光るカモメとケーキ

 指定のカフェに着いたのは、2時ちょうどだった。ケーキ屋に併設してあるメルヘンな店で、二階にいくつかテーブル席があった。紅根に似合っているかと言われれば、正直、首をかしげる。意外にも女の子な趣味をしていて、部屋はヌイグルミで埋まっているのかもしれない。

 店は大晦日ということもあってか、16時には閉めるらしい。貼り紙には1月5日まで休むとあった。

 俺は恐る恐る店に入り、先に待っているという紅根に遅れたことを謝ってから、席に着いた。

「で、進展は?」

 開口一番、紅根はそう言った。

「進展はあった。でも、まだ理由は分かっていない」

「それじゃ、何が分かったの?」

 紅根はコーヒーカップを持った。紅茶ではなく、コーヒーを飲むのかと俺は驚いた。

「香月君と宵月の関係、そして宵月とあいつの関係が分かった」

「聞かせて」

「ダメだ」

「え?」

「まだ話せない」

「なんで?」紅根は顔を歪めた「なんでよ」

「何もかも正直に話したいから」

 ウェイトレスがやってきて、俺はコーヒーをオーダーした。ケーキセットをおすすめされたが断った。

 紅根はそれを見つめ、俺たちは彼女がテーブルを離れるのを待った。

「紅根」

「何?」

「俺は君が好きだ。あいつがいなくなってから、君は俺が会話をできる人物の一人になった。だから、紅根には何もかも正直に話したい」

「うん。じゃあ」紅根は手を組んでテーブルの上に出した。「話して」

 俺は頷いた。

「だが、紅根。君は俺に隠し事をしているだろう?」

「してないよ」

 そんなことはない。紅根、君が本当のことを話してくれないと、俺の妄想が現実になることはない。いや、そっちの方がいいのかもしれないが、そうなると俺はまた行き止まりを目の前にしてしまう。

「紅根が本当のことを話してくれないと、進展しない。俺は昼前に、ある仮説を立てた。その仮説に君は出てこない。では、なぜ君がここにいるのか。それが謎だ」

「どういうこと?」

「君はあいつの何だ、どんな関係だ」

「恋人だけど」

「……そうか。じゃあ、この話はおしまいだ。俺の仮説は成り立たない。次の進展があるまで待ってくれ」

 ウェイトレスがコーヒーと勘定書を持ってきた。俺はコーヒーを引きよせ、匂いをすっと嗅いだ。

「ねぇ、早く教えてよ」

「何を」

「宵月さんとあの人の関係を」

「……紅根は小説を読む?」

 俺はコーヒーを飲んだ。あまり美味しくない。風味よりも水分を先に感じる。

「そんなことどうでもいいでしょ」

「いや、重要なんだ。君は小説を読むか、読まないのか」

「読まない。だから、早く」

「君は宵月と香月君の関係を知らなかった。そして宵月とあいつの関係も知らない。そして小説も読まない。うん。君が白だということは分かっている。だからこそ君がなぜここにいるのか、それがどうしても分からない。君がいなくなれば、俺はもっと自然に話せるんだ」

「ちっとも分からない」紅根の声が少し大きくなった。「早く教えてよ」

 俺は息を浅く吸い、そして吐いた。そのあとに今度は息を大きく吸い、それを吐いた。

「あいつは純粋だった。だけど君はそれを無理に繕っている。あいつに君はふさわしくない」

 こんなことを紅根に言っていいのだろうか。あまりにも厳しく、酷い言葉ではないだろうか。だが、俺の考えが正しいのなら、そういうことしかできない。

「なぁ、紅根、君は本当にあいつと付き合っていたのか?」窓の外を見た。車が何台も通り過ぎていく。「俺の想像、妄想では、君は全くもっての部外者だ。君は香月君よりも、宵月よりも、俺よりも、何なら夏目冬子よりも、あいつに関係していない」

 紅根の顔は真っ白になっていた。目や鼻、口、それらがそこにあるはずなのに、無表情のせいでうまく脳がそれらを形作れないでいる。

「君はあいつの何だ。恋人じゃないんだろう」

 紅根は何も言わず、俺を、もしくは俺の後頭部を真っすぐ見ている。お面のような彼女の顔は俺に恐怖を覚えさせる。ここにいるのが俺たち二人だけなら、俺はすぐさま逃げ出す準備をしていただろう。

「私は彼の恋人」紅根は口だけを動かした。「それだけは誰にも譲らない」

 なんて強情なやつだ。いや、俺の考えが間違えているのか?

