第55話

 セイラの母は、もう一つの昔話を聞かせてくれた。

 マナトの父との、甘くて、苦くて、痛々しい思い出だった。


「あなたたち2人を見ていると、昔の自分たちを思い出すわ。マナトは信じられないかもしれないけれども、あと人、昔は気さくでユーモラスな人だったのよ」


 マナトの父は、木登りが得意だったらしい。

 セイラの母が風邪を引いて、ベッドで寝込んでいると、2階の窓をノックして、秘密の差し入れを届けてくれたのだとか。


「何を持ってきてくれたと思う?」


 セイラの母は少女みたいに笑う。


「マンガよ。当時流行っていた少女マンガ。私は親から禁止されていたから。あの人が書店へいって、少女マンガをレジまで持っていく姿を想像すると、笑っちゃうわよね」


 父の意外な過去を知り、マナトの腹の底がむずかゆくなる。


「2人は愛し合っていたのですか?」


 セイラがいう。


「そうよ。あれは私の19歳の誕生日だった……」

 

 セイラの母とマナトの父は口ゲンカした。


 ほんの些細ささいなきっかけ。

 誕生日のたび、直筆の手紙をくれたけれども、その年は手紙がなかったのが原因だった。


 セイラの母は怒る。

 もう、あなたの顔なんか見たくない! と。

 マナトの父は、謝罪もしなければ、弁解もしなかった。


「でもね、私が怒ってしまったのは、お手紙が欲しかったから。マナトの父のことが好きだったから。一言でいいから謝罪を期待したから。そのことを、あの人は私以上に理解していたのよね。精神的に、私は未熟で、あの人は早熟だった」


 マナトの父は海の向こうに渡ってしまった。

 表向きは、本場イギリスで執事バトラーとして修行するため。

 法隆家の執事として一生働くため。


『お願いだから、戻ってきて』

 たった1通の手紙を、セイラの母は書けなかった。


「誤解してほしくないの。私は夫のことを愛している。法隆の婿養子むこようしにきてくれたし、傾きかけた事業を立て直してくれた。あの人、ああ見えて敏腕びんわんでね。人脈を広げるのが得意で、部下を抜擢ばってきするのが上手いの。家にいる時とは大違い」


 セイラが釣られて笑う。


「次に再会したとき、私たちには婚約者がいた。それぞれが家族を手にした。そして、あなたたちが生まれた」


 ここから先は、マナトへのアドバイス。


「あなたのお父さんは誰よりも頑固なの。口が裂けてもいわないけれども、本当は、セイラとマナトに結ばれてほしいと思っている。だって、想像してみて。私が、あなたの顔なんか見たくない! といったらイギリスまで飛んでいったのよ。私の本当の気持ちに気づいていたくせに。優しい人じゃないと、できないことでしょう。知らないふりをするなんて」


 マナトの涙腺るいせんの奥が熱くなってくる。

 父のことを、心の底から、尊敬できる男だと思った。


「どうだった? 1年間会えなくて?」

「とても寂しかったです」


 セイラが答える。


「心がバラバラになりそうでした」


 マナトも本音を吐露とろする。


「それは2人が本当に愛し合っているから。本当に必要とし合っているから。そのことを、あなたたちのお父さんに伝えなさい」


 セイラの母はシスター・ユリアに声をかけた。


「2人に休暇を与えてもらえないかしら。これから家族会議をします」

「ええ、もちろん」


 それからセイラに向き直る。


「大丈夫。私がついているから。思いっきりお父さんに気持ちをぶつけなさい」

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