第9話 過去と未来と その三

 *



 突風に吹きつけられ、フレデリックは、ほんのつかのま、目をとじた。それだけで、いつのまにか青蘭が消えていた。


「青蘭?」


 いったい、どこへ行ったというのか。

 そう言えば、以前は青蘭がさらわれるたびに龍郎を責めたものだが、こうなると事情が変わってくる。なるほど。これは不可抗力だ。


(こういうことか。困ったな。結界のぬしにさらわれたか?)


 しかたなく、屋敷のなかをあちこち探しまわる。しかし、青蘭は見つからない。以前の子ども部屋にも行ってみたものの無人だ。食堂や、広い書斎、使用人部屋。一階にはいないようだ。


「青蘭。どこだ? 返事をしてくれ」


 誰もいない。二階だろうか。

 手すりが繊細な花模様を描く螺旋らせん階段をあがる。

 そのさきにある寝室は、以前、星流が使っていたものだ。


 かつて訪れたことのあるこの場所に、こんな形でふたたび来るとは不思議な気分だ。


 星流はフレデリックの初恋の相手だ。いや、恋というよりも依存と言ったほうがよかったかもしれない。心を失い、兵器として生きていた少年のフレデリックを救ってくれたのだ。星流の存在のすべてが、あのころのフレデリックにとって、自身の呼吸にも等しかった。なくては生きられないものだった。


 今にして思えば、あれは恋ではなかったのだろう。だが、恋より遥かに深いものだった。

 だからこそ、星流が結婚すると言いだしたとき、裏切られたと感じたのだが。


(あの近しさは、なんだろう? まるで自分の心臓のような。あとにもさきにも、あんな感覚は星流一人だけだった)


 だが、青蘭を思うときには、胸の奥が熱くなる。ふれあうと喜びがほとばしる。なつかしく、あたたかい。

 これもまた初めての感覚だ。


 星流の寝室。

 フレデリックはその扉の前に立ち、少しく、ためらった。いや、これは幻だ。もうそこに星流はいない。


 ドアをあけるのに、いくらかの決意がいった。重く感じるのはフレデリックの心持ちのせいだろう。


 扉の正面に窓がある。光がさしこみ、窓辺に置かれたソファーがシルエットになっていた。そこに人影がある。誰かが腰かけている。


 ドキリとした。

 青蘭の細身の少年のような体つきは、ほんとに星流によく似ている。


「青蘭……? 探したよ」


 声をかけて近づいてから、フレデリックは息を呑んだ。違う。青蘭ではない。黒く陰になっていたおもてが見分けられると、それは青蘭ほど女性的ではなかった。もっと和風で切長の双眸。中性的ではあるものの、青蘭よりは、まだしも男っぽい。


「星流……」


 あのころのままの星流が、まっすぐ、フレデリックを見つめている。


「やあ。セオ。ひさしぶりだね」


 そう言って微笑む彼の白皙はくせきは、いくばくか青い。青い手の持ちぬしは星流だったのか?

 それは、死人の肌の色だ。


「……星流。君は死んだ」

「ああ。そうだよ。僕は死んだ。だが、こうして君と話している」

「どうして?」

「伝えておかなければならないことがあって」

「何を?」


 たとえ死人でも、目の前にすれば、やはり愛しい。いや、たがいの体が磁石でできているような引力を感じる。失われた自分の半分だ。


「そう。そこだよ」と、星流は言った。

「なんのことだ?」


 たずねつつ、フレデリックは星流のとなりに腰をおろした。ピタリと腰と腰が吸いつくような感覚。


 星流はとうとつに自分の過去について語り始める。


「僕は生まれつき霊力が強く、また何をするのも器用にこなした。容貌も整っていた。周囲の僕を知る人々は、一様に可愛がってくれた。他人から見れば、僕はすべてに恵まれて、羨ましい存在だったろう。だがね。僕自身はいつも憂鬱ゆううつだった。何をしても簡単すぎて楽しくないし、誰と話していても物足りなかった。何かが欠けている気がした。心のわきたつような思いを感じたことが、ただの一度もなかった」


 その感覚はとてもよく理解できた。フレデリック自身がそうだったからだ。

 ましてや、フレデリックは幼時に誘拐され、ずっと殺伐とした少年時代をすごした。今にして思えば鬱状態だったのだろう。生きている感覚がしなかった。


 その思いを、まさか、星流も感じていたとは。


 星流は真顔で続ける。

「君に出会ったとき、ようやく、なくした半分をとりもどしたのだと思った。生まれて初めて同類を見つけた。生きている心地がした」


「では、なぜ、結婚したんだ? 任務でそこまでする必要はなかった」


 静かな声で、星流は告げる。

「思いだしたからだよ」

「何を?」

「かつての記憶を」


 星流の浮世絵の若衆のような美貌を凝視する。聞きたいような、聞くのが怖いような。それは、青蘭が近ごろ、自分をミカエルと同一視していることと関連があるのだろうか?


「聞かせてくれ。どんな記憶だ?」


 初めて、星流はニコリと微笑した。逆光のなかで、なんだか消えてしまいそうな笑顔だ。妙に不安になる。


「青蘭がアンドロマリウスの実験から生まれた人工生命であることは知っているか?」

「ああ」

「アンドロマリウスの肉体を細切れにして、その細胞で造った天使の卵から誕生した。遺伝子情報はアスモデウスのもの。だが、魂はカレンのなかにあった」

「カレン・マスコーヴィルか。そのことも知っている」


 カレンは青蘭の母だ。星流がフレデリックをすてて結婚した女である。


「そう。青蘭はアスモデウスの魂の生まれ変わりだ。魂だけが人間に転生し、いくどもこの世に生まれ、死に、輪廻をくりかえした。その最後の人がカレンだ。僕は彼女をひとめ見たときにわかった。君も、彼女を間近にして、手と手をふれあわせれば感じたはずだ。今、青蘭に対してそうであるように」


 フレデリックは首をふった。


「君が何を言いたいのか、わからない。私が青蘭に惹かれるのは、しかたないだろう? 君は死んだ。私は独り身だ。何にも縛られない」


「それを責めているわけじゃない。僕たちがに惹かれるのは、当然の理だと言いたいだけだ。カレンも、青蘭も、


「カレンの魂を、アンドロマリウスが青蘭のなかへ移したんだったな。君と私は同じ人を好きになったんだと知って、複雑な気分になったよ」


「そう。カレンと青蘭は肉体は異なるが、同一人物だ。僕と君は同じ人を愛している。アスモデウスという天使を」


 フレデリックは息をつめて、星流の口元を見つめた。そこから次に出る言葉を待ちかまえて。


 星流の血色を失い紫色に見える唇から、やがて、言葉が押しだされてくる。

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