツメーカー「ニューテクノロジー」社のランニングシューズであった。ニューテクノロジー社は、これまでマラソン用のシューズにはあまり力を入れていなかった。しかし、近年のマラソンブームが世界的になり、あちこちでマラソン大会が行われていることを知ると、「これは金になる」とふんで、莫大な開発費を注ぎ込んでシューズの開発を行った。また、ニューテクノロジーは世界各地から有望な選手と専属プロ契約を結び、生活の保障をし、トレーニング環境を整えた。そしてついに「カーボンスプリング」と言われる。炭素繊維でできた板をシューズのソール(靴の底の部分)に埋め込むことで、靴をばねのように使って走る画期的シューズを完成させた。それはまさにマラソン界に革命的変化をもたらしたのである。ただし、カーボンスプリングが入ったシューズで走るにはちょっとしたコツがあり、フォームの若干の修正も必要である。ニューテクノロジー社は、それを真っ先に専属契約のプロ選手にさせた。これが当たり、海外のマラソンレースで次々と優勝をさらう。情報は光の速さで世界を駆け巡る。この現実は、あっという間に日本にも広まり、日本のマラソン大会においてもトップランナーの実に9割がニューテクノロジー社のシューズを履くようになった。お正月の箱根駅伝では、10区間中5区間で区間新記録が更新されるという異例の事態がおこり、その原因の多くはニューテクノロジー社のシューズではないかといわれた。トップランナーのシューズの乗り換えは、あっという間に市民ランナーにも波及した。市民ランナーが皆、ニューテクノロジー社の最高級モデルを履くわけではないが、1,2段ほど下位のモデルでも人気が高まり、国内のシェアは瞬く間に逆転した。このアメリカからの、まさに「黒船」のような出来事に、Aスピード社は江戸時代末期の幕府のように、今のところなすすべがない状態であった。
橘は、社長も参加するAスピード社の技術開発会議のなかで、自分に非難が集中することは確実であろうと思って沈鬱な気分であった。Aスピードの他の部門、ウオーキングシューズや野球、テニスといったところは大幅な業績向上はないものの、堅調な業績を上げていた。そちらの部門では世界的にも大きな波風はなかったのである。定例の業績報告の後、すかさずAスピード社長の
「ランニングシューズの件だが、皆も知っての通りニューテクノロジーにシェアを抜かれて、今のままでは差が開くばかりだな。橘君、開発部はどうなっているんだ」
「はい、もちろん開発部全員でニューテクノロジーに対抗すべく取り組んでいます。しかしあれ以上のものを作るのは容易ではありません」
橘は正直に話した。社長もそう簡単に画期的な新商品ができるものではないことは重々承知していると思っているだろう。しかし、それでも豊田光弘はこう告げた。
「確かにニューテクノロジーのシューズは素晴らしい。これまでにない画期的なものであることは、莫大な開発費をかけているとはいえ認めよう。しかし、我々Aスピードの原点はランニングシューズだ。ここでおめおめ負け続けるわけにはいかない。日本のメーカーが、価格競争で海外製品に負けるのはまあいいだろう。ジャパンブランドの質を落とすわけにはいかんからな。しかし、日本が技術競争、創意工夫で負けてどうする。ここはプライドをかけて、絶対に負けるわけにはいかん。いいな、なんとしてもあいつらよりも優れたものを造りだせ。ニューテクノロジーに勝つには、マラソンのトップレベルで、あいつらより性能がいいものでなければならない。それが必須条件だ!」
豊田社長の激が飛んだ。橘が、そしてAスピードのランニングシューズ部門が生き残るには、もとより前へ進むしかない。初めから開発競争に退路はないのである。新シューズの開発は社長によって橘に課せられた、待ったなしの至上命令となった。
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