愛日と落日
01、畏日と切実
重陽には夢があった。ささやかな夢だ。
それなりに好きな人と結ばれ、好きな人の血を持った子をもうけ親を安心させ、それなりに才を活かした生業でその家族を支え、家族円満で末長く幸せに暮らす。というささやかな夢が。
「先輩。ごめんなさい。私と別れてください」
一学期の終業式を終えた足で寄った駅ビル、その中のスタバのど真ん中で、高二の終わりで初めてできた一つ年下の彼女──織部まひるは、そう言って深々と頭を下げ重陽につむじを見せた。
「別れてって……なんで? 突然。おれ、なんかした?」
「なんか、っていうか……」
まひるはそう発して言い淀み、兄と同じ切れ長一重の目を泳がせながら、テーブルから通路にはみ出す重陽の脚を一瞥し「言えないです」と発する。
「……そう。わかった」
そんな彼女の振る舞いで、重陽の方も察した。
実際のところ、そう「突然」でもない。告げられるのが今日この時だとは思ってはいなかったけれど、いつかこうなるんじゃないか。という予感はあった。
「別れたら、まひるちゃん。部活に戻って来られる?」
「……わかんないです」
まひるは俯いたまま鼻声で答え、それきりおし黙る。自分から聞いておいてなんだけれど、そりゃ分かんないよなあ。と重陽も思った。
彼女の足が部活から遠のいたことの原因のひとつに、自分との付き合いがあるのはどうやら確からしい。けれど自分との縁が切れたからと言ってすぐにその前の日常に迎え入れてもらえるほど、人間関係の理屈はきっと単純じゃない。
「……ジュンちゃんにはおれからそれとなく言っとくし、夏休み明けでもいいからまた部活来てよ。まひるちゃん、いい選手だもん。こんなことで辞めちゃうのもったいない」
まひるの分のトレイも持って立ち上がると、彼女もまた「自分でします」と恐縮そうに重陽の後を追って立ち上がる。
そんな彼女より自分の方が背が高くなったのは、本当につい最近のことだ。父から受け継いだモンゴロイドの遺伝子が「エヴァンズ家の宿命」に抗うことも期待したが、重陽の体に流れるかの血は、二年から三年に上がる時の春休みでしっかり覚醒してしまった。
今でこそまだその気配はないものの、十八歳の誕生日が来る頃にはきっと顎だって真っ二つに割れるに決まっている。スコットランドに住む祖父や叔父や、従兄たちがそうであるように。
「いいよ。片付けとくから。それとおれ、参考書買いに行くからこのまま先に帰ってて。一緒にいるとこイジられたら、どんな顔していいか分かんないじゃん?」
重陽がそう言っていつものいじけ笑いを浮かべると、まひるは兄と同じように複雑そうな表情を浮かべてもう一度「ごめんなさい」と小さな声で発する。
そんな彼女を席に残して同じビルの中の本屋へ向かい、参考書の棚の影で重陽は少し泣いた。そして、そんな自分に少しだけ驚いた。彼女のことはそれなりに好きだったけれど、よもやフラれて泣くほど好きだったとは思っていなかったからだ。
告白したのは自分からではあったけれど、ある意味それは「あてこすり」だったのだ。
重陽は、それを「特技」と自称してはばからない程度には人の顔色を伺うのが得意だ。心配性で過保護な両親の顔色を幼い頃からつぶさに伺い、彼らの望む通りの「健気で明るい息子」を演じてきた経験ゆえである。
その「特技」からして言えば、重陽の告白はまず間違いなく受け容れられるはずだった。といってもそれは、まひるに対しての告白ではない。彼女の兄、織部夕真に対してのそれである。
スラックスのポケットで携帯が震えた。それを取り出して重陽は、鼻をすすりながらメッセージの送り主に返信を打つ。
彼女──今となっては元彼女の兄・夕真は東京の大学に進んだ。重陽が送った「夏休み、先輩んとこのオープンキャンパス行きたいんですけど」というメッセージに、彼は「ごめん今起きた。オーキャン了解」と味も素っ気もない返事を寄越している。
それに重陽は「あざす! あとせっかく東京行くんで、ついでに赤福氷のライブも行きましょーっ!」と、保存してあるライブのフライヤーを添付して返した。既読マークはすぐには付かず、重陽は携帯をポケットに戻した。
彼のことが好きだ。距離に隔たりができた今でも好きだ。
他ならぬ彼ただひとりが、へつらいも取り繕いも何もない素の重陽を見つけてそして、受け止めてくれた。
