大好き

 咲の叫び声が冬の夕暮れ空に響き渡った。パトカーのライトがとても眩しかった。

「早まらないで! まだ間に合う!」

「いやもう手遅れよ! 私が友美を殺したの! もう取り返しはつかない!」

「そんなことないよ! だから早まらないで!」

「あなたたちが動かない限りは殺さないよ!」

 私たちと警察官たちの間で膠着が続いた。


 空はどんどん暗くなって、限りなく夜に近づいていた。何台ものパトカーのライトがこの場一帯を照らしていた。警察官たちは何もできなかった。動いたら咲が本当に私を殺すかもしれなかったからだ。

「ねえ、この世は狂ってるって思わない!」


 咲が叫んだ。

「私は友美に傷つけられた! 友達だって信じていたのに! でも、彼女もまた傷つけられた可哀想な人だった! ろくでもない家族と何の意思もないのに人を蹴落とすことだけ考えている学校の連中に!」


 咲の言っていたことはその通りだったと思う。友美は様々なことに傷つけられた。ろくに向き合おうとしなかった両親。だからこそ、彼女は人からの愛情を欲していたのだと思う。それでも、それを求めた相手が悪かった。自分のことしか考えていない薄情な連中に愛情を求めてしまった。だから彼女はそれを手に入れるためにはヒエラルキーの上に登るしかなかった。いつのまにか彼女はそれに流されるように咲への妬みのような気持ちが沸いたのだろうと思う。友美は得体の知れない狂気に取り憑かれていたのかもしれない。


 その一方で咲も狂気に取り憑かれていたと思う。友美に傷つけられてナイフを持つようになったのは彼女なりに理があるのかもしれないが、やはり狂っていた。


「落ち着いて! ちゃんと話を聞くから、大人しくナイフを捨てなさい!」

 警察官の一人が説得を試みた。それでも咲は聞く耳を持たなかった。

「嘘だね! 私の話なんて聞いても理解できないよ! 私だって理解できていないもの!」

「君の心の問題はちゃんと向き合うよ! 治療が必要だったら手伝えることは手伝う!」


「心の問題? 私の心は正常よ! どこも問題ない! ただ、私はどうしようもない衝動を抑えられないだけ!」

 咲の手は相変わらず震えていた。彼女は不安定だった。不安定だからこそ、彼女が一番わかっていた。私たちの世界の狂気を。


「ねえ、君にはまだ未来があるはずだ、なのにどうしてこんなことをするんだ!」

 警察官が説得を続けた。やはり最悪の結末は避けたかったのだろう。

「教えてあげる! 私は私が一番嫌いなの! だから死んでしまいたい!」

「だからといって、友達を巻き込むことはないでしょ!」


 この時、彼女が一歩だけ後退りをした。警察官の言葉が響いたのかもしれない。

「それはそうね……」


 気がつけば夜になっていた。冷たい風が体に突き当たっていて寒かった。私の手は悴んでいた。私は何も言えずに咲と警察官のやりとりを聞いていることしかできなかった。私は臆病だった。ここで何かを言えば何かが変わっていたのかもしれないのに何も言えなかった。私は咲のことが好きだったが、一方で実は彼女のことを怖がり続けていた。私はこの場で何かを言うことが怖かったのだ。だから何も言えなかった。


 私は殺されたがっていた。彼女に殺されてしまうのならそれで良いと思っていたのに、生への執着が私の心に恐怖を生み出していた。「私を殺して」と言えたら、この後の私たちはどうなっていたのだろうか。


 私が何も言えずにいると咲は震えながら、叫んだ。

「もう終わりするわ! 何もかも!」

 時が来た。私たちの人生の終わりが。ここから咲は私を連れて飛び降りるのだ。だったら私はそれについていくしかない。私はそう覚悟した。生の執着を捨て去った。


 私たちの人生が終わりを迎えようとした時、咲がとても小さな声で私に呟いた。

「ごめんね。大好きよ」

 その刹那、ナイフが私の首元から離れた。後ろを振り向くと咲はナイフを自らの胸のほうに突き刺した。

「咲!」


 彼女の胸のあたりにナイフが刺さった。刺さったままで彼女は後退りをした。その先は断崖絶壁。彼女は自らの胸からナイフを引き抜いた。引き抜いた瞬間、両手を広げて崖の下へと落ちていった。私はこの瞬間の咲の顔がどうしても忘れられない。満足そうな苦しそうな笑顔だった。


