第22話 ビリヤード(2)

 10月下旬。日が落ちるのが早くなったとはいえ、帰宅部の活動時間帯はまだ明るい。交差点の信号が青になり、動き始めた車の群れを見つめていると、絢音が私の手を握って微笑んだ。

「今日はどうする? 早速勉強する?」

 テストの結果が悪くて落ち込んでいたのだ。それは当然の提案だったが、中間試験が終わったばかりでそういう気分ではなかった。

「私は遊びたい。勉強は、また来週くらいから頑張るよ」

 真顔でそう言うと、絢音が楽しそうに頬を緩めて、熱い眼差しで私を見つめた。

「私、千紗都のそういうとこ、好き」

「どういうところか、まったくわからない」

 私は自分で自分を楽しい人間だとも思っていなければ、そんなに変わった人間だとも思っていない。極めて普通だと思うが、絢音も涼夏も私を面白いと言う。二人の趣味がおかしいのか、私に天然の要素があるのか。前に絢音が、天然はバカの婉曲表現だと言っていたから、後者は勘弁願いたい。

「何か新しい遊びも開拓したいね。帰宅部秋遊び会議を開かないと」

 無目的に歩いても仕方ないので、手を繋いだまま街路の花壇に腰を下ろした。春は大抵勉強しているか、教科書を開かずにだらだらと喋っていることが多かった。涼夏とはウィンドウショッピングもよくやるが、絢音は買えないものを眺めるのがあまり好きではないようだし、恵坂に出るにはお金がかかる。

 古沼に何か遊びはなかったかとスマホで検索していると、絢音が私の手の甲を指先で撫でながら口を開いた。

「そういえば、カラオケの地下に、ビリヤードがなかった?」

「ビリヤードか」

 存在は知っているが、一度もやったことのない遊びの一つだ。なんとなく男性の、しかも大人の遊びという印象だが、値段も安いし、女子高生がやっていけないということはない。

「絢音が教えてくれるなら、挑戦してみようかな」

 好奇心は大切だ。私が緊張しながら頷くと、絢音が「任せて」と握った拳を胸に当てた。

 何度も行ったことのあるカラオケ店に入ると、初めてビリヤードをお願いする。幸いにも台は空いていた上、3台あるビリヤード台は他に誰も使っていなかった。すぐに人が来るかもしれないが、これならみっともないミスをしても恥ずかしくない。

「まずどうすればいいの?」

 何もわからないので、バッグを椅子に置きながら聞くと、絢音がスマホをいじりながら、長い棒の並べられた一角を指差した。

「あの棒、キューっていうんだけど、あれでボールを打つみたい」

「いや、それは知ってる」

「持ち方も調べてみるね」

 絢音がそう言いながら、スマホを指でスライドさせる。私は思わず真顔になって声を潜めた。

「まるで絢音はビリヤードをやったことがないような言い方だった」

「やったことがあるなんて、一言も言ってないけど」

 不思議そうに絢音が首を傾げる。私は目を丸くして絢音の腕を掴んだ。

「えっ? 大丈夫なの? 初心者二人でなんとかなるものなの?」

「それはわからない」

 絢音がそう言いながら、台に移動して球を並べた。どうも形がいびつだったので、私も慌ててスマホで検索すると、どうやら球を綺麗に並べるための枠のような道具があるらしい。二人で探すと、台の下にぶら下がっていた。

「何もかも手探りでする感覚、悪くないね」

 絢音が楽しそうに笑う。さすがはサマセミや文化祭のステージで、知らない人を前にしてギターを弾きながら歌う子だけあって、度胸が据わっている。意味もなく、誰かに怒られるのではないかと冷や冷やしている私とは、人間の器が違う。

 キューを手に、しばらく動画で構え方や打ち方を研究してから、いざ最初のブレイクショットを絢音が放った。球にはまったく勢いがなかったが、ひとまず集まっていた球が綺麗に弾けて散らばった。どの球も落ちなかったから、次は私の番らしい。

