Ⅱ.

「んー、やっぱり美味しいね。本場から一流のシェフを呼びつけただけはあった。後で挨拶させる」

「ああ。ついでに名前も聞いておこう」


 上品で繊細な味に舌鼓をうち、フィオナは真っ白なナプキンで口許を拭った。

 食事は好きだ。美味いものを食べ、それを血肉とし、生きてゆく。そんな当たり前の生物としての行動が、無条件に極上の癒しを与えてくれる。欲を知り、欲に従い、欲に生きて、溺れる。それの何が悪い。世の中には偽善者という者達が一定数居て、悪者を仕立て上げ、散々善人気取りで正論という名の綺麗事をつらつらとほざくが、それは間違いだ。奴等は世間知らずのお気楽阿呆か、本気で言っているんじゃなきゃ、よほどの悪党である。人間という生き物は、どこかで悪とされる事を一生のうち何度も犯す。例え、そこに意思がなくとも。例え、罪だと規定されていなくとも。だがしかし、それが人のごうとやらだ。


「ねぇ、フィオナ。知ってる? ディウゾス町のライタズベリーストリートに、新しい家具屋ができたんだけど」

「へえ」


 本当は知っている。そこは故人マクマナス卿の邸宅跡地の一角。


「これが結構良い物作るらしい。最近チェアを一つ壊しちゃってね。新しく作ろうかなって考えているんだよね」


 知っている。椅子で気に食わない執事を殴ったから、壊れたんだろう?


「あー、惜しかったなぁ。あの椅子良い値段したんだけどなぁ」


 それも当然知っている。彼の祖父の形見ってことも。

 フィオナは鼻で笑って、細い指先を頬から顎に滑らせた。


「次はもっと上質な生地で設えたまえ」

「あれも相当上質だよ。特別に東洋の方から取り寄せたらしい」

「確かに、見慣れない柄だった」

「だろう? 部屋の雰囲気に合ってるし、クッションは気持ち良いし。お気に入りだったんだけど」

「お前が感情的になるなんて、珍しいな」


 静かに彼の表情を窺うも、至って普通で変わり映えがしない。これだから子供なのだ。


「んー、甘いものが足りてなかったのかな。チョコレート不足かな?」

「脳味噌が足りてないんだ。蟹の味噌でも食っておけ」


 一時的な情動に流されて、そのあっけらかんとした純粋ピュアつらをどんな風に歪めて、執事を殴ったのだろう。珍しいことに、バルトに対して興味が湧く。彼もフィオナの気を察したのか、嬉しそうに顔を近づけて来た。憎たらしい程の貴族顔が眼前に迫る。


「それより、何? 知りたいの? フィオナが俺にまともな返答するなんて。気になるの?」

「馬鹿を言え」

「嬉しいよ。今日を記念日にしよう」

「勘違いもほどほどにしろ」


 いつものテンポに戻った会話が、周りの離れていた空気を一気に引き寄せて来た。


「貴様に腹が立つことはあっても、好意を抱くことはない」

「厳しいなあ。もう十年来の付き合いだぜ? そろそろ心開いてくれたっていいのに」


 クッションの金のフリンジが彼の指に絡み付き、さらさらと流れている。口を膨らませたところで、フィオナの澄まし顔は崩れないどころか、瞳の険が更に増す。


「お前の執事の焼くマフィンには、二年程前に心を開いたがな」

「マフィンに負ける俺……」


 バルトががくりと大袈裟に項垂れてみせたところに、執事がワインボトルを抱えて入って来た。


「昼から酒とは。暇人の極みだな、カッセルズ伯爵」

「貴方にもお注ぎ致しますよ、ダウズウェル伯爵」

「いや、私はいい。仕事を残している」


 手でグラスの縁を覆い、断ろうとしたのを、グレンが「失礼ですが」と遮った。


「ご主人様の本日の予定は無くなりました」


 「はぁ?」と怪訝な表情で振り返ったフィオナの前に、執事の品良く咲かせた微笑みがあり、押し黙る。


「近頃、貴方様はお忙し過ぎます。いつ御身体に皺寄せが来ても不思議ではありません。今日はゆっくりお休みになられて下さい」

「さっ、そういう事なら問題ないな」


 バルトはフィオナの返事を待たずして、執事に二つのワイングラスを満たさせた。ついでにと、酒のさかなを注文している。


「仕事が溜まる」

「お気になさらず。今ジャスパーとギルバートが、執事に手出しの出来る範囲で片付けております」


 驚きで見開かれた目が、ゆっくりと伏せられた。肩から力が抜けた、ごく些少な変化。しかし、グレンは目敏くそれを捉えた。


「うちの執事は優秀だな」

「お褒めに預かり光栄にございます」


 フィオナは愉悦に頬を緩めて、一口パンを齧った。そうとなれば、今日一日はゆっくりとしようじゃないか、と切り替えが早い。ワイングラスを揺らしながら深く腰を掛け直し、国王もびっくりの横柄な態度で追加のナッツを注文した。