「咲!」

 私は崖の下の方を見た。下の海にはもう何もなかった。

「ああ、そんな咲……、あああ!」

 私の目の前から彼女が消えた。

 彼女があっという間に居なくなってしまった。


 この瞬間、私は急に彼女が言っていた言葉を思い出した。


「ねえ、私と来て。私のサイゴの旅に付き合ってほしいの」


 私は、なぜ彼女が最後の旅と言ったのかが理解できなかった。だが彼女が消えた瞬間に全てが理解できた。


「ねえ、私と来て。私の最期の旅に付き合ってほしいの」


 最後ではない、最期だったのだ。彼女は友美が死んでしまった時から、最初からこうするつもりだったのだ。私を残して一人で死のうとしていたのだ。彼女はこの旅の目的を成し遂げてしまった。彼女なりの人生最期の大冒険だったのだ。


「探せ! まだ生きているかもしれない!」

 警察官たちが慌てて動き出した。

「船を用意しろ!」


「どこの署の船が近い!」

「海上保安庁に連絡して!」

 後ろを振り向くと警察官たちが無線機でどこかに連絡をしたり、地図を広げて何かを話し合い始めていた。私のことなどお構いなしに。


 私は膝から崩れ落ちた。目が崖の下の方へ向けられたままだった。このまま飛び降りようかとも考えた。すると、警察官の一人が私の手を掴んだ。


「あなたまで死んだら、すべてが無意味になる!」

 直前まで咲のことを説得していた警察官だった。

「無意味ってどういうこと! あなたも狂ってるの!」


「僕も何でこんなこと言っているのかわからないよ! でも、君が飛び降りるのを止めないと、さっき飛び降りた子が報われない!」

 彼は必死に私の手を掴み続けていた。


「それを決めるのはあなたじゃないでしょ!」

 私は手を離して欲しかった。だが、彼は離さなかった。

「そうだとも! でも、君はここから飛び降りるべきではない! 僕はそう思う!」


「死なせてよ! 私には何も残っていない!」

「いや、死なせない! それが仕事だから!」

「仕事だから? そんな理由で死なせないでよ!」


「僕は君を死なせたくない、だって死なせてしまったら僕が一生後悔するから」

 この言葉が私を呪った。死んでもいいとさえ覚悟した私の心に再び生への執着を生み出した。


 冬の夜空を私は見つめた。そこには雲がかかってしまっていた。星が隠れてしまった。

 結局私たちは、孔雀座を見れなかったのだと気づいた。

「ああ、何で、何でここまで残酷なの!」


 私は夜空に向かって叫んだ。彼は何も言ってくれなかった。

「私たちの旅はどこまでも無意味だったの? 誰か、わかる人、教えてよ!」

 彼が本気で私の目を見た。


「それは誰もわからないよ。でもね、いつかはわかるんだ。それがいつなのかは僕にはわからないけど、いつかは意味があったって思える瞬間がやってくるんだよ」

 理屈ではそうだと私は理解できた。でも、私の感情が追いつかなかった。


「ええ、そうなんだよね……、けどさ、追いつかないよ。気持ちがさ!」

「ああ、そうだよ。それでいいんだよ! それが人の気持ちなんだから」

 私の目に涙が溢れた。私は嘆いた。この世界の残酷さに。


「ああ、ああ……」

 私には何もできなかった。

 無力だった。


「死なないでね。いいね」

 警察官は私にこう言い残して、違う人に私のことを任せて向こうのほうへと走っていった。私はこの警察官のことを今でも忘れずにいる。


 私たちの旅が終わった。

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