 ルール自体は簡単だ。白い球を打って、台の上に残されている一番小さい数字の球に当てればいい。最初は、球が落とせるかは運に任せよう。

 記念すべき初めてのショットは、1番の球が近くにあったこともあり、無事に当たった上、他の球がポケットに落ちてくれた。

「もしかして私たち、結構上手なんじゃない?」

 絢音が柔らかく微笑む。調子に乗って、今度は少し強めに打ってみたら、白い球の端をかすめて、5センチくらいしか動かなかった。

 絢音が笑いながら白い球を取って、1番の近くに置く。失敗したら次のプレイヤーは好きな場所から打てるらしい。親切なルールだ。

 キャーキャー言いながら楽しんでいたら、他の高校の男子グループがやってきたので、声のトーンを落とした。絡まれたら嫌だなぁとハラハラしていたが、どうやらそういうつもりはないらしい。私がほっと胸を撫で下ろすと、絢音がくすっと笑った。

「私はそもそも、知らない男子から声をかけられたことがないから、その手の緊張をしたことがない」

「私が自意識過剰で男性恐怖症なだけだよ」

「それは経験から来るものであって、私は千紗都が自意識過剰だとは思わないよ」

 耳に優しい言葉だ。実際、私はそこまで自分を可愛いとは思っていないが、ナンパされた回数は両手で足りないので、警戒するのも許してもらえたらと思う。

 残り9番だけになってからなかなか落ちず、合わせて7回の失敗の後、ようやく私が落として1ゲーム目が終わった。これはなかなか面白い。絢音が次のゲームの準備をしている間に、写真を撮って涼夏に送り付けた。もうバイトが始まっている時間だから、返事は夜になるだろう。

 2ゲーム目になると、少し余裕が出てきたのか、絢音がプレイしながら静かに話を切り出した。

「千紗都。たぶんもう大丈夫だと思うけど、アルバイトのこと、私は反対だから」

 顔を上げると、絢音は慣れた手つきで手球を打ってから、少しだけ硬い表情で私を見た。

「まあ、平日にバイト入れちゃうと、あんまり遊べなくなるよね」

 私がそう言うと、絢音は力強く頷いた。

「うん。それだけ。別にそれ以外に理由はないよ。今日もすごく楽しいし」

「それは私も同じだけどね」

 打つ時は集中する。二人ともど素人でどうなるかと思ったが、この遊びは初心者にも優しい。いや、動画サイトのおかげと言うべきか。

「莉絵とさぎりんがね、二人ともユナ高だし帰宅部だし、一緒に帰ろうって言ってくれたけど、断った」

 絢音がぽつりとそう告げた。

 豊山さんと牧島さんは、絢音が文化祭で一緒にステージで演奏したバンド仲間である。特に豊山さんとは中学からずっと一緒で、私にとっての奈都と同じような存在だ。私が絢音や涼夏を奈都と引き合わせたように、もしかしたら絢音も、私たちの輪に豊山さんを加えたい思いがあるのかもしれない。

 もしそうなら、それを我慢する必要はない。そう言ってみると、絢音は小さく首を横に振った。

「私がそうしたくないからしてないだけ。だから、別に私は断ったんだから、千紗都もバイトをするなとか、そういうことが言いたいわけじゃないんだけど……そういうことを言ってるかもしれないね、私」

「それくらいの我が儘は許されるべきだと思う」

 はっきりそう告げると、絢音は嬉しそうに微笑んだ。

 最初に絢音が、たぶんもう大丈夫だと思うと言った通り、もうバイトをしたい気持ちは薄れていた。今回成績が落ちたことで、勉強の必要性を感じたし、そもそも平日にバイトをしたいというのも、漠然と思っていただけだ。涼夏には笑われたが、お金が欲しいだけで、働きたいわけではない。

「50位はないな。また30位まで戻したいって思うし。来週からはまた学年5位の先生に、勉強を教えてもらわないと」

 小さく息を吐くと、絢音が「それは喜んで」と頷いた。絢音にとって勉強は遊びの一つである。どれだけ巻き込んでも迷惑がかからないのは、もうよくわかっている。

「さっき涼夏に冗談で頭が悪いって言ったけど、涼夏はあんまりやる気がないだけで、たぶん3人の中で、一番私が頭が悪いと思ってる」

 私がそう独白すると、絢音が苦笑いを浮かべた。

「3人の中でって限定するなら、相対的にはそうかもね。でも、教えていて、呑み込みが悪いとか思ったことはないよ」

「そう言ってもらえると有り難いけど」

 私は頭がいいわけではない。勉強した分、成績に繋がっているだけだ。だから、勉強しなかったから成績が落ちた。それに比べて、絢音は頭がいい。努力を否定するつもりはないが、呑み込みの早さや記憶力の良さは、才能があるとしか言いようがない。

