幕間 匣外の天

帰心、矢の如し


黄龍コウリュウが病んだ」


 玄帝げんていは静かに口を開いた。


 中庭に建てられた東屋あずまやである。四方の壁が取り払われたそこからは、手入れの行き届いた庭がよく見えた。北に岩山、南に水沼すいしょう、東西にと呼ばれる丘陵。白砂と背の低い草木で四神相応を模した庭は丁寧に整えられ、西日に照らされている。


 水分を含んだ風が吹き、玄帝の一つくくりの黒髪をわずかに揺らす。卓を囲む三人のうち、イチルが赤髪を揺らして顔をうつむけた。


 憂いを帯びた少女の横顔は、玄帝にとって見慣れたものだ。彼女と、玄帝の背後で茶の準備をしている灰色の髪の老婆――姓をヨシという――は、玄帝とともに鵬雲院ほううんいんに暮らしているのだから当然のことだった。


 玄帝は卓の向かい側に座った客人をまっすぐに見る。やつれた老爺ろうやであった。武術衣の上からでも骨の浮いていることが分かる体つきで、袖から突き出た両手も襟元えりもとからのぞく首元も黄ばんだ包帯で覆われていた。


 その老爺はしかし、濁った黒色の目を細め、白磁の茶器を取り上げる。


「それは大変なことになりましたな」

鴻鈞コウキン道人よ、社交辞令は不要だ。ここに招かれた経緯を聞いているだろう」

「えぇえぇ、存じ上げておりますとも。黄龍が病んだ。その原因は匣庭に惑わされたことにある。だから私が呼ばれた」


 鴻鈞は茶を飲みながら、中庭をぐるりと見回した。


「ですがやはり、こうして鵬雲院に招かれたことは大変に光栄でもあり、心浮き立つことなのですよ。噂に聞くとおり、龍の住まいは大変に美しい。俗世の憂いの全てから切り離された桃源郷とはかくあるべきでしょう――おや、この烏龍ウーロンはたいへんに良い香りがしますな」

「まぁ、ありがとうございます」


 茶器を卓に置いた吉がにこにこと応じる。イチルが苛立ったように卓を叩いた。


「そのような感想を聞くために、我々はあなたを呼びつけたのではありません。玄帝が先ほどそう言ったばかりでしょう」

貴志キシ様、でしたか。たしかあなたは玄帝の契約者でいらっしゃる」


 ほがらかな鴻鈞の返しに、イチルは両眉を跳ね上げた。


「……だとしたら、なんだというのです」

「いえいえ、羨ましいことだと思いましてな。龍と契約すれば、不老不死とまではいかずとも長寿を手にすることができるのでしょう。まったくもって何百年に一度とない幸運だ。素晴らしい」

「世間話は結構だと、我は言ったぞ。鴻鈞」玄帝は温度のない声で警告した。「お前は匣庭はこにわの真理に近づいたと聞く。答えよ。黄龍を救うことはできるか」

「できますとも。ただし、匣庭を壊すなどという野蛮な方法はよろしくない」


 鴻鈞の返答に、イチルが視線をきつくする。


「匣庭に囚われた者を救うには、匣庭を壊すしかない。これが常識でしょう」

「一般的には、そうですな。ですが、黄龍の御霊みたまが囚われたのが深灰シンハイの匣庭であるならば、話は別だ。あそこの匣庭は多層構造で、複雑怪奇に入り組んでおるのです。不用意に手を出せば最後、黄龍の御霊ごと消失することさえある」

「ならばどうしろというのです?」

「なに、簡単なことですよ。匣が閉じられているのなら、その蓋を開けばよろしい。匣の底に残るのが希望か絶望か――というのは西域の寓話ぐうわでよく見かけるモチーフですが」

「黄龍を救えるというのならば、その方法は知っているのだろうな」


 玄帝が念押しすれば、鴻鈞は穏やかに頷いた。


「でなければ、黄龍を救えるとは回答いたしません。玄帝よ」


 詳しい話は後日と言って、鴻鈞は鵬雲院の一角に用意した寝所へと引き上げていった。信用ならぬといった顔つきのイチルを東屋から下がらせ、玄帝は一人、中庭へと足を踏み出す。


 日はすでに沈んでいる。小川のほとりには夜光花やこうかが咲き、蛍のようなかそけき灯火で玄帝の行く先を導いた。清浄な水の満ちた空気が、玄帝の唐服と、裾先からわずかに見える足首を濡らす。


 穏やかな夜の始まりは、玄帝の好きな時間の一つだ。そう言えば決まって、黄龍は柔らかく頷くのだった。


 その眼差しはいつだって優しい。彼には四分しぶんした星のめぐりが与えられなかったが、玄帝はそれで良いと思っている。どの星のめぐりであれ、どこかに苛烈さを残すものだ。特に玄帝の受け持つ冬の厳しさは。だからこそ、黄龍のもつ無条件の優しさはどの季節にも当てはまらない。


 この時間は、まるで冬の日の炉端ろばたのように穏やかだね。記憶の中の黄龍が、蛍を指先でもてあそびながら言う。龍の生まれに差別はなく、上下もないが、玄帝は他の龍よりひときわ体が小さく、黄龍は上背が高い。必然、玄帝はいつも黄龍を見上げる形となり、その時もやはり、黄龍を見上げて返事をしたのだった。


「そうでしょうか」

「あれ、違うのかい」

「俺はただ、静かな時間が好きというだけです。人間の騒がしい声が多少なりともマシになるでしょう。夜ならば」

「その言葉、さてはまた契約者とめたのかな」

「俺は人間を好きません」そこまで言ったところで妙に居心地悪くなり、玄帝は目をそらして早口に付け足した。「天帝の命ですから、守りはしますが」


 湿った空気がわずかに揺れて、黄龍が笑ったのが分かった。しょうがないという顔をしているのがたやすく想像できて、玄帝は眉根をきゅっと寄せる。そんな風だから、黄龍はあなたの叔父のようね、などと青龍にからかわれることになるのだ。


 黄龍はしばし黙っていたが、結局それ以上は契約者の話を蒸し返さなかった。草葉を踏んで、夜光花の灯る浅瀬を見やる。玄帝もそれにならえば、穏やかな声が降ってきた。


「でも君は夜の始まりが好きなんだろう? 夜の中でも特に」

「それは、そうですが。そこに何か重要な示唆でもありましょうか?」


 ことりと首をかしげれば、黄龍は困ったように笑って玄帝の頭を撫でた。


「君は真面目だなぁ。示唆なんてなくてもいいんだよ。ただ、なんとなく思うっていう気持ちを大切にしてほしいな、っていうだけの話でね」

「曖昧な定義は、俺の存在意義からは外れるでしょう」

「少しくらいの手落ちは、天帝も見逃してくれるさ。普段の君は、己にも他者にも充分すぎるくらい厳しいのだから」

「……あなたは逆に、脳内お花畑がすぎる」

「いや、突然の悪口」


 月明かりの中、ほんの少し複雑な面持ちで黄龍が呟く。それに気づかぬふりをして、玄帝はするりと彼の暖かな手のひらから逃げた。


 唐服をはためかせて川辺をたどり、三歩先を行く。たった三歩だが、妙に気恥ずかしくもほっとしたような気持ちを鎮めるのには充分だった。


 そして彼は再び、黄龍から無愛想だとからかわれる面持ちに戻って振り返る。


 優しい夜風が吹いた。湿った空気は、甘やかな花の香りをはらんでいた。けれど、黄龍がいたはずのそこには、月明かりがそそぐばかりで誰もおらず、玄帝はすべてが過去の幻であることを思い出す。


 川べりに立ち尽くしていた玄帝は、ただ独りきりの中庭で静かに息を吐いた。唐服をひるがえして再び歩を進める。川を下るようにして大股で歩いていけば、ほどなくして中庭の果てにたどり着いた。


 不自然に途切れた大地から、川の水が細く下へ注ぎ、霧雨となって薄雲の中に消えていく。鵬雲院は天の高みにあるのだから、当然の光景だった。


 はるか昔、天帝が五龍を遣わした頃の大地は穢れていた。その瘴気は龍をもってしても長居できるようなものではなく、彼らが体を休めるための場所として、天帝が用意したのが鵬雲院のはじまりだ。天に浮いているがゆえに人の世の穢れが届かず、天から四方を見下ろせるがゆえに人を罰するに向く、清浄無垢な平穏の地とされてきた。


 にもかかわらず、匣庭という害意が、黄龍を惑わした。淀んだ気をはらんだ風に黒髪を遊ばせながら、玄帝は冷めた眼差しで下界を見る。夜闇の中、深灰の無遠慮な電飾の明かりが瞬いているのが見えた。


 人間の強欲さをそのまま凝縮したような場所で、黄龍は消息を絶った。他ならぬ玄帝が黄龍に願いをかけた、その直後のことだった。


 今でも玄帝は、あの判断が正しいと信じて疑わない。願いを叶える龍は、そうでなければ生きることが出来ないのだ。けれど人間の穢れた願いこそが彼をむしばんだ。ならば、人間ではない自分が願いをかけてやればいい。事実、玄帝の願いは叶えられ、黄龍は人を滅ぼすに足る力を手に入れた。


 黄龍が思い悩むことなど、もう何ひとつないはずなのだ。それを人の強欲な願いが産むという匣庭が邪魔をする。


 なればこれを壊せばいいと、玄帝は思う。鴻鈞は匣庭を開くだなどと生易しいことを言っているが、下界がどうなろうとも黄龍を引き戻せればそれで良いのだ。人間とは、その存在そのものが罪深い。それを罰することこそ、四龍の一柱に与えられた役割でもある。


「――なにより、一刻も早く戻ってきてほしいのですよ」


 あなたがいないということは、なんとなく、寂しいのだから。目をわずかに伏せた玄帝の本音はしかし、ついぞ月光に染まった空気を揺らすことはない。

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