……まぁ、いい。では、俺も嘘を吐いてみようじゃないか。俺たちはそれが好きだろう。

「あいつは一度も、偽の彼女を作ったことはなかったぞ。紅根と違って、純粋だったはずだ。純粋過ぎて、傷つきやすかったのかもしれない。俺や紅根のように、どこか狂っていれば、死にはしなかっただろうな」

 紅根はまだこちらを真っすぐ見ている。瞬きをしている様子はない。

「あいつは、宵月と付き合っていた」

「え?」紅根の目が大きく開いた「今、何て?」

 脳が彼女のパーツを少しずつ捉え始めた。

「だから、嘘を吐かないでくれ。君があいつの彼女だなんて言わないでくれ。あいつの彼女は宵月だった。紅根という女の子ではなかった」

 紅根の背中がソファの背もたれについた。

「それ、さ」

「紅根。本当のことを教えてくれ。何もかも、全てだ。全てを話してくれたら、俺も全てを話す。そして、その結果、残る謎はひとつになる。それを解明したら、俺の友達はお前に関係してくる」そしてお前の望んでいる通り、あいつは、「お前の人生から永遠に消えないだろう。強烈な印象を残して」

「……分かった」紅根はポシェットからハンカチを取り出し、涙を拭いて言った。「私は……彼の恋人じゃないの。友達でもなかった」

 数秒後、彼女の目からは、涙が流れ始めた。

 嘘を吐いてごめん、紅根。あいつは宵月とも、誰とも付き合っちゃいない。あいつはただ……。

「私はただ、彼のことが好きだっただけ」

 俺は頷いた。

 でも、紅根はなぜ友達の部屋のことを知っていたのか。なぜ、嘘をついたのか。

「私、ストーカーだったのかも」

 俺はコーヒーを一口飲んだ。

「彼のことが好きすぎて、何回も部屋覗いたことあるの。一度もばれたことはないけれど」

 俺は頷いた。驚いたが、それを表に出さないように注意した。

「だから、私、彼のことをほとんど知っているんだよ。生年月日、血液型、小学校の頃の写真も盗み見たことある。でも宵月さんと付き合っていたなんて……。信じられないなあ。とても信じられない」

 いつから、あいつのことが好きだったのだろうか。

「彼を好きになったのは……。ほら、一年の頃、学校の行事で宿泊施設に行って、そして、班が隣だったっていうやつ。出会いは本当のことを言ったんだよ。いや、出会いっていうか一目惚れのときかな」

 なるほどね。俺はそう思い、コーヒーをもう一口飲んだ。なんだか、前よりも美味しくなっている気がした。

「でも、近づけなかったなあ……。近づけば少しは変わったのかなあ」紅根の目にまた涙が溜まり始めた。「でも、もう何を思っても遅いよね」

 ああ、もう遅い。俺たちはあいつに対して、もう何もできない。線香なんて、自分のためにしかならない。俺たち、生きている人間だけに許された、贅沢な慰めの行為だ。

「私、本当に狂ってるの」

 お前だけじゃないさ。

「連織君は、人が死ぬところって見たことある?」

 俺は首を振った。

「連織君は、蔵の中見てないって言ってたっけ」

 ……まさか。

「私、彼が死んでいるところを見たの。あの人、泣いてた。目から涙をこぼして、泣いていたの。……怖かった。でも、それ以上に、とてもうれしかった。家族よりも、世界中の誰よりも早く共有できた、私たちだけの秘密なの。だから、誰にも知らせなかった。救急車も警察も呼ばなかった」