 涼夏も頭の回転は速い。テストの点が悪いのは、単にやる気が無いだけだ。本人は「やる気が出せないのは能力が無いのと同じ」と言うが、私はまったく違うと思う。涼夏がいつも余裕そうなのは、能天気だからではなく、やれば出来るという自信があるからだ。買いかぶりかもしれないが、私はそう感じている。

「勉強もできないし、運動もできないし、趣味もないし、私って何もない。この秋は自分探しの旅に出よう」

 愚痴っぽくならないようにそう呟くと、絢音は可笑しそうに口元に手を寄せた。

「ヘタレな千紗都、大好き」

「それは嬉しくない」

「千紗都はちょっと自己肯定感が低すぎるね。今だってビリヤード、私に勝ったし、こうやって新しい遊びに挑戦する気持ちもあるし、アルバイトだって頑張ってたし、文化祭だって成功したし。可愛いだけじゃなくて、千紗都にはいいところもすごいところもいっぱいあって、私はそういう全部が好きなんだよ?」

 真っ直ぐ見つめられて、私は思わず顔が熱くなって目を逸らせた。

「いきなり真顔でそんなこと言われたら、照れるからやめて」

「惚れた?」

 絢音がくすくすと笑う。とっくに惚れているが、それは言葉にしなくても伝わっているだろう。 

 2回目も私が勝利して、3回目に挑む。なかなか楽しいので、これを趣味にするのも悪くないと言うと、絢音が呆れたように肩をすくめた。

「少し楽しいと、なんでも趣味にしたがるね。タロットもそうだったけど」

「人生に焦りを感じてる。絢音のギターとか、涼夏の料理みたいな、誇れる何かが欲しい」

「広く浅くやるメリットもあると思うけどね。でもまあ、千紗都が何か始めたら、私はそれに全力でついていきたいと思うから、あんまり一人で突っ走らないでね」

 やんわりと釘を刺して、絢音が軽く私の手に触れた。張り合っているわけではない。絢音も涼夏もすごいから、自分が隣に並んで恥ずかしくないような自信が欲しいだけだ。

 ただ、もしかしたらそれは、絢音の言う通り、私には性格的に無理なのかもしれない。結局私は、他人に依存しなければ生きていけないのだ。


 たっぷり遊んで店を出ると、すでに外は暗くなっていた。つい先日体育祭をやったのが嘘のように、風が冷たさを帯びている。昼と夜の寒暖差が大きい季節になってきた。

 休憩中に見たのか、涼夏から羨ましがるメールが返ってきていた。むしろ自分のいない場所で、そんな面白そうなことに挑戦するなと怒られた。今度3人で遊びに来よう。

 別れ際、いつも通りハグしたら、絢音がきつく私の体を抱きしめて離してくれなかった。布が増えて感触はいまいちだが、寒いので温もりが気持ちいい。

「私、思ったんだけど、趣味らしい趣味を持ってる女子って少ないと思う」

 まるでカフェでテーブルを挟んで話しているかのようにそう言われて、私は思わず反応に困った。絢音が私の髪に指を滑らせながら続けた。

「だからって、千紗都がしたいことを否定するわけじゃないけど、なんとなく部長には、私や涼夏が何をしても受け入れられるように、受けを広くしておいて欲しいんだよね。バイトを反対したのもそんな感じ」

「言い様、捉え様だね」

「とにかくまず、涼夏の誕生日の企画をしよう。千紗都個人の悩みは後にして」

 絢音が笑いながらそう言って、唇を重ねた。しばらくキスを楽しんでから体を離す。

 手を振って別れると、私は絢音の温もりを思い出しながら、イエローラインの改札をくぐった。

 受けを広く。まずは涼夏の誕生日。私にもいいところがある。趣味が欲しい理由。自己肯定感。落ちた成績。

 この秋は考えることが多そうだ。退屈しなくて丁度いい。そこまでネガティブになっているわけではない。

 今日はビリヤードに挑戦した。そうして一つずつ積み上げていこう。きっとそれが、私という人間の礎になる。

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