記憶は波音に溶けてゆく
鹿島 コウヘイ
第1話
「タイムカプセルを開けたいんだよね」
唐突に
彼女は白いマグカップを両手で包み込むように持ち、ほんのりと湯気の立っているココアにそっと口をつけてから言う。
「小学校の卒業式の少し前くらいにさ、クラスのみんなで入れたじゃん」
「そうだっけ」
「そうそう。未来の自分に宛てた手紙を書いて、ガチャガチャみたいな安っぽいカプセルに詰めてさ。もちろん一季も書いてるはずなんだけど。覚えてない?」
「覚えてない、かな」
そう言って僕もココアに口をつける。私も飲むからついでに、と先ほど彩葉が淹れてくれたものだ。飲んでから、ふう、と息を吹けば熱を感じるくらいに温かく、そして甘い。同じ市販のものを使っているはずなのに、自分で淹れたものよりも彼女が淹れたものの方が何となく美味しく感じる。気のせい、ではないと思う。
寂しいことにと言うべきなのか、残念なことにと言うべきなのか─自分がどんな内容の手紙を書いたかということはもちろん、そもそもタイムカプセルに入れるための手紙を書いたということすらも僕の記憶には残っていなかった。けれど彩葉がそう言っているのだから、きっと僕も未来の自分に向けた手紙を書いて、それをせっせと健気にカプセルへと入れていたのだろう。そのことはあまりよく覚えてはいないが。
ツイッターで見つけちゃったんだ、と彩葉はソファに背中を深く預けたまま話を続ける。僕が普段から座っていた一人掛けのソファが、いつの間にか彼女の定位置になりつつある。
二人掛けのソファを買おうかと考えることもあるけれど、それには今の部屋は少し手狭だ。もしも新しいソファを購入するのであれば、いっそここよりも広い部屋に引っ越すことも検討したほうがいいかもしれない。その辺りは彩葉と応相談になるだろうか。
「小学生の頃に作ったタイムカプセルを、二十歳になってから─大人になってからクラスのみんなで集まって開けてみましょう、みたいな。そういう催しが企画されてるんだってさ」
「それに参加する人は多いの?」
「ざっと見た感じ、それなりかな。もしかすると同窓会とかも兼ねてるかもね」
「へえ」
「私たちも行く? 誰からも誘われてないけど」
僕は彩葉をそっと見つめる。僕の視線に気がついたのか、彩葉がスマートフォンの画面から目線を上げ、僕の目と彼女の目が合ったのと同時に僕は答える。
「もちろん、行かない」
「だよね」
その企画の発起人が誰なのかは知らないが、誘われていない以上は少なくともその人の考えたクラスのみんなに僕たちは含まれていない。けれど、別にそれでいい。仮に誘われたとしても行こうとは思わない。きっとそれは彩葉も同じのはずだ。
「でもね、
「なに?」
「同窓会はどうでもいいんだけどさ。─私ね。その人たちよりも先に開けたいんだ。タイムカプセル」
どうやら僕の予想は妙な方向へと外れてしまったらしい。初めは冗談を言っているのかと思ったが、至って真面目な彼女の顔を見るにそうではなさそうだった。
先に開けたい、とはどういうことだろう。小さなスプーンでココアをくるくると回しながら、僕は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「それは、その同窓会に参加する人たちよりも先にタイムカプセルを開けるっていうこと?」
「うん、正解。前日くらいにやるのがちょうどいいかな」
「じゃあ、どうしてそんなことをしたいの?」
彩葉は柔らかく笑って答えた。
「そういう気分だから」
「気分」
首を傾げてしまった僕を見て、また彼女は笑う。その表情は変わらず柔らかく、そして優しい。
「それとね」
彩葉がマグカップをゆっくりとローテーブルの上に置く。ことん、と控えめな音が鳴った。
「─確かめたいことがあるんだ。どうしても」
確かめたいこと、と僕はひとりごとのように呟く。彩葉は微笑みながらも、その瞳はじっと僕を見据えている。確かめたいことって何のこと、と僕が続けて聞くのかどうかを試しているような、そんな悪戯めいた視線を向けられているようにも感じた。
あえて理由を隠している、というわけでもなさそうだった。もしも僕がその確かめたいことについての答え合わせのようなことをしたとしても、きっと彩葉は素直に、嫌な顔ひとつせずに答えるだろう。そして、それを聞いたところで彼女が僕に失望なんてしないことを、僕は知っている。
「─いいよ。やろう」
それでも僕は聞かないことにした。少なくとも、今は。
もちろん、なぜ彩葉がわざわざ含みを持たせたような言い方をしているのかは気になる。
それでも僕が深く突っ込まなかったのは、タイムカプセルを開けたい理由についてここで詳しく聞かないほうが、例えば彼女が喜んだりだとか、笑ったりだとか─そういった良い反応をしてくれるのではないかという、ただそれだけを期待してのことだった。
「いいの?」
「うん」
「ありがとう、一季」
彼女は僕が密かに望んでいた通り、楽しそうに笑い─けれど、どこかそこに安堵が混じったような表情を浮かべる。
そこで会話を終わらせることも僕にはできた。さっきよりほんの少しだけ熱の冷めたココアに口をつけることも、彩葉がどこか安心したような表情を浮かべているのを見なかったことにすることもできた。
けれど、そうしなかった。─彩葉の言葉を借りるのであれば、僕にもひとつ、彼女のその様子を見て確かめたいことができたからだ。
「─彩葉がそれでいいのなら、だけど」
僕のその言葉で、彩葉がその穏やかな笑みを崩すことはなかった。
「うん」
ありがとう、と彩葉はもう一度、同じ言葉を呟いた。
彼女は今、目を伏せていることに自分で気がついているだろうか。そんなことを思った。
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