 紅根はどこか狂っている。

「たぶん、彼が自殺したと本当に知っているのは、私とあなたと、彼の両親と、数人の親戚と、先生だけよ。でもね」

 紅根の笑顔は美しかった。頭の上に、光る輪があってもおかしくなかった。

「彼の亡骸を一番初めに見たのは、私なの。それがとってもうれしくてね」紅根は、ふふふと楽しそうに笑った。「でも、同時に悲しくもなった。分かる?」

 俺は正直に、首を横に振った。

「あとは」紅根はゆっくりと呼吸をした。「私と彼が恋人だと信じてくれる人と、彼が死んだ理由を知れば、彼が完全に私だけのものになると思ったの。でも、宵月さんが彼女だったとはね。……あーあ」

 さあ、と俺は顔に力を入れ、両手で額を撫でた。

「じゃあ、今度は俺の番だな」

 紅根はゆっくりと頷き、こちらを見た。

「まずは本当のことを伝えよう。あいつは宵月となんか付き合っちゃいない」

「ん?」

「ごめん。嘘を吐いた。紅根が嘘を吐き通そうとするものだから、つい」

 紅根はしばらく黙っていたが、そのあとすぐに微笑み頷いた。

「うん。私こそ、ごめんね。本当のこと言わなくて」

 そして彼女は立ち上がり、左手で俺の頬を思いっきり叩いた。美しい音色だったかもしれない。それは店内を飛び回り、それから外へと消えていった。それが俺の目には光るカモメのように見えた。

「じゃあ」紅根は席に着いた。「続きを教えて」

 いくつもの静寂と視線が、こちらから各々に戻るのを待ってから俺は口を開いた。

「宵月と香月君の」鉄の味を少し感じた。「……宵月と香月君の関係だが、彼らは恋人同士だった。宵月が言うには、十二月の最初の頃まで」

「知らなかったな。いつから?」

「付き合った期間は4か月と言っていた。つまりは8月、夏休みに付き合い始めたのだと思う」

「それで?」

「これは事実だ。これは宵月に確かめた。嘘を吐いているとは思えない。香月君に聞いてもいいかと脅して聞いたくらいだ」

 紅根は鼻を啜った。

「そして、ここからが俺の想像だ。紅根には申し訳ないことをしたけど、どうしても君の排除が必要だった。なぜなら、あいつは宵月のことが好きだったからだ」

 紅根は口を半分開け、また閉じ、そしてまた開けた。

 俺は彼女が何か言う前に、手でそれを制した。

「だから紅根が彼女だとしたら、おかしいなと思ったんだ。浮気も結構なことだが、それがあいつに出来たとはどうしても考えられなかった。それよりも、君があいつの彼女じゃないのではないかと考える方が楽だった」

「でも、それも結構堪えるな」

「紅根も堪えるだろうが、あいつも堪えたはずだ」

「……そうだよね。失恋ってことだよね」

 俺は頷いた。

「でも、失恋したから自殺を選んだの?」

「分からない。でも、そのヒントになるのが、あいつが読んでいた本だと思う」

俺は鞄から一冊の文庫本を出した。

「本……?」

「見覚えは?」

 紅根は首を振った。

「最後にあいつの部屋を覗いたのはいつ」

「8月の……お盆が終わった頃」

「これはあった?」俺はカバーを外し、本のタイトルを見せた。

「『友情』。……なかったと思う」

「うん。あいつがこの本を買ったのは九月の初め頃だ。駅に入っている本屋で買った」

「それで?」

「なぜあいつが、その本屋でこの小説を買ったというのが分かったのか。それはこのカバーが、少し歪な形で折られているから。ほら、左右対称じゃないだろ?」俺はカバーを外し半分に折ってみた。「なぜ、こんなことになったのか」

「なんで?」

「アルバイトの人がまだ入ったばかりで、ミスしたんだ。だから、あいつがその本屋でこれを買ったというのが分かった。でも、問題は次だ。アルバイトの店員さんは、やり直そうとした。でも、あいつはそれを断り、突然、急いで店外へ出たそうだ」

「何があったの?」

「携帯電話が鳴ったから? 違う。それはすぐに出るか、後でかけなおせばいい。メールも同じだ。では、なぜあいつは急いでいた。……おそらく、あいつはある人を見かけたんだ」

