天下の険

01、往路

 一月二日。午前六時三十分。大手町讀賣新聞本社ビル。箱根駅伝の一区を走る選手とその関係者にはロビーが開放されている。


 入念なストレッチに励む者や、音楽に聞き入りながら精神統一をはかる者。バランスボールを持ち込んでいる選手もいる。スタートを間近に控え、過ごし方はそれぞれ。十人十色ならぬ、二十一人二十一色だ。


 青嵐大の一区を担うノブタ主将はというと、起床直後から今に至るまで一貫してSNSの更新に余念がない様子だった。しかし彼は付き添いの重陽が合流するなりその顔を見て、ハハッ! と笑い声を上げ携帯を置く。


「ウケる。完全にワースト入ってんじゃん」


 ノブタ主将は真っ赤に腫れ上がった重陽の顔を見て、呆れ混じりに笑った。


「ワースト? ですか?」


「最低最悪のツラってこと」


「ああ……自覚はあります」


「お前のその間の悪さと開き直り、逆にすごくね?」


 それにもまた自覚があった。重陽はいつもこうだ。ここぞ! という大一番で、水にあたったり大怪我をしたり、好きな人にフラれたり。


 重陽には元旦の記憶がほぼない。あるのは両親から渡された(と思しき)真新しいロザリオと必勝祈願のお守り。そして今朝、起き抜けで御科に思い切り引っ叩かれた右の頬が思いのほか腫れて痛い。という事実のみである。


「てかマジ、どしたんその顔。大丈夫そ?」


「大丈夫す。寝起きで御科氏に喝入れられただけなんで」


「あー。……あいつ、たまーにそういうロックなとこあるよな。まあでも自業自得か。昨日ウチ帰って来た時もお前、ひっどかったもんな。オーラが」


「すみません……」


「下らなすぎて何あったか聞く気も起きねえけど、一応タマっちにもクレーム入れといたから。うちのエースにどういうタイミングでなにしてくれてんの? つって」


「本当にすみません……」


 そんな話をしていると、往路の区間エントリー当日変更分が発表されたようだ。あたりが俄にざわついた。


「おー。城南国際大が三区と五区、帝都大が四区と五区で二枚替えか。──釣れたなこりゃ」


 ラジオの中継を聴きながら、ノブタ主将は愉快そうに口角を上げた。


「ですね。……どうでもいいですけど『釣れたな』と『スメタナ』って似てません?」


「似てるけど、今ロシアのサワークリームはマジでどうでもいい……なんでお前が緊張してんだよ。顔の右半分が真っ赤で左半分が真っ青んなってんぞ」


 確かに、今日は自分の走るレースではない。が、駅伝が今まさに始まろうとしている瞬間なんて、これまで緊張しなかったことなんて一度もなかった。


「逆に聴きたいんすけど、ノブタ先輩はなんでそんな落ち着いてんですか」


「俺? 俺はまあ、泣こうが喚こうがこれで最後だしな」


 と言ってノブタ主将は、おもむろに肩を回してみたり屈伸をしてみたりとストレッチを始めた。


「四年間で、やれることはやった。勝とうが負けようが死ぬわけじゃないし、死ねるわけでもない。それに人生百までって考えりゃ、たった二日間のできごとなんて『まあそんなこともあるか』って感じじゃん?」


 さすが、学生だてらに起業しようなんて考えるハイスペ人間様は胆力が違う。と重陽は心底感服し、ノブタ主将の顔を見た。左右の別なく、もれなく真っ青だった。


「……って考えてないと、何回トイレ行っても足りないくらい緊張すっからだよ」


 言わせんな恥ずかしい。と付け足すのもそこそこに、ノブタ主将は口元をおさえながら早足でトイレへ向かった。


   *   *   *


 一月二日。午前七時。横浜市営バス「市場」バス停前。普段はなんということもない通りの一画が、この日ばかりはカメラマンでごった返す。なぜならここは鶴見中継所──箱根駅伝において古くから「花の二区」と呼ばれるエース区間のスタート地点だからだ。


 始発で駆けつけても良い場所は埋まっているので、褒められたことではないが例年徹夜待機が常だ。右を向いても左を向いても、いかついスチールのカメラケースや小ぶりの脚立に腰掛けた重装備のカメラマンが寒さに膝を震わせている。


