02、青煙の声援

 さすが本気で箱根駅伝を目指してきただけあって、人波をぬって全速力で駆けるユメタは速い。夕真は背に追った機材を揺らしながら必死に追い縋ったが、どんどんその背は小さくなった。


 行き先が分かってて助かった! 息を切らせながらも、安堵に胸を撫で下ろす。

すっかり撒かれてしまったものの、みどりの窓口で夕真が自分は青嵐大の学生であることを伝えると、窓口にいた壮年の駅員は親切に医務室まで連れてきてくれた。


「──ありがとうございます。お騒がせしてすみません」


 夕真は少し声を顰めて頭を下げ、医務室のドアをノックしノブを捻った。


「……あ、タマっち。こっち来たんだ」


 ユメタと土田コーチが顔を上げ、戸口に現れた夕真をおろおろした目で見た。有希は、細長いパイプベッドに浅く腰掛けて項垂れている。


「うん……な、なんとなく?」


 ぎこちなくそう発すると、ユメタは平静を装って「記者のカンってヤツだ」と小声で茶化してから続けた。


「改札出てすぐのとこ、大学の幟とモニター出てたの見た?」


「ああ、見た。今年の箱根とか……あと、出雲駅伝の録画も流れてたな」


「そう。出雲。……それ見て、過呼吸起こして倒れたみたい」


 着いたばかりのユメタはやはり少し動揺しているのか、言いたいことは分かるもののどこか要領を得ない。


「──ちょうど、こいつの弟が走ってるとこだったんだ。ニコニコしながらごぼう抜きして、先頭に躍り出たとこ」


 補足するように、土田コーチが落ち着いた口調で、けれど戸惑いがちに言う。


「陸上やってる人間で、松本兄弟のゴシップ知らない奴はいないからな。こいつがメンタルに問題抱えてる理由はみんな察しがついてるし、今日はその上でこいつに期待してる奴しか来てないはずだ。……けど、それをポジティブに捉えられるヤツはそもそも〝青嵐〟には来ないよ。タマっちも解るだろ?」


「……はい。とても」


 彼の諦念と苦笑の混じった眼差しが、夕真の胸の奥にもずぶりと突き刺さった。


「それが、このチームの基礎で、柱で、梁だってきっと、みんな思ってますから」


 土田コーチの言葉を補強するように応える。それは、有希だって自分で言葉にしていたはずのことだ。このチームには、大なり小なり脛に傷のある人間がいるし、縁も深い。


 けれど、それとこれとは話が別だ。ということも夕真は身をもって知っている。


 自分の傷はあくまで自分だけのもので、人の傷はその人だけのものだ。自分と同じく脛に傷を持った誰かがうまくやっていたとしたって、同じ場所で自分がうまくやれる保証はない。


 むしろ、人ができることを自分ができないという差異をまざまざと見せつけられて、より絶望が深まるばかりなのだ。


 有希が今日の予選会を走れるかどうかというのは、もはや聞くまでもなかった。喜久井ほどの空気読みではなくとも、そのくらいの察しはつく。


「──本人も、走りたいって気持ちは強いみたいなんだけど」


 と言って、苦々しい表情で夕真に携帯の画面を見せて来たのはユメタだった。立ち上がっているメモアプリには、ただ『死にたい』の四文字が刻まれていた。


「……気持ちは、たぶん俺が一番解る」


 ユメタにそう告げて、夕真は項垂れたままで微動だにしない有希の前で膝を折った。


「今は死にたいかもしれない。でも、嘘だって思うかもしれないけど、生きてさえいればそのうち夜は明けるよ。自分のことなんか信じなくたっていい。この人たちについて行けばいい。──そもそも、お前はそうやって喜久井の背中を追って、ここなら闘えるって思って、そうやってここまで走って来たはずだろう?」


 有希はしばらく黙ったままでいたが、やがて眼鏡を外して袖口で目元を拭い、小さく首を縦に振った。



   *   *   *


「先輩!?」


 と発した重陽を振り返ることなく、夕真は車を降りていった。


 その背中は重陽からすると少しもどかしいくらいの鈍いスピードで、細かな雨粒の中に吸い込まれていく。今すぐここを飛び出していけばきっと、追いつくまでにはそう何十秒もかからないだろう。