「誰?」

「宵月だよ」

「宵月さん?」

「そう。ただの友人同士なら別に本屋で遭遇しても気にしないだろう。だが、その頃に気まずい関係になっていたのならどうだ」

「それって?」

「告白して振られていたのならどうだ」

「……それ確かめたの?」

 俺は首を縦に振ろうか、横に振ろうか迷った。あいつは宵月に告白なんてしていない。だが、彼女はあいつが自分のことを好きだということに気付いていたはずだ。

 紅根はテーブルの上に一度視線を落とし、それからまた、俺を見た。テーブルに出していた手は、引っ込めていた。

「もちろん、こんなことで死ぬやつじゃないと思う。あいつが自殺したのは、九月の下旬。あいつが失恋したのは八月の下旬。一ヶ月も失恋を引っぱっていたとは俺には思えない」

「そうかな?」

「俺はそう思う」

「でも、失恋ってかなりきついものだよ。……連織君は外見がいいから、そんな経験ないと思うけど」

 痛いところをつく。そんなことはないと言いたいところだが、否定したら話が脱線しそうだ。

「そうかもな。そうかもしれない」

 ぬるくなったコーヒーを俺は一口飲んで頷いた。

「俺の考えに戻ろう。俺が気になっているのは、この本だ。この本以外に、あいつは二冊小説を買っていた。だが、俺が気になっているのはこの本だ」

「どうして?」

「それは……この小説のネタバレになるけどいい?」

「いいよ」

 紅根は頷いた。

「この本の主人公は、恋と友情を同時に失う」

 紅根の顔が強張った。

「まるで、あいつが現実で体験したことと同じじゃないか?」

 フォークとスプーン、そして皿が擦れる音、他の客の声、店員の声、その他多くの店内の音が一斉に耳に届いた。

「じゃあ」俺は口を開いた。「なぜ、あいつはそんな本を失恋後に読んだのだろう。俺なら耐えられない」

「……うん」

「俺が思ったのは、あいつは……この本の内容を知らなかったんじゃないかってことだ。あいつは小説を読むようなやつじゃなかった。だから」

「どうやって、彼はこの本のことを知ったの?」

 そう。紅根の言う通りだ。

「俺もそう疑問に思った。じゃあ、誰があいつに、こんな本を教えたのか」

「誰?」

「あいつの交友関係は調べた限りでは狭かった。家族の他には、俺と香月君、宵月だけだろう」

「そうね」

「俺は本を読まない。宵月は本を読む。香月君は分からない」

「香月君の趣味が読書だとは聞いたことないけど」

 俺は肩をすくめた。

「じゃあ、宵月がこの本をあいつに薦めたのだろう」

 俺は、宵月に友達に何か本を薦めたことがあるのか聞いたときのことを思い出した。確かに少し変だったような気がする。だが、同時に、彼女に最近、『友情』を読んだと言ったときのことも思い出した。そのとき、彼女は何かおかしかっただろうか。いいや、何もおかしくなかったと思う。

「もし、それが本当なら、私、宵月さんを許せない」

「それを聞いてみようと思うけど、宵月と会うのは三箇日が終わってからだ」

「そう」

「そう。これで進展の報告は終わりだ。少しは落ち着いた?」

「どうかな」

 紅根はそう言って外を見た。

 俺も外を見てみた。白い雪のようなものが舞っていたが、それが本物の雪だと気付くのに少し時間がかかった。俺は窓に半透明に反射している紅根の顔を見た。彼女は気がきいて、明るくて、意外と乙女で、狂っている。そして、その狂気は彼女の愛の形なのかもしれない。

 電話で聞いた紅根の言葉を思い出す。

『私、彼を本当に愛してるの』

 彼女は友達に狂っていたのだ。あいつの死さえも、紅根にとっては心溶けるものだったのだ。

 では、一体あいつのどこに、そんなに惹かれたのだろうか。

 聞いてみることにしよう。

「なあ、あいつのどこが好きだったんだ?」

 紅根はこちらを向いた。

「ケーキを食べながら話すよ」

 俺はテーブルに置いてある呼び出しボタンを押した。

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