情熱冷めるまで

古賀貴大

情熱冷めるまで

#01

 ここはいつでも様々な音が自由に響いていた。先生についてもらって教室で練習している人や友人たちと中庭で即興演奏を楽しむ人。歌声や楽器の音色がどこにいたって聞こえてくる。僕もその一部だった。

 放課後に使わせてもらってる音楽室で歌っていた。この校舎にはいくつも同じような教室がある。一階の隅のここには誰も来ない。みんな家へ帰るか部活に勤しむ。僕は心置きなく声を出せる。


 ある日、ふと窓を見たら人影が見えた。校舎の向かいにある小さいプレハブ小屋に人がいる。ずっと物置だと思っていた。

 その人の顔も制服もわからないけどきっと美術科の人だ。音楽科の隣は音楽科の校舎だし、プレハブ小屋に美術の道具があるのが見える。この道具が邪魔でその人がよく見えない。僕のように放課後まで残って課題か何かをやっているんだろうか。姿勢がまっすぐだ。僕が絵を描く人なら絵を描いてる人を描いてみたいな。

 そんなことを思っていたら目が合った。男子だった。小さい頃によく遊んでくれていた親戚に似ている気がする。とても驚いたけど相手は大学生くらいのはずなので本人ではない。

 相手が窓に近づいてきたのでその驚きは消えて恥ずかしく、怖くなった。小学生の時の初めてのピアノ教室の発表会で一番年上だったお姉さんのドレス姿がきれいでずっと見ていてからかわれたことを思い出した。それと中学生の頃、たまたま下校が遅くなった日に駅の階段で転んだ酔っぱらいに何見てるんだ、と怒鳴られたことがある。この二つの気持ちが混ざった。でもその気持ちもすぐになくなった。

 彼はにっと笑って手招きをしていた。しっかり僕に対してだ。怒ってはないのかもしれないけど何か言われるのかな。怒鳴られなければいいか。僕は教室の窓を開けてそこから外に出た。校舎からプレハブは全然距離がなかった。歩いてすぐ。とても近い。内側からドアが開いて彼が出てきた。


「いらっしゃい」


 彼は制服の上にぶかぶかのパーカーを羽織っていた。僕より少し小柄だ。やっぱりなんだか懐かしい顔立ちだった。

「まさか窓から来るとは思わなかった」

 彼は笑った。笑われて少し恥ずかしく感じた。

「入って。どうぞ座って」

 絵の大きい道具や机の上の小さい道具をどかしながら彼は喋る。僕は小さい木の椅子に座った。ずっと座ってたらお尻が痛くなりそうだ。

「音楽科の人ですよね。最近いつも歌声が聞こえてくる」

「すみません。校舎のほとんどの教室が防音のはずなんですけど距離が近いと音漏れうるさいですよね」

「いいよ。俺きれいなの好きだかんね。お得だ。あれは何を歌ってんの?オペラの曲?」

 僕はここ数日、音楽科オリジナルの課題曲を練習していると説明した。あまり好きではない曲だからか上手く歌えない。そのうちテストがあるのでそのためにあの教室を借りて自由に歌っていた。音漏れは仕方ないけどこうもしっかり聞かれていたなんて。

「心地よく歌うもんだ」

「はは…」

「そんで何を見てたの?」

「あ、いえ…ここって人が来るんだと思って…」

 物置小屋だと思っていた場所に人がいたのが意外だったと話す。こんなところが教室で、絵を描く人がいるんだなと。背筋がいいと思ったことは喋らなかった。

「ここ物置であってるよ。他に空き教室あるよって先生も言ってくれたけどここが良かったから使わせてもらってんの」

「どうしてですか?」

「誰もいないしいい歌声が聞こえるし物がごちゃごちゃしてて落ち着く」

「誰もいないところに人を呼んじゃっていいんですか?」

「先生はたまに来るけどまぁ気にならないし、今は息抜きに付き合ってもらってるし」

「息抜き…あの、それでも、お絵描きの邪魔をしちゃったんじゃないかと思って。ごめんなさい」

「お絵描きって」

 彼は笑いながら壁に立てかけてあった大きいスケッチブックを開いて見せてきた。

「そこにあるアグリッパのデッサンしてた。面取りって知ってる?」

 僕は何もわからなかった。

「上手ですね」

「全然完成してないんだけど」

「でも白いところもよく見ると白くなくてすごいです」

「ありがとう。もっと褒めてね」

 よく笑う人だ。けらけらと笑うってこういうことなんだと思う。にこにことは違う。

「またおいで」彼は笑って言った。「俺、他の科の知り合いっていないんだ。俺も一年。友達になってよ」

 なんだか幼稚園生みたい。お友達になりましょうって。かわいいな。今度は僕が笑った。

「いいですよ。放課後はいつもここにいるんですか?」

「うん、好きな時に遊びに来てよ。歌の練習飽きた時とか音楽科の嫌な奴の愚痴言いたい時とか」

 そういう時は今のところないけど、話しやすい人なのでぽろっと何でも言えちゃうかもしれない。

「ねえ、名前なんてえの?」

 大切なことを伝えてなかった。念のためにクラスも教えておいた。彼が僕の教室に来ることはないだろうけど。

 漢字も尋ねられて口で説明しようとしたら彼はパーカーのポケットからメモ帳を取り出した。ボールペンもどこからか出して貸してくれた。僕も彼の名前とクラスを教えてもらった。名前までどこかで聞いたことのあるような初めて知るすっとした氏名だった。

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