 しかし重陽は、断腸の思いでスライドドアを閉めた。


「──いいのか? 行かなくて」


 運転席のノブタ主将が、背中を捻って重陽に念押しをした。


「大丈夫です。そんなに大人数で押しかけたって、しょうがないし」


「そっか」


 小声でそう言って、ノブタ主将はウインカーを上げる。バックミラーに写っている彼の目は、未だかつてないほど動揺の海に泳いでいる。


「っし。切り替え切り替え! そもそも夏までは松本ナシの布陣で走り込んできてんだから、フツーに走ればイケるっしょ!」


 ノブタ主将は明らかなカラ元気でアクセルを踏んだが、車内に返事をする者はなく、ただ御科のヘッドフォンから微かに漏れ聞こえてくる音が重陽の耳には刺さるように聞こえていた。


 そんなことが気になるのは自分のような小心者だけだと思いたいけれど、あえてほかの仲間の顔を見て確認する勇気はない。


 ほどなくして車は昭和記念公園の西立川口駐車場に着き、各々がどこかおどおどしながら車を降り、銘々に手分けをしつつ荷物を手に手に移動を開始した。


 箱根駅伝の予選会で、本戦出場常連校や突破を期待されるような新興校は応援団もそれなりのものだ。


 公園内では、行く先々で色とりどりの幟や応援団やチアが目を突いた。けれど青嵐大駅伝部の一団はその中を、どこかこそこそを肩を竦めながら俯きながら無言で突き進む


 二年半前に丹後主務が起こした事件や、その後に三浦兄弟の選んだどこか人目にはチャラついた運営方針の影響で、青嵐大陸上部長距離部門──即ち駅伝部は、表立った後援や応援団を得られずにここまで来てしまったのだ。


「おいお前ら。ビビってんじゃねえぞ。そういうのほかのヤツらにも伝わるからな。胸張って歩けよ」


 ノブタ主将は先頭でそう言うが、肩身の狭さを拭えずにいるのはどうやら重陽だけではなかったようだった。後ろに続くメンバーは誰ひとりとして、その言葉には返事をできずにしばらくただ俯いて歩を進めた。


 やがてスタート地点になっている立川駐屯地の広い敷地が見えて来て、すぐそばの芝生に先行していた助っ人部隊が陣地を作っているのが重陽の目にも入った。公園の敷地に入って初めて目にした自軍の幟ではあるものの、その事実はかえって情けなく心許ない。


 とそこで、すぐそばを歩いていた御科が初めてヘッドフォンを外した。


「……いい雰囲気。ナメられてた方が、かえって好都合ってもんだ」


 ふひひっ。と笑いながら吐息まじりに発せられたその言葉は、おそらく重陽だけに聞こえていた。なぜそう思ったのかと言えば、御科の強気な言葉でも特にその場のムードがひっくり返ったりはしなかったからだ。


 思えば「もったいねーっ!」と思い続けていた二年半だった。彼は出会った時からずっとそうだった。御科師馳は常にシニカルだが、その言動とは裏腹にいつだって無自覚に、誰より先に闘志を剥き出しにして走る男だった。


「え、なんですって? 御科先輩、何か言いました?」


 案の定、後ろを歩いていた一年の如月が忍びなさそうに彼の方へ耳を傾ける。けれど御科は、別に。と相変わらず肩を丸めたまま、如月の方を見ようともせず小声で応える。


 それを聞いて戸惑いのまま顔を白くしている如月を見て、重陽も覚悟が決まった。


 眼前ではノブタ主将が助っ人軍団に今日の流れを説明している。重陽は、そんな場の流れや空気をぶち壊さんばかりの大声で叫んだ。


「ヒーロー見参っっ!!」



 重陽のすぐ目の前にいたノブタ主将は、苛立ちとともに振り返った。


「なんだようるせえな!!」


 ほかの駅伝部員や助っ人部隊もまた、同じような顔で重陽を見た。御科だけがただひとり、得意そうに重陽のそばで「ひひ」と笑い声を上げる。


「……気に入らねえ。ぜんっぜん気に入らないっすね。『なんだよ!!』は完っ全にこっちのセリフっすわ。おれを誰だと思ってんです? 知ってるでしょう。おれこそがご存知『インディゴの不死鳥』サマですよ! そもそもおれの目が黒い内は、このチームに有希の椅子なんかねーーんですよ!!」