 夕真もまた例外ではない。動いている内は死ぬほど暑く感じられた全身のカイロも、日陰にじっとしていたのではほとんど気休めだ。


 それでも、夜明け前よりはまだ寒さもましになってきた。天気は晴れ。気温は五度。今のところ風はなく、凪いだ穏やかな天気だ。


「──青嵐大、往路には松本を入れてこなかったな」


 イヤホンの外側から見知らぬ人のそんな声を拾い、夕真は咄嗟にラジオの音量を落とした。


「復路で差し返す作戦なんだろ。あそこは四年より三年の方が力がある。シード権狙いならそういう作戦もありじゃないか?」


「しかし、それだって往路である程度の位置につけてないと厳しいだろう。今季の記録会見る限りじゃ往路で目立ったタイムを出してるのは二区の三浦弟だけだし、やっぱり総合順位はいいとこ十五位あたりかねえ……」


 おいおい。ウチの主将とホープたちををナメてもらっちゃ困るぜ。と会話に割って入りたくなるのをぐっと堪え、夕真はイヤホンのペアリングを手元のタブレットへ切り替えた。


 配信サイトのライブ中継では、スタートを目前に控えた一区の選手たちがそれぞれにアップをはかる様子を伝えている。夕真は目を皿のようにして、その中にノブタと喜久井の姿を探した。往路を走るメンバーの付き添いには、その区間の真裏にあたるメンバーがそれぞれ割り当てられている。


「ぶっ! ふっ、ぐぐぅ……っ」


 ビルのロビーでノブタのストレッチを手伝っている喜久井を見つけ、悪いと思いつつも噴き出してしまった。顔の右半分は手のひらの形にくっきり腫れ上がっていて、左半分はゾンビと見紛うほどに真っ青だったからだ。


 緊張してるのか? 自分が走るわけでもないのに。こんな顔になるまで? と可笑しく思いはしたものの、すぐに罪悪感が首をもたげて夕真の胃をぎゅっと締め付ける。ノブタからもしっかりクレームを受けたばかりだ。大事なのは何を言うかではない。何を言わないかである。と。


 やっぱりあのタイミングはどう考えても間違いだった。誠実か不誠実かで言えば、自分では誠実だったとは思う。思うけれども、誠実であることと正しいことは、時として一致しない。というのもよく分かった。


 喜久井の右頬が腫れているのは大方、見かねた御科にひっぱたかれでもしたんだろう。だとするならきっと、御科からはまた一つ恨みを買ってしまった。これで喜久井がレースで失敗でもしたらと思うと、寒さとは別の意味で震えが止まらなくなりそうだ。


「……でもま、それも俺らしいっちゃ俺らしいか」


 夕真はマスクの中で独り言ち、思うようにいかなかったことが大半を占めているこれまでを振り返った。けれど変わろうとしたことは何度もあったし、実際その決意のもとで変われたこともあるにはあるのだ。


 嫌われたって、恨まれたって構いやしない。俺は今日までよく頑張った。ここが俺の天井だ。その天井へぴったりつむじがつくまで、織部夕真はよくやってきたよ。


 そう思えることが、やっぱり夕真にとっての一番の変化──夕真自身が選んだヒーローのくれた、一番の「勇気」だ。


 時刻はまもなく八時。スタートラインに続々と選手たちが集まって来た。ノブタはこの大舞台にでも変わらず、四年間貫き通したチャラい金髪だ。良くも悪くも、整列した選手たちの中では一番目立っている。


 大手町に詰めかけたギャラリー。その大歓声に霞む「位置について」の声。そして、いっそあっけないほど乾いた号砲。


 しかしその乾いた短い音で、二十一人のランナーはアスファルトが凹むのではないかというほどの熱量で力強い一歩を踏み出した。


「……っし!」


 スタートして最初のカーブを、大外からではあるもののノブタがいの一番に曲がっていく。上空からのそんな映像を見て、夕真は思わず小さくガッツポーズをした。


 一区には「最初にカーブを曲がった選手が区間賞を取る」という都市伝説がある。謂わば箱根の福男だ。実力からすればノブタが区間賞を取る確率は低いと言わざるを得ないが、それにしたって験を担いで勢いがつくに越したことはない。


「行ったなー、ノブタのやつ。てかやっぱブリーチしなおして正解じゃん? 集団の中にいてもすぐ分かんね」


「うわっ! びっくりした!!」


 知らぬ間にすぐ背後へ忍び寄ってきていたユメタが、夕真のタブレットを覗き込んでいた。


「ユメタお前なにやってんの……準備は?」


「んー。もうあんまやることない。緊張でゲボ吐きそうだから気ィ紛らわせに来た」


 飄々とした様子でそう話すユメタであるが、とても緊張しているようには見えない。いっそどこか大物感すら漂わせている彼の登場に、他媒体のカメラマンたちは少し戸惑っていた。


