第42話 進路(1)

 その日、朝から奈都が珍しいことを言い出して、私は思わず息を呑んだ。

「私の聞き違いじゃなかったら、今、今日はチサと一緒に帰ろうかなって言った?」

 念のため確認すると、奈都は苦笑いを浮かべて頷いた。

「一文字も違わなかったね」

「どうしたの? 私になんて1ミリも興味のなかった奈都さんが……」

「興味しかないけど」

 わざとらしく私の全身を舐めるように見ながら、奈都が目を細めて微笑んだ。

 実際に、奈都が私と一緒に帰りたがるのは、とても珍しい。

 奈都はバトン部に所属していて、ほとんど毎日練習がある。時々練習のない日や体調不良で休んでも、クラスの子と帰っていて、私と一緒に帰ることなど、去年は1年で片手で数えられるほどしかなかった。今年はまだゼロだ。

 部活はどうしたのか聞いたら、今日は体育館を他の部に占領されて使えないらしい。

「バレー部が、他の高校と練習試合するんだって」

「奈都も練習試合やったら?」

「誰と何で戦うの?」

 呆れたような声が返ってくる。敷地内に2つある体育館は度々取り合いになり、譲り合いで使っているそうだが、バトン部は大した実績がないので力が弱いそうだ。そんな時は外でフォーメーションを確認したり、バトンを投げずに練習したりしているが、今日は休みになったという。

 一緒に帰るのはもちろん大歓迎だが、私と二人で帰りたいのか、帰宅部の活動に参加したいのか。念のため確認すると、もちろん後者だと返ってきた。喜ばしいことだ。

 廊下で別れて教室に入ると、早速部員を招集して報告した。塾がある絢音が無念そうに首を振った。

「塾休みたい」

「その気持ちだけで奈都も浮かばれるから。むしろ奈都を塾に行かせるから」

 奈都に代わってありがとうと伝えると、絢音がふふっと綺麗に笑った。涼夏が腕を組んで首をひねった。

「何をしようね。何か特別なことをするべき?」

 涼夏と二人の時は、大抵恵坂をブラブラしているか、カラオケに行くか、カフェを開拓するか、ファーストフードで喋っている。時々私の家に来てイチャイチャしたりもしているが、3人ですることではない。

 奈都はあまりお金がないし、ウィンドウショッピングにも興味はないだろう。喋っているだけでも楽しく過ごせるだろうが、それはもったいない気もする。

「奈都に寄せる必要はないと思うけど、つまらないって思われたくはないね」

「じゃあまあ、いつもの帰宅部の中で、何かナッちゃんが楽しめそうなことを考えよう」

 そろそろHRが始まる。お互いに何かアイデアを出すことにして、一旦席に戻った。


 放課後、奈都が掃除当番で少し遅くなるというので、いつも通りハグをして絢音を見送った。

 教室で涼夏と喋っていると、奈都がやってきて小さく手を振った。他のクラスの教室には入りづらいのか、ドアに張り付いたままだったので、リュックを背負って涼夏と並んで教室を出た。

「アヤは?」

 奈都がキョロキョロと辺りを見回す。そんな仕草をしなくてもいないのは明白だが、いると思って来たのなら不思議がるのも仕方ない。もっとも、今日は絢音は塾があることはすでに伝えたはずである。冷静にそう指摘すると、奈都は残念そうに息を吐いた。

「帰宅部伝統のハグをしてもらえるかと思ったのに」

「それは、頼めばいつでもしてくれると思うよ?」

「学校で帰宅間際っていうTとPが大事なんだよ」

 なるほど。それは確かにそうかもしれない。何のためのハグなのか。そこを追及するのは大切なことだ。

「Pはプライス」

 涼夏が明るい声でそう言いながら階段を下りる。部員以外はハグは1回500円だと告げると、奈都がPは場所だと静かに首を振った。それから疲れた顔で口を開いた。

「部活の後輩に、一緒に帰ろうって言われて、断るのが大変だった」

「富元さん?」

 奈都のことを気に入っている後輩の名前を挙げると、奈都はこくりと頷いた。私は何度か会っているが、直接話したことのない涼夏が「どんな子?」と聞いた。

 奈都があまり感情の籠もらない声で言った。

「悪い子じゃないけど、ちょっと勢い強めだね」

「バトンは上手なの?」

「初心者だよ。まあ、バトン経験者って珍しいし、ちゃんとバトンをやりたい子はユナ高には来ない」

 我が校のバトン部は、スポーツが盛んなユナ高にあって、1、2を争う緩い運動部である。今年は練習を増やして大会にも出ようとか、外部講師を招こうみたいな話もあったらしいが、浮上した朝練が没になったことで、結局緩い方針を継続することになったらしい。