 切り慣れない啖呵なので、舌のもつれは否めない。けれど、それを聞き届けたその場の人間みんなが「そういえば!」という風に目を瞠いたので、重陽はその勢いのまま畳みかける。


「これがおれたちの底力だって捉えるか、チームの戦力ダウンと捉えるかは、人それぞれだと思います。──でも一、二年! お前らにとっちゃ意地の見せどころだぞ!」


 こんな場面で発した言葉が、オリジナルでなくほぼほぼ恩師の受け売りなのは、さすがに情けない。


「おれからお前らに言えることがあるとすれば一つだけだ。あいつの椅子を取っておいてやる必要は一切ない! 全力で走れ!! お前なんか居ても居なくても一緒だってとこ、あの一匹狼気取り野郎に解らせてやれ!!」


 それぞれの顔を見回しながら凄むと、眼鏡ともコンタクトとも無縁のすこぶる視力良好である重陽の両目は、後輩たちが真顔で固唾を飲み喉仏を上下させるのを認める。


 数秒、沈黙が場を支配した。その場を打破したしたのは、ある意味では重陽とは真逆の性質を持ち、どんな場所でも真の意味でのマイペースを貫く男──そうあることを、常に周囲へ認めさせて来た男。御科師馳だった。


「ふっ、ひひっ……あ、すんません。でも……むっ、無理……」


 耐えきれない。といった風情で腹を抱えて痙攣するように笑う御科。


 そんな彼を、その場のほとんど全員が珍しい虫でも見るかのように、首を後ろに引きながら見ていた。


「喜久井氏、そ、そもそも、目……黒くないのに……ふふっ、目の、黒い内とか……ふっ、ふひっ、いや、む、無理……目の黒い内──ふふっ、い、一秒も、ふふっ、な、ないじゃん……」


 御科はひとりでツボってひとりで引き攣り笑いを続けている。重陽も含め、その場にいる青嵐大生全員が、重陽が啖呵を切った時よりもよっぽどぽかんとした顔をしている。


 少しして、動揺に目を泳がせていたノブタ主将と視線がぶつかった。


「──あはははははっ! ほんとだ!! 重陽、めっちゃブルーアイ!!」


 彼は、空気を読んでというよりも純粋な気付きによってという風に目を丸くして笑う。


「ああっ! そっ、そうでした……っ!! おれの目、そもそも黒くなかった!!」


 それを受けて、重陽は長年培ってきた「まあまあ」「そこをなんとか」の能力をもって同調し、大袈裟に頭を抱えてみせる。


 当の本人がそうしたことで、それはその場において「笑ってもよいこと」になった。笑い声が波紋のように伝播し、白かった後輩たちの顔には血色が戻ってきた。


 よし。よしっ! リカバリー完了!!


 重陽は心の中でガッツポーズをして、彼らと同じように声を上げて笑った。


 二十一歳の重陽は二重国籍なので、日本人でありスコットランド人でもある。


 とはいえ基本的に、日本において自分の外国人然とした見かけを揶揄されるのは気に食わない。


 だからきっと、最初に笑ったのが御科でなかったら怒るか拗ねるかしていたに違いない。


 御科だったから──親友だったから許せたしありがたいと思えたのだ。有希が入部する前までは御科が名実ともに駅伝部のジョーカー的存在だったが、やっぱりそのポテンシャルは健在だった。



   *   *   *


「……すまんタマっち。ここ、任せていいか」


 忍びなさそうな声に振り向くと、土田コーチが手首のスマートウォッチを見て眉尻を下げていた。


「俺はともかく、ユメタはそろそろアップしないと──」


「わかりました」


 不服そうな顔で「いやでも」と言い募るユメタに構わず。夕真と土田コーチは頷き合う。


「有希が落ち着いたら駐屯地に行きます。スタートに間に合わなくても、五キロと十五キロのところではタイム測って声かけますから」


 夕真がそう言うと、ユメタもまさに断腸の思いといった風情で頷いた。


「了解。……あとは頼んだぜ。タマっち」


 ユメタがあんまり弱気な声でそう言うので、かえって強気になれた。


「ああ。任せてくれ。なんにも心配ない。思いっきり走ってこい!」


 そう発した夕真の様に、ユメタは少し驚いたように目を瞠って見せたが、すぐに土田コーチに促され早足で医務室を出ていく。


 ユメタとは──もとい三浦兄弟とは、入学してすぐからの腐れ縁だった。


 学部が同じなのでサークルも選ぶ前からオリエンテーションや新歓で顔をよく合わせていて、青スポに籍を置いた夕真に丹後主務の敏腕ぶりを熱心にプレゼンしたのも彼らだった。