実感としてはおそらく彼も、重陽のことを憎からず思っていてくれていた。だから思いの丈を打ち明けようと試みたのだ。年度の最後を飾る大会で入賞して、気持ちが昂っていたからと言うのもあるにはあるけれど。
しかし彼は、重陽の想いを受け容れはしなかった。それどころか「マジでめちゃくちゃ迷惑してる」と突っぱねたのだ。
というのは重陽の主観で、それは事実と些か異なるのを重陽も理解はしている。
事実はこうだ。
重陽は彼に告白しはぐった挙句、予想外のひどく残酷なタイミングで、彼は自分とは違い同性には恋をしないことを知らされた。
何はともあれそのことで大いに傷ついた重陽は、いろんな人に対する「あてこすり」のような気持ちも少しありつつ彼女に「好きだ」と言ったのだ。
傷ついたからといって何をしてもいいと言うものでもないのは、重々承知の上である。けれど別に、それだって全く偽りの告白というわけでもなかった。
紛れもなく顔は好みだったし、ブラコン気味の彼女とは夕真の話で気が合った。それにもし彼女と家庭を持つことができたら、彼との縁を一生のものにできる。
とどのつまり、重陽はどこまでも、救いようもなく夕真のことが好きだ。
彼女といるといつも、そのことをひどく身につまされた。
罪悪感と自己嫌悪がどんどん大きく膨らんで、半年付き合っていたけれど結局、どうにか手を握ることができただけだった。きっと彼女にとっては、決定力に欠ける期待外れの彼氏だったに違いない。
「……帰ろ」
誰にともなく呟いて、手にしていた参考書を棚に戻した。そのまま早足で本屋をあとにして、改札に背を向け駅を出る。息が詰まる。その内に辛抱たまらなくなった重陽は靴を履き替え、背中でクラブバックをごとごと言わせながら線路沿の道を駆け出した。
「うおおおおおおくそくらええええええ!!」
やがて後ろから東京行きの新幹線が追いかけてきて、その轟音が重陽の叫び声を攫っていく。すれ違った人が少し迷惑そうに、あるいは孫でも見るように目を細めながら、珍しくもなさそうに振り返っていたのが分かった。
大人にはこれが青春に見えるだろうか。きっとそうだ。何したって青春だ。高校生活なんていうものは。生き残った人間が、過去を美化していうものだ。
くそくらえ。くそくらえ。くそくらえ! その一心で重陽は走る。
重い荷物を肩に掛けて走ればフォームが崩れる。練習メニュー外のオーバーワークは怪我のもとだ。けれど「知ったこっちゃねーっ!」と重陽はまた叫ぶ。くそくらえ! という鬱憤が噴き上がった時にこうして全身で風と景色を切ること以外には、重陽にとっては走る意味なんてひとつもない。
トップスピードに乗る直前、スマートウォッチでランニングアプリをセットした。冷静さを取り戻したというわけではない。単なる習慣だ。
景色は重陽の視界の端で、言葉のとおり瞬きの間に間に後方へ過ぎ去っていく。まるで絵筆で雑に撫でたように塗りつぶされていくので、単調といえば単調だ。
聞こえるのもたんたんとピッチを刻む自分の足音と呼吸音だけ。そしていつしか重陽は世界でひとりきりになる。
重陽がひとりきりの世界で考えることは、やっぱり夕真のことだ。
人の輪から爪弾きにされることを恐れ、いつもヘラヘラとへつらってばかりの自分と違い、夕真は自分の世界を持っている。
とはいえ彼は彼で卑屈な面があったりするものの、どこかそれを受け容れたような達観した潔さがあって、そんなところがかっこよくて尊敬している。
けれどクールな見かけやスタンスとは裏腹に、小鳥みたいな声で笑うところがたまらなく可愛かった。
その時にちらりと見えた存在感のある犬歯も、笑窪のできたそばかすのない白い頬も、さらさらの黒い前髪の下でハの字になっていた眉も、何もかも可愛かった。
あーっ! かっこいい! かわいい! まじで無理‼︎
顔がにやけて、自然とペースが上がる。
そんな彼に重陽は、夢や妄想の中では屈託なく何度もキスをした。抱き寄せて、それ以上のこともした。
その時はずっとふわふわ気持ちが良くて幸せだけれど、だからまひるといると「かわいいし、すげーいい子だけど、ちっげーんだよなあ完全に……」という思いが常に付き纏い、やっぱりひどく虚しくて申し訳なかった。
兄をそのまま女の子にしたような面立ちのまひるは、けれど無邪気で愛嬌たっぷりで、よく笑うしよく喋る。
こんな妹、そりゃあ可愛いでしょうともさ!
こんな子に「お兄ちゃん一生のお願い!」なんて頼み事されたら絶対断れないでしょうよ!
