第七話 私はいつだって君を応援しているぜ?

 匣庭はこにわは消え、妖魔はぱたりと姿を見せなくなり、イチルにかけられたというまじない蓮安リアン十無ツナシによって解かれた。


 三日後の朝の十一刻、シロは西区の市場に向けてびた自転車を走らせている。


「獣肉、青梗菜チンゲンサイ紹興酒しょうこうしゅ番茄トマト、獣肉麺に八角はっかく。隠し味で豆板醤トウバンジャン……いや違う、甜麺醤テンメンジャン……?」

「豆板醤」錆びた自転車の荷台で蓮安が呆れ声を上げた。「なぁ、シロくん。本当に料理なんて出来るのか? 今から不安でしかないんだが」

「大丈夫ですよ。なにごとにも初めてというものはあるでしょう。今回だって十無さんにきちんと教えてもらうんですから」


 むっとしながらシロは自転車のペダルを踏み、坂を登りきった。すでに坂を下り始めた自転車を操るのはヤシロ、その荷台に乗るのはイチルだ。市場の行き先を告げる赤茶けた看板を確認し、夏本番の陽光の眩しさに何度か目を瞬かせてから、シロは緩やかな坂道を降り始める。


 紙包みを開く音とともに、「それにしてもなぁ」と背後で蓮安は言った。


「君も健気けなげに張り切るもんだ。イチルちゃんの匣庭が消えてからずっと、あちこち出回っているじゃないか」

「当面の生活に必要なものをそろえているだけですよ。服とか、日用品とか」

「それにしては、君一人で出かけてるみたいだがね」


 のんびりとした声に図星を差され、シロは思わずハンドルを強く握った。


「……たまたまです」

「たまたまねぇ」

「そもそも、イチルは病み上がりなわけですし」

「病み上がりなもんか。呪を解いた翌日でさえ、ぴーちくぱーちくうるさかったぜ、あの子は」

「で、でもほら……怪我とか……」

「君は彼女に怪我をさせるような戦い方をしたのか?」

「……してないです」

「だろう」蓮安が勝ち誇ったように結論を出した。「つまり君は、イチルちゃんと顔をあわせるのが気まずいんだ」


 シロは返事の代わりに舗装とそうの剥がれた路面に車輪を進めた。がしゃんと大きく車体が揺れ、蓮安があっ、と悲痛な声を上げる。


「私の月餅げっぺい! 土間からくすねてきたのに!」

「抜け駆けして食べようとするからばちが当たったんじゃないですか」

「ぐ……おのれシロくん、許すまじ……! いいだろう、ならば戦争だ。おおい、イチルちゃ、」

「あ、ちょっとそれは卑怯ひきょうですよ!」


 風でなびく赤髪を押さえながら、先を行くイチルが振り返った。シロがぎこちなく笑って首を横に振れば、彼女は不審の眼差しのまま再び前を向く。


 蓮安が鼻を鳴らした。


「ふん、弱虫め」

「弱虫とかではないんですってば」シロはため息をついた。「僕にも考えがあるんですよ」

「なんだね、それは」

「僕はイチルの本当の願いを見つけられなかった。だから、なにをしてあげるべきか、分かってないんです。本当は」


 イチルは手元の紙を見ながら社と言葉をかわしている。商売っ気のある二人は仲が良く、神妙ながらどこか楽しげな横顔だ。シロはほっとしながらも、一抹の寂しさを抱く。自分では、あぁはいかないだろう。


 イチルを拾ってから十二年。龍にとっては瞬きのような時間であっても、人にとっては十分すぎる時間だ。イチルがその間に何を感じてきたのか、ひっそりと積み上げてきた孤独が現実となって牙を向いた時にどれほど傷ついたのか。


 その彼女に、結局自分は何もしてあげられなかった。口をついて出そうになった弱音を追い出し、シロは努めていつもの調子で言葉を続けた。


「それでも、イチルは匣庭を手放してくれた。ならせめて、彼女が本当に帰りたい場所を見つけるまでは支えてあげるべきだと思いませんか」

「それが遠回しに身の回りの世話を焼くことだっていうのか?」

「そういうことです。イチルも僕と話したくないでしょう」

「シロくん」蓮安が呆れ声とともに背中に体重をかけ、自転車が軋んだ。「君、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、本当に馬鹿だな?」

「突然の悪口」

「じゃあ、阿呆あほうだ」


 言い方の問題じゃないだろ、とシロは思わず頬を引きつらせる。当の蓮安はがたがたと揺れる荷台で器用に伸びをしたあと、「あのな」と言った。


「本当の願いとやらが分からなくても、願いは叶うんだよ。少なくとも君が助けに行ったから、イチルちゃんは助かったんだ」


 シロは音を立てて自転車を止めた。


「もしかして……蓮安先生、励まそうとしてます?」


 振り返った先で、蓮安は鷹揚おうように頷く。


「もちろんだとも、シロくん。私はいつだって君を応援しているぜ?」

「それには同意しかねるんですけど、って」

「生意気なやつめ」


 びっとシロの鼻先を弾いた蓮安が笑う。じんと痛む鼻を押さえたシロは目を瞬かせた。文句も不安も次に続けるべき言葉も、このときばかりはどこかへ吹き飛んで、ただただ夏空の下にいる夜色の女が眩しいと思う。