 夕真にとっては、喜久井の次に付き合いの長い親友たちだ。たくさん相談に乗ってもらった。たくさん助けてもらった。なんなら現在進行形で助けてもらっている真っ最中だ。


 思えば夕真は、彼らによって初めて「友情」を知ることができた。


 都会育ちの彼らにはずいぶんコンプレックスも刺激されたが、そんなカルチャーショックなんかなんの問題にもならないくらい、彼らは夕真に紛うかたなき青春を与えてくれた。


「……ウチのエースは、喜久井や御科だけじゃない。ユメタとノブタだって、底力は見上げたもんだぜ? 楽に構えろよ。いい意味で、お前が走らなくたってあいつらは勝つ」


 夕真がそう言って立ち上がると、有希はジャージの袖口でごしごしと目元を擦り、百も承知だとでもいう風に頷いた。


「よし。──行こう。ウチは少数精鋭だから、走る以外にもやることは山ほどある。レース勘なんかは俺よりお前の方がよっぽどあるんだろうし、俺が声かけるから指示出しは頼むよ」


 有希はもう一度強く頷いて立ち上がり、すぐそばへ無造作に転がしてあった自分のクラブバッグを肩にかける。


 そして、夕真がもう一度「行こう」と促すと、彼はむしろ夕真よりも早足で部屋を出た。


 みどりの窓口で挨拶と医務室を使わせてもらったお礼を言って二人で頭を下げ、急ぎ足で公園へ向かう。


 その道程には出場校の関係者、そのほか老若男女の陸上ファンで溢れていて、今や学生陸上界のトップに君臨するルーキー・松本遥希と瓜二つの有希は想像以上に衆目を集めた。


「……大丈夫か?」


 瞬く間にまた白くなる有希の顔色を認め、夕真は恐る恐る尋ねる。しかし彼はマスクの下で呼吸を荒くしながらも、首を縦に振って見せた。


「そうか。……ならいいんだ」


 もうこれ以上は訊くまい。そう決めて、夕真もまた頷いた。走るのは言わずもがな、有希は歩くのもずいぶん速い。夕真には着いていくのも精一杯だったが、おかげであっという間に駐屯地に着いた。


 あたりには常連校や新興校の幟がたくさん立っていて、チアや応援団のリハーサルの声も飛び交っている。


 が、その中には一つとして青嵐大学の幟も見えなければ声援もない。完全なるアウェー戦だ。松本遥希が個人レベルの関東仮想敵なら、青嵐大は学校レベルのそれに違いなかった。


 夕真が柄にもなくそんなことにふと心細さを感じた、その時だった。有希が腕を上げ一点を指さした。


 その先では、なんとダサくも喜久井が特撮ヒーローみたいな格好でポーズを決めていた。



「ははは! バカだな。あいつ。なあ?」


 泣きそうになってしまったのをごまかすように言って、有希に同意を求めた。けれど彼は夕真を一瞥もせずに、自分の指した先を見つめながら大きく首を横に振る。そんな横顔に、はっとさせられた。


「──そうだな。バカとかじゃない。今のは俺が悪かった。……そういうところだ。俺の悪いところは」


 そこで有希はようやく夕真の方を見て、雨粒に曇った眼鏡の奥の目を不可解そうに眇める。


「あいつみたいに心の体幹しっかりしてないヤツが、世間に合わせて自分のカタチ変えようとしちゃいけないよな。……喜久井はヒーローだ。お前のことも、きっと助けてくれる」


 有希はやっぱり不可解そうに目を眇めたままでいたものの、その言葉には少し照れ臭そうに頷いて見せた。


 夕真もまたそんな彼に頷き返し、リュックを腹の前へ持ってきてタブレット端末を取り出して渡す。


「なんか、俺ばっか喋ってんのも居心地悪いからさ。使って」


 有希は少し忍びなさそうにまた頷いて、おずおずとそのタブレットを手に取る。


「──使い方は大丈夫だよな? そろそろ人も増えてきたから、こっちも場所取りに行こう。ホーム画面の地図見てもらっていいか」


 有希が操作するタブレットを一緒に覗き込みながら、撮影ポイントにチェックをつけた地図アプリを解説する。


「さっき駅の医務室で言った通り、俺たちは五キロと十五キロのところで声かけをする。五キロ地点は駐屯地内のすぐそこ。公園との境目あたりだ」


 知ってると思うけど。と言いながら彼の背後を指す。それを見て有希はやはり勝手を知ったような風情で頷いて向き直り、タブレットへ目線を戻した。


「よし。で、あいつらが全員五キロ地点を通過したら、俺たちはそのまま公園を突っ切って十五キロのところに向かう。このあたりの十人通過順位で、わりと総合順位も決まってくるはずだし……だよな?」