と感じたのは一度や二度ではないし、フラれたあとに涙ぐむほどには恋愛感情も抱いていた。
けれどやっぱり夕真に対する「好き」と、まひるに対しての「好き」では、その度合いも質も、何もかも違うことがはっきりしているのだ。端的に言えば、重陽の甘い夢の中にまひるはついぞ登場しない。
手首を見ると、思いのほか距離が伸びていた。一駅分だけのつもりが、ぼーっと走っている内に曲がるべき角をうっかり通り過ぎていたようだ。
制服のまま鞄を肩に掛けて走っているにしては気持ちよく足が運べている。けれどこれがレースなら大ごとだ。
そう言えば「東京には箱根駅伝でコースを間違えた選手の名前がついた交差点がある」って監督言ってたっけ。先輩と、そこも行ってみたいな。
彼の通っている大学を見学して、日本橋とか観光案内をおねだりして、一緒にお笑いのライブを観てケラケラ笑って。そんな一日は、想像だけで直前の鬱屈を吹き飛ばすほどのプラスのパワーがある。
けれど、きっとそのお陰だけでもない。
重陽は走るのが好きだし、速く走れる自分のことも結構好きだ。世界がどんなに嫌なことで溢れていても、腕を振って地面を蹴っている間は「知ったこっちゃねーっ!」と強気でいられる。
自分の家のあるマンションが遠くに見えてきたので、少しずつペースを落としていった。世界がだんだん音と輪郭を取り戻し始め、ぐんと体が重くなる。
じわじわと耳を劈く蝉の声と、滴る汗。東京はここより暑いんだっけ涼しいんだっけ? なんてことをまだ考えながらバッグのポケットに仕舞い込んだロザリオを引っ張り出し、首にかけてシャツの下にしまい、エレベーターで家まで上がる。
「ママ! アイムホーム!」
ドアを開けると途端に、バターとレモンの匂いがした。母親はきっと、レモンパイでも焼きながら息子の帰りを待っていたんだろう。
「お帰りなさい重陽。遅かったのね。それに汗だく。走って帰ってきた?」
玄関へ躍り出てきた心配性の母親は、スコットランド英語で捲し立てながら重陽の肩に掛かるクラブバッグを取り上げる。喜久井家の公用語は、母の故郷の英語なのだ。
「うん……練習なかったから、なんか落ち着かなくて」
「そう。何か嫌なことがあったのでないならいいんだけど……無理は禁物よ。熱中症だって心配だわ」
そう言って母は汗をかいた重陽の顔へ両手を伸ばし、重陽は反射で背を屈める。すると彼女は重陽の額にキスをして、それから制服の下のロザリオを取り出してはそれにもキスをして、神様に重陽の無事を感謝して加護を祈る。
そんな母のルーティーンを、重陽は無感情でやり過ごす。物心ついてからはずっと日本で過ごしているので、母の宗教観にはちょっとついていけない。ロザリオも家に置いて出ると母が心配するので持ち歩いてはいるが、学校ではずっと鞄の底だ。
「シャワーを浴びてらっしゃい。その間にスコーンを焼いておくから」
「スコーン? レモンパイじゃないんだ」
「そう思っていたんだけど、ハンドミキサーが壊れたのを忘れていたの。時間がかかるわ」
「いいよ。おれがメレンゲ泡立てるから。匂いでレモンパイの口になっちゃった」
重陽がそう応えると、母は嬉しそうに「じゃあ、お願いしようかしら」と目を細めた。その時だった。テレビが女装タレントの出演するCMを流した。
「……可哀想にね」
母は重陽の着ているシャツの裾を摘んで、実に痛ましそうに発する。
「そうだねえ」
その手をそっと引き剥がし、重陽は視線をテレビより少し上に移した。彼が撮ってくれた自分の写真は、モノクロでもカラーでも変わりなく、無様に現実から逃げ惑っている。
「シャワー浴びてくるね」
なんだか何もかもが馬鹿馬鹿しくなって、母にもテレビにも写真にも背を向けて浴室へ向かった。
走ることが好きだ。速く走れるのは自慢だし、自分にそういう長所や心の拠り所があってよかったと思う。
けれど、それがなんだって言うんだろう。どんなに速く走れたって、重陽が望むような形では誰も重陽のことを愛してはくれないのに。
頭から熱いシャワーをかぶって、あー。と呻く。人の形をしているから八方塞がりになるのだ。バターみたいに熱で溶けて、排水溝からどこかに逃げたい。
本当のことを言えば、自分を愛してくれる人を愛せる才能さえあれば、一メートルも走れなくたってよかった。
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