 その朝練がなくなったのは、奈都が参加しないと言ったからだと、可愛い後輩が言っていた。つまり、部活の方針は奈都が決定づけたことになる。

 そう説明すると、なるほどと頷く涼夏に、奈都が大きく首を横に振った。

「あれはあの子が勝手にそう言ってるだけで、私にそんな影響力はないよ」

「次期部長でしょ?」

「チサ、あの子の言葉を真に受けないで」

 奈都が困ったように微笑んだ。確かにその話は富元さんからしか聞いていないが、実際の奈都は中学時代、部長を務めていたので、何の違和感もない。

 校舎を出ると、南にある最寄り駅の上ノ水ではなく、いつも古沼へ行く方向に歩き出した。ただし、今日は古沼には行かず、そのままずっと真っ直ぐ歩き続けようと話している。何か新しい発見があるかもしれないと涼夏が言い出したのだ。運動が嫌いな涼夏らしくない提案だが、ブラブラ歩くのは遊びの範疇なのだろう。

「大会に出ないと、発表の場は自分たちで探してくるの?」

 涼夏が部活の話を続けて、奈都は否定するように首を振った。

「顧問が見つけてきたり、地域と学校の繋がりで向こうからオファーがあったり、色々」

「じゃあまた、夏祭りとか、地域のイベントとか、私学祭とか、文化祭とか、そういうのだね?」

「そうだね。今は来月のステージのために練習してる。1年生は応援だけど」

「それはまた見に行くとして、大会がないと、引退っていう概念はあるの?」

 通常、運動部だと、夏の大会が終わると3年生は部活を引退する。部長の引き継ぎもそのタイミングで行われるのが一般的だが、バトン部はそういう節目の大会がない。

 ちなみに涼夏の中学時代の料理部は、夏休み前に来なくなる先輩もいれば、ずっと来る先輩や、推薦で進路が決まった後、戻ってくる先輩もいたそうだ。涼夏は副部長だったが、1学期の終わりに後輩にその座を譲り渡したらしい。

「うちもそんな感じかなぁ。団体競技だから、一応文化祭で終わりって決めてはあるけど、去年は専門行く先輩とか、ずっと来てたね」

 卒業した先輩を思い出したのか、奈都が懐かしむように目を細めた。帰宅部には同級生しかいないので、わからない感覚だ。私はこのまま3年生の3月まで、ずっと部長を続けそうである。

 いつもの大きな公園で仁町女子の集団に飲まれるも、今日は南下せずにそのまま西に貫いた。この先には駅もないので、すぐに仁町の制服も見えなくなった。ここから新エリアに入るが、民家と個人商店の建ち並ぶ地味な道が続いた。初めてなのに既視感があるやつだ。

「ナッちゃんは、高校を卒業してもバトンを続けるの?」

 周囲の景色にはもう興味を失ったのか、涼夏が奈都を見上げてそう聞いた。バトンはあまり一般的なスポーツではないし、さすがにそれはないだろう。案の定、奈都は小さく首を横に振った。

「まあ、せっかく買ったし、たまに趣味で回すくらいかな。バドミントンと同じ」

「そうだよね」

 涼夏が何か含むようにそう言って、考えるように視線を地面に落とした。奈都が「どうかした?」と聞くと、涼夏が難しそうに眉根を寄せた。

「高校3年間打ち込んで得たスキルが、その先継続しないのは、なんだかもったいない気がする」

 随分と言葉を選んだ言い方だった。今奈都が打ち込んでいることを否定しないようにしつつも、聞いてみたかったのだろう。

 涼夏の言いたいこと自体は理解できる。涼夏の料理部での経験はそのまま生活に直結している。絢音もメンバーこそ変わったが、バンド活動をずっと続けている。時間を費やしたものが、ずっと継続出来たらそれに越したことはない。

 ただ、運動部など大半が学生時代で辞めてしまうし、吹奏楽部員も多くの子が卒業したら楽器を辞めてしまうそうだ。管楽器は何十万円もするので無理もない。

「バトンは楽しいけど、たぶん一人だったらやらないし、私はみんなで何かに励みたいだけな気がする」

 奈都が自分でもよくわからないと、小首を傾げた。涼夏が納得したように頷く。その点に関しては私たちも同じなので、一緒に帰宅部でも良かった気がしないでもないが、少なからず発表の場があって、成果が残ることがしたかったのだろう。それに、奈都がバトン部に入ると決めた時、帰宅部はおろか、私はまだ涼夏と友達ですらなかった。

 大きな交差点に出て足を止めると、照り付ける日差しにじんわりと汗が滲んだ。そろそろまた梅雨の季節になる。雨はもちろん嫌いだが、雨に濡れることよりも、空が暗いのと、帰宅部の活動が制限されるのが嫌な気がする。

「大学でも、何かサークルとか入るの?」

 車の流れを目で追うようにキョロキョロと首を動かしながら、涼夏が話を続けた。そのことに興味があって聞いているのか、それともただ間を繋いでいるだけなのか、いまいち判断できない。今さら話していないと居心地が悪くなるような仲でもないし、きっと前者だろう。

 私の予想では、涼夏はこの先どれくらい奈都と遊べるか、どれくらい奈都が私たちと遊びたがっているかを量っている。絢音はともかく、私と涼夏は、常に趣味よりも人のことを考えている。