 そう訊かれた有希はやはり真剣な顔つきでこっくり頷き、タブレットを地図からメモアプリに切り替えた。


『良くも悪くも流されやすい一、二年の追い込みが課題。序盤に振り落とされて焦るとスタミナを消費するし、モチベーションが保たなくて最後まで走りきれない奴も多い。でもスローペースで入って振り落とされなければ勝ち目はあるはず』


「──なるほど。ありがとう。いい声かけができそうだよ」


 夕真が口角を上げて見せると彼は、まんざらでもなさそうに会釈をして見せた。


「要は、やっぱりバクチだな。序盤のペースでレースが決まる。スローならワンチャン、高速ならまあ……」


 有希はまた深く頷き、タブレットの上に指を踊らせる。


『いつも通りに走るしかない』



   *   *   *


「ごめんごめんお待たせ!」


 少し深刻そうな顔で駆け寄ってきた土田コーチとユメタ主務はしかし、紅潮した顔でリラックスした面々を見ては「おや」という風にあたりを見回す。


「え、なんなん? どういうこと? どういう和やかさなのこれ」


 ユメタ主務は戸惑いを露にしつつも普段のパリピ的軽いノリを保ちながら、最終的にはやっぱり兄であるノブタ主将を見ては助けを求めるように発した。


 すると、ノブタ主将はそんな弟の白い顔を見ては黙ったまま大きく息を吸い込んだ。


 そして脚を肩幅に開いて片手を腰に当て、もう片方の手を分厚い雨雲の中に突っ込まんばかりの勢いで突き上げる。


「ヒーーローーッ! 見ッ、参ッッ!! わーーっはっはっはっはっは!!」


 ノブタ主将の、自棄っぱちな高笑いが滑走路に反響した。助っ人も含めたチーム青嵐大一同は、つい寸前よりもずっと「きょとん」とした顔でノブタ主将を見つめている。


「わっ、わーーーーっはっはっはっはっは!!」


 なので重陽は、慌てて自分もまた同じように──むしろ、負けじと腕を伸ばして高らかに笑って見せた。


 案の定、御科が「ぶふぉ!」と声を上げ腹を抱えて噴き出す。そしてその笑い声はまた、うねる波になって全員を包み込んでいく。重陽のように天へその手を突き上げて笑う奴もいれば、御科のように腹を抱えて笑う奴もいる。


 そんな様子を土田コーチは、一歩引いたところから何かを察したような素振りで見ていた。


「ちょっと待って! なんなのマジで!? 意味わかんないんだけど!?」


 一方のユメタ主務は、一応一緒になって声を上げながらも笑っていない目を泳がせている。


 ひとしきり気の済むまで高笑いを上げたノブタ主将は、ややすると気合を入れるように一度自分の両腿を叩いてから弟の肩にその手をずんと乗せた。


「ユメタ! 大丈夫! 落ち着け!」


「はあ!?」


「俺たちはなんにも欠けちゃいない。最初からずっと、完全無欠のヒーローだ。だから、松本有希はここに助かりに来た。──なあ喜久井。そういうことだろ?」


 ノブタ主将の、黒くて曇りのない瞳の光が「お前ばっかにイイかっこさせてたまるか」とでも言うように重陽を射抜いた。


「そう! それです!」


 なので重陽も、大きく頷いて見せる。すると、それまで黙っていた土田コーチが「よし! 分かった!」と、彼もまた覚悟を決めたように声を上げた。


「確かにノブタの言うとおり、お前らはなんにも欠けちゃいない。夏まではこのメンバーで勝つために走ってきたんだからな。つまり──」


 続きを促されているような気がして、重陽は暗示をかけるようなつもりで発した。


「いつも通りに走れば勝てる」

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