 無理もない。二区を走るようなエース格の選手は普通、カメラブースなんかうろちょろしないし金髪でもない。


「タマっち、なんか面白い話してよ。じゃないと吐く」


「ええ……付き添いの御科はどうしたんだよ」


「もうアイツの推し布教は聞き飽きたよ。ゲームとか俺よく分かんないし。っていうかタマっちにはとっておきの面白い話があんじゃん。シラ切ろうったってそうはいかねえよ?」


 片腕でがっちり夕真の首元をホールドしているユメタは、口角こそ上を向いているが目が笑っていない。心当たりは、有り余るほどにある。


「その節に関しては誠に申し訳な──」


「そういうのいいから早く話して」


 有無を言わさぬ目力と語調で遮られ、夕真はしぶしぶ喜久井家での年越し模様を彼に話した。するとどうだろう。ユメタの顔がみるみる紅潮していく。


「えーっ!? なんだそういうこと!? てかそれどっちかっつーと向こうの自業自得じゃね?」


「どうしてそうなる!?」


 てっきりユメタからの〝怒られ〟も発生するものと思い身構えていた夕真は、ほとんど真逆のリアクションを受け思わず声を裏返した。しかしユメタはそんな夕真の様には構わず、場所もタイミングも忘れたように声を弾ませる。


「だって、年末年始っつーわりと重めのイベントでいきなり家族に会わせるとか。どう考えてもがっつきすぎっしょ。そらマリッジブルー入りますわ。あいつ自爆してんのウケる」


「マリッジブルーではない断じてない」


「いや、似たようなもん似たようなもん! てか、完全に外堀コンクリで固められてんのに気付いてないタマっちもウケんだけど。超お似合いじゃん」


 お似合い。という言葉の響きで不覚にも浮かれそうになり、夕真は自らを戒めながら下がったマスクを鼻の頭まで引き上げて「どうも」とだけ応えた。


「はあ……いいなあ。俺も彼女欲しい。箱根終わったらぜってー恋活してやる」


 ユメタは当然のことのようにそう発し、ため息を吐く。


「今日ちゃんと走れたら、陸上やめてもモテるかなあ。どう思う?」


「どうって……モテるとは思うけど、辞めるのか。陸上」


 きっとその場で話に聞き耳を立てているであろう誰もが気になったことを、夕真はほとんど代表のつもりで尋ねた。


「うん。辞めるよ」


 そんな夕真の思惑に、きっとユメタも気付いている。なのでさっきから喜久井のことは「向こう」とか「あいつ」としか言っていないし、やけにはっきりとした語調で「辞める」と言ったのだ。


「だって思い出してもみろよ。俺とノブタはそもそも青嵐イチのエンジョイ勢だぜ? 走るのは好きだけど、ほんとはこんなヒリついたレース目指すはずじゃなかったんだ。俺らはもっと、泡まみれになったりソーセージ食ったりしながら楽しく走りたいの! そういう方が絶対性に合ってる」


 ねえ? ノブタ。と言って、ユメタはタブレットの中で必死の形相を見せている兄へ語りかけた。一区は前半でノブタがしっかりペースをかき乱し、新八ツ山橋──コースの約十キロ過ぎだ──あたりで集団は前後の二つに分かれていた。


 ノブタは前方集団の最後尾につけている。彼の持っている記録で言えば、本当についていくのがやっとのペースだろう。


「……アップダウンきつくなるのここからだぞ。大丈夫かな」


「ノブタはやるよ。なんせ、今日が記念すべきラストランだ」


 夕真と一緒になってしゃがみこんでいたユメタはそう言って立ち上がり、指の関節をぽきぽきと鳴らした。


「じゃ、タマっち。あとは頼んだぜー。タスキ渡しの写真、ピンぼけしてたら死刑だかんな」


「誰に向かって言ってんだ。俺の写真がピンぼけで使えなかったことなんかあるか?」


「人生は常にピンぼけ気味っぽいけど大丈夫そ?」


「上手いこと言ってないでとっとと行け!」


 そう言って夕真が彼を追い払うと、ユメタは可笑しそうに笑いながら「いってきまあす」と肩越しに手を振りカメラブースをあとにする。


 夕真は両耳にイヤホンを差し直し、再びラジオの中継に集中した。タイム差はそれほどでもなさそうだ。きっとノブタも、前を走る選手の背中が見える位置では入ってくるに違いない。