 そして憎たらしいことに、当の本人もそれに気づいたらしい。シロの胸元に白い指先をとんっとおき、口角を上げる。


「君、今私に見惚みとれたな?」

「……それ、自分で言いますかね……」


 雰囲気ぶち壊しの発言にシロがげんなりとすれば、蓮安は愉快で仕方ないと言わんばかりに呵呵かかと笑った。


「感謝の気持ちは、ぜひ行動で示してくれたまえ。具体的に言うと月餅が欲しい。あと豆花ドゥファ芝麻球チーマーカオ。最後は普洱プーアル茶でしめたいところだな」

「食欲旺盛かよ」

「ん。なら君は私に何をくれる?」


 蓮安の期待の眼差しに、シロはため息をついた。なんで自分があげることになっているのだという呆れが半分と、それでも彼女には世話になっているんだよなという諦めが半分の気持ちのまま、適当に思考を巡らせてから懐に手を入れる。


「じゃあ、これで」


 社の作った宣伝紙チラシを突きつけられた蓮安は、一気に不機嫌になった。


「……なんだね、これは」

「宣伝紙です」

「それくらい分かる」

「ここの『何でも言うこと聞く券』で手打ちということで」

「君」宣伝紙をぐしゃりと握って、蓮安がじろとシロを睨んだ。「私のこと馬鹿にしてるだろ」

「してますよ」


 意趣返しににこりと笑えば、嵐のような悪態が飛んできた。それを聞き流しながらシロは自転車を再びぎ始める。気分はずいぶんと良くなっていて、たまの反抗も大切なのだなとしみじみと思った。


「もういい! 私は社と買い出しに行くからな! シロくんは精々、市場の片隅で露頭に迷って震えていたまえ!」

「露頭には迷いませんし、財布を持ってるのはイチルですけどね」

「ばーか!」


 市場に着くなりそう言い捨てて、蓮安は社とともに雑踏に消えてしまった。イチルがやや引いたような顔をしてシロを見上げる。


「なんなんですの、あの女」

「放っておけばいいよ。月餅を買ったら機嫌直るから」シロは肩をすくめ、近くの店で足を止めた。「それよりここの野菜とか良さそうだ。青梗菜と番茄、それから八角が揃ってて……」


 そこでシロは、いつもの調子でイチルに話しかけていることに気がついた。そろりと隣を見れば、心なしか彼女も強張った面持ちをしている。


「あ、えっと……イチル」

「……なんですの」

「その、ごめん。馴れ馴れしくて」

「別に」


 イチルは並べられた野菜へぎこちなく手を伸ばした。どうしようもない沈黙に、シロもまた目を伏せる。以前ならどうやって会話していたのか、ちっとも思い出せない。


 匣庭は消え、妖魔はぱたりと姿を見せなくなり、イチルにかけられたという呪も蓮安と十無によって解かれた。


 それでも、イチルが真武シンブに死ねと命じられたという事実は変わらない。帰るべき場所なんてないという彼女の嘆きが癒やされることもない。根本の問題は、何一つ解決していないのだ。


 叶えるべき願いが分からないことがもどかしい。そんなもの分からなくてもいいと蓮安は言ったが、やっぱりシロは考えてしまうのだった。願いが分かれば、今すぐにでもイチルを幸せにしてあげられるのに、と。


「お嬢ちゃん、目の付け所がいいねぇ! そいつは今日並べてる番茄のなかでも、一番の出来のもんだよ!」


 威勢のいい女店主の声に、シロは現実に引き戻された。戸惑った様子のイチルの手から番茄を取り上げた店主は、「あとは青梗菜と八角だろう」としたり顔で言う。


「なら、これとこれがおすすめさ」

「あっ、ちょっとお待ちなさい。そんなに沢山は必要ありませんわ……!」

「何を言ってるんだい。市場での買い物のコツはまとめ買いしておくことだよ。なに大丈夫さ。番茄はよく煮て瓶詰めに、青梗菜は天気の良い日に干しておけば保つからね。お兄さんも可愛い妹ちゃんのためなら、これくらいの金は出せるってもんだろう?」

「あー……っと、おばさん」シロは苦笑交じりに頬を掻いた。「好意はありがたいんですが……僕たちはその、兄妹とかでは、」

「いいえ、兄妹ですわ」


 ぽそりと聞こえた声に、シロは驚いて隣を見やった。赤髪の少女は、シロを見てほんの少し頬を赤くし、けれどすぐに目をそらして今度は力強く繰り返す。


「兄妹です。だから、少しまけてくださらない? こんなに体格のいい兄ですもの。食べる量が多くて家計のやりくりが大変なの」

「ははっ、なんだね。お嬢さんのほうが財布を握ってるのかい?」

「兄では頼りないのだわ」

「たしかに、なんだかカモられそうな優男だよねぇ。よし分かった。おまけしてやるから、ちょいと待ってておいでよ」


 イチルは小さく頷いた。そうして呼吸一つ分の沈黙のあと、意を決したようにシロをじろりと見上げる。


「なんですの、黄龍コウリュウはとが豆鉄砲をくらったような情けない顔ね」

「あ、いや、ごめん」

「あなたが頼りないのは事実でしょう。驚いている暇があったら、しっかり反省してほしいものだわ」

「うん。でも」

「なんですの」

「兄妹、なんだね」


 しみじみと言えば、イチルの頬が再び染まった。一拍遅れてぎゅっと眉根にしわを寄せたあと、彼女は怒ったようにそっぽを向く。


「家族と言ったのはあなたでしょう、黄龍!」


 叱責はそれでも優しく、シロは思わず笑った。


 匣庭は消え、妖魔はぱたりと姿を見せなくなり、イチルにかけられたという呪も蓮安と十無によって解かれた。一方でイチルとシロの過去は変えられず、問題は何一つ解決していないのも事実だった。


 それでも、何もかもが終わったわけじゃないのだ、とシロは気づく。幸か不幸か、自分たちの時間は続いていて、だからこそやり直す機会もある。当たり前のようなそれはシロにとっての希望そのものだった。





 そして当たり前だからこそ、彼はそれが生者にのみ許された権利なのだと気づくことはなかった。

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