第32話 このまませかいがおわればいいのに 4

「——せ、みなせ。おい、水無瀬ってば……」


 ぱちっと目を開けると、星空がどこかに消えていた。


 隣の席から御子柴が眉間に皺を寄せて、俺を覗き込んでいる。コートを着ていて、手は離れていて、肘掛けが元に戻っていた。


 ……え? もしかして、全部、夢? プラネタリウムは今から?


 きょろきょろと左右を見渡すと、他の客は一人もいなかった。御子柴が急かすように俺の腕を引っ張る。緩慢な動作で立ち上がる俺に、呆れた声が降ってきた。


「お前、始まってすぐ爆睡したんだけど」


「え!」


 視線を感じて、出入り口を見やると、係員の女性が凄みのある笑顔を浮かべていた。俺は御子柴に腕を引っ張られつつ、すみやかにその場を後にした。


「見たいって言ったのお前じゃん、もー」


 手を離すなり、御子柴は腕を組んで文句を言った。返す言葉もなく、俺はしょんぼりと肩を落とした。


「ごめんって。でも起こしてくれれば良かったのに」


「あんだけ気持ちよさそうに寝られたら、起こせねーよ」


 はぁ……。なんだかすごくもったいないことをした。初めてのプラネタリウムだったのに、星空もろくに見られなかった。それに、せっかく……手も繋いでたのに。本当にもったいない。


「あ、そうだ。チケット代、いくら?」


「いいよ、別に。お前、見てないんだし」


「い、いやいや、払うって」


「じゃ、今度また来た時に出して。んで、寝るな」


「う……はい」


 エレベーターで地下まで降りて、そこからエスカレーターで地上に登る