「ノブターーっ! 四年間お疲れ様ーーっ! これからも一緒にサクセスしようぜーーーーっ!!」


 中継ラインからユメタの大きな声が聞こえる。読み通り、ノブタはトップとのタイム差二十秒ほどでユメタに両手で差し出すように襷を渡した。順位は十一位。夕真は声援を送る代わりに何度もシャッターを切り、写真に賞賛とエールを焼き付けた。


   *   *   *


 青嵐大は往路を八位で終えた。重陽がその様子を目の当たりにしたのは芦ノ湖ではなく、箱根登山鉄道・大平台駅すぐの街頭テレビの前だ。


「は……八位……!? やった……!!」


 安堵と喜びから、思わずその場に膝をつく。少しすると周囲の人が青嵐大のジャージを着た重陽に気付いて、万来の拍手を送ってくれた。


 大手町でノブタ主将を送り出した重陽は、地下鉄とJRを乗り継ぎ三区の給水地点へ駆けつけた。そして役目を果たすと再び電車でゴールの芦ノ湖を目指したものの、あと少しのところで小田原駅の入場規制に捕まってしまい、大平台でその瞬間を迎えたというわけだ。


 青嵐大の順位はユメタ主務が二区で七位まで押し上げたものの、三区の時点では既にその貯金も使い切り、五区へ襷が渡った頃には順位も十六位まで後退していた。土田コーチの読み通り『ダレ場』に他校の有力選手を釣ったはいいが、やはりそれだけ苦しい戦いになったのだ。


 その時点で、トップをひた走る東体大からつけられていたタイム差は十二分超。一位のチームから十分以上の差がついたチームは、復路のスタートでは往路の順位にかかわらず一斉スタートとなる。襷が途切れるということではないものの、見た目の順位と実際の順位に差異が出るため走る側としては混乱しやすい。


 重陽は、五区へ襷が渡った時点ではほとんど復路の一斉スタートを覚悟していた。ところが、一年だてらに山登りの五区へ抜擢された如月が快走。というより、もはや「怪走」と言っても過言ではない走りをして見せたのだ。


「登りで八人ごぼう抜きして、区間二位。……どこからどう見ても歴代の〝山の神〟と遜色ない走りなんだけどなあ」


 夕方になって、各自が翌日の復路に備えた宿泊先で落ち着いたタイミングで設けたオンラインミーティングの場でも、土田コーチはそう言ってしきりに首を捻っていた。


「ほとんど中継に映ってなかったのはなんでなんだ……」


「ええと……〝山の神〟の条件は、ごぼう抜き・区間新・往路優勝っていいますから。満たしてるのが一つだけでは、ちょっと神様にはほど遠いというか……」


 そう言って謙って見せながらも、如月はずっとチラチラ別のアプリを気にしている様子が伺えた。というのも、現地観戦のマニアが如月の走り様につけたハッシュタグ「#山の忍者」がにわかにバズっているのだ。如月はSNS上で、完全なる伏兵としてその名を轟かせていた。


「でも、テレビ中継はともかく夕真先輩は鶴見でノブタ先輩がタスキ渡し終わったあとはずっと電車で並走してたんですよね? ウチの忍者のいい写真、あるんじゃないですか?」


 重陽がそうして話を振ると、夕真は一言「まあ、一応」と言って共有フォルダに写真をアップロードした。


「──って言っても、撮ったのは五区で待機してた別働隊なんだけど。俺が追いつけたのは塔ノ沢だったから、序盤も序盤だな。速かったよ如月は」


 携帯の小さなディスプレイの中の、さらに小さく格子状に区切られたスペースで微笑み、賛辞と拍手を送る夕真。


 ほかのメンバーも、もちろん重陽も、チームの順位を大幅に押し上げた如月へ惜しみない拍手を送る。重陽は「おれだって走ったら速いし!」とついつい心の片隅でせこいヤキモチを焼いてしまう自分を、カメラの外側で脇腹をつねりあげることで戒めた。


 ミーティングはその後、各自のコンディション共有、そして土田コーチとアナリストの有希から復路に向けての留意点が伝えられて解散となった。


 二人によれば、有希が監督車に乗っていることは今日の往路でほぼ全チームに知れ渡っているため、当日変更を行うチームがあるとすればそれは松本有希包囲網ではなく純粋にその日の選手の調子によるものだろう。ということだった。


 つまり、復路はどこの区間もハッタリのきかない真っ向勝負になる確率が極めて高い。


 のぞむところだ。たとえ何位で自分のところへ襷が来たって、絶対に誰より速く走ってシード権をもぎ取ってみせる。そのために、喜久井エヴァンズ重陽はアンカーに選ばれたのだ。

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