 片目を閉じて、バルトを盗み見る。彼を貶めてみたらどんな反応をするのだろう。そうしたら、彼はどんな表情をするのだろう。こんな大事大事とお庭で育てられたお坊ちゃんも、秀才、女に目がない、飄々とした性格……油断のならない男だ。彼がフィオナを友人として好いていることも、警戒していることも、ひた隠しにした心の奥底で怯えていることも、分かっている。しかし彼は賢い生き方を知っていた。フィオナに対して抱く違和感や不信感を深入りして探ろうとはせず、当たり障りのない範疇で仲を深めようとしてくる。賞賛に値する、彼の先天的能力だ。


「フィオナ様。何を考えてらっしゃるのですか。意地悪な顔をしておられましたよ?」


 グレンがメインの皿を置く仕草で口許を上手く隠しながら、小声で囁きかけてきた。見上げると、ゴールドのベールを纏った瞳が、三日月をかたどっている。その仮面の裏側は、私には見えているぞ。グレン。


「いや。ちょっとした思い出し笑いさ」

「これはこれは、失礼致しました」


 芝居掛かった仕草で左胸に手を当て、腰を折る彼のつむじを、一瞬フィオナはめいいっぱい睨んだ。


「バルト、この赤ワインに合うチーズが何種類か欲しい。そうしたら、今日は特別だ。気の済むまでたっぷり、私と話をさせてやる」

「なんだよ、その上から目線は」


 肩を竦めてやれやれといった様子でありながら、執事に早速チーズの種類を細かく注文している。


「部屋には誰も入れるな」


 ついでにと、しっかり釘を刺して満足げだ。


「ところで、君の執事はどうするのかな?」


 グレン。

 振り向きもせず放ったその一言に、グレンは柔らかな笑みを浮かべると、「畏まりました」と一礼。バルトの執事に続いて、すんなり部屋から退出して行った。


「さて、水入らずの話といこうか」


 恐らく至極偉そうな態度で脚を組み片笑み混じりで告げる主人姿を想像して、グレンは、心中で笑っていた。

 水入らず、などという大嘘。フィオナが創り上げる虚構。しかし、実存に成り得る虚妄。言葉に込める感情というものは厄介で。嘘か本当か、ましては嘘が本当に成り得るのだから、分かりやしない。主人はこのままごとを気に入っているようだと、グレンは嘲笑う。


「食事は私が運びましょう」


 部屋の扉を閉め、グレンはバルトの執事にそう言った。戸惑うに優しく微笑んで、「私が運びます」と半ば強制的に役を貰い受ける。


「ゴーダ、ラクレット、パルミジャーノ・レッジャーノ。カマンベールにエダム。それだけで良いと?」


 怪訝そうに眉根を寄せた執事に、得意の作り笑顔を向けて。


「これだから、使えない執事は」


 一瞬にしてグレンの言葉の刃は、彼を萎縮させた。冷たい瞳に射抜かれた途端、固まった身体。その肩に手を置かれ、彼はびくりと震えた。まるでつがえられたいしゆみを向けられた、小動物えもののようである。


「要求の数手先まで読んで、お応えするのが執事の仕事」


 そう言って、厨房の者達に次々と指示を飛ばしてから、ワインセラーの鍵を人差し指に引っ掛けた。


「君はまだ、半人前という言い訳が使えるかも知れないですが。この先そうもいかないですよ。特に、君の主人のことを考えると」


 そして、ワインセラーへと続く地下の階段をランプで照らしながら降る。煉瓦の壁が靴音を反響させた。酷く冷たい調べだ。


「主人の口に差し上げるワインは、己自身で目利きするのも当然。味見も然り」


 コルク栓を抜いて、薄暗闇の中、グラスに注いだ赤を飲み干す姿は、吸血鬼が生き血を啜っているかのよう。


「これだな」


 目を細めてランプにボトルをかざし、銘柄を確認してワインセラーを後にする。厨房へと戻れば、チーズに加えてドライフルーツや肉が載ったプレートが既に準備されていた。グレンは厨房のコック長に何か伝えている。それらを持って、主人達の居る部屋へと赴こうとする際、グレンは何か言いたげに自分を見る執事に目を留めた。


「何か」

「い、いえ……」

「執事たるもの、ものをはっきり申して欲しいですね。ああ、申し訳ない。私には関係ないことでしたね。君が半人前であろうとなかろうと」


 扉を閉めようとしたグレンが、動きをぴたりと止めた。グレンの光の具合で琥珀に彩られたまなこが、揺れ動く執事の瞳をじっと見つめた。


「執事の仕事は何よりも危険。そう捉えておきなさい。失敗すれば死、中途半端も死、普通の出来も死。これほどリスキーな仕事はございませんよ」


 パタン、と丁寧に閉じられた扉の前に、彼は暫し立ち尽くしたのであった。

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