「まだ全然わかんないよ。特にやりたいこともないし、バトンだって高校の部活紹介で見るまで知らなかったし」

 奈都が呆れたように手を広げた。

 信号が変わって歩き始める。涼夏が口を開く前に、私は訴える眼差しで奈都を見た。

「大学はそろそろ私たちとの時間を作って」

 横断歩道を渡り切ると信号が点滅し始めた。だらだら歩いていたとはいえ、若い私たちの足でこの間隔だと、お年寄りが青信号の間に渡り切るのは大変そうだ。

 奈都が苦笑いを浮かべて、からかう瞳で私の顔を覗き込んだ。

「大学でも帰宅部を作るの?」

「涼夏と絢音とは進路が別になると思うけど、奈都は講義とかバイトのない時は、私と一緒に遊ぶべきだと思う。もう、義務って言ってもいい。正妻なんだから」

 敢えて不満げな顔で、強めに訴えた。

 中学の時、奈都は独りぼっちだった私の相手をしてくれたが、あくまで部活優先だった。私は遊んでもらう立場だったし、一度として対等だなどと思ったことはなかった。

 それに、そこまで仲が良かったわけでもなかったし、奈都は私への愛情を隠すために、意図的に距離を置いていた。まだ子供だったし、色々と複雑な状況だった。

 高校でも、部活に入った瞬間はまだその状態が継続していたので仕方ない。しかし、それから私たちはキスだってしたし、ただの友達という枠はとっくに出ている。涼夏と絢音との関係が壊れないという条件付きだが、奈都の愛にだって応えられる。

 大学は、中学や高校と違って、自然と毎日顔を合わせるシステムにはなっていない。今度奈都が私よりも他の何かを優先したら、奈都が望む関係は維持できないと考えた方がいい。そもそも、本当に奈都は私が思うような関係を望んでいるのだろうか。

 疑いの眼差しを向けると、奈都は困ったように微笑んだ。

「まあ、同じ大学ならね」

「学年35位のこの私が、奈都さんの受ける大学に全部落ちると?」

 挑発的に煽ると、隣で涼夏がくすくすと笑った。奈都が不思議そうな顔をする。

「いや、チサがアヤと同じ大学には行かないって自然と考えてるみたいに、私もチサのレベルの大学は無理だと思ってるけど」

「だから、私の方が合わせるって言ってるでしょ?」

「それは嬉しいけど、進路って大事だから、もっとちゃんと考えた方がいいよ」

 まるで進路指導の先生のように、奈都が穏やかな口調で言った。私は憮然として答えた。

「奈都と同じ大学に行く以上に大事なことが、何かあるの?」

 先程から会話が噛み合っていない。もっとも、私が奈都と同じ大学に行くというのは、4月の聖域事変の頃から漠然と考えてはいたが、はっきりと口に出して伝えてはいないので、奈都が混乱するのも仕方ない。

 奈都が足を止めて、何やら考え込むように眉根を寄せた。わざとらしく首を傾けて顎に手を当てる。

「チサは、私のこと、好きなの?」

「今さら何を言ってるの?」

 突然の質問に、思わず声が裏返った。涼夏がとうとう声を上げて笑った。

「二人とも、面白いな」

「いや、だって、そこまで? そういうレベルで私のこと、好きなの?」

 奈都が信じられないという顔をする。随分と失礼な反応だが、元々この子は色々と失礼な子だ。

「涼夏と絢音とはルームシェア計画をぼちぼち進めてるし、奈都は家から通うなら、大学は同じにしたいって思うのは普通でしょ? 迷惑なら考え直すけど」

「迷惑なわけないでしょ!?」

 奈都が声を荒げる。驚いて身を反らせると、奈都が何やら感極まったように体を震わせてから、じんわりと瞳に涙を浮かべた。一体何が始まったのか。

「だって、私、チサのこと、ずっと好きで……」

「知ってるけど」

「いや、そういうのじゃなくて、本当に」

 首を振った奈都の頬に、涙のしずくが零れ落ちる。何か突然感動的なシーンが始まったようだが、まったく意味がわからない。

「私、バトンしてる場合じゃないのかもしれない……」

 奈都がそう声を震わせたが、私はただただ困惑して肩をすくめた。

「いや、そういうのは引退してからでいいから。さっきの涼夏の話は、そういうところに繋がってるって考えていいよ。いいよね?」

 念のため確認すると、涼夏は「そうだな」と満足そうに頷いた。涼夏とは十分に意思の疎通が出来ている。

「5分前と今とで、私は何も変わってないし、何なら奈都に対する感情も、去年の夏くらいから今まで、まったく何も変わってないから、なんで今更そんな反応するのか、まったく意味がわかんないんだけど」

 100文字くらい使ってゆっくりそう告げると、奈都は頭を抱えて首を振った。

「混乱してる」

「こっちが混乱してるから!」

 大袈裟な動きでそう言って、奈都の手を取った。なんだかよくわからないが、少なくとも今は、感動的なTでもPでもOでもない。

 涼夏が可笑しそうに頬を緩めて足を踏み出す。私も奈都の手を引きながら、その背中を追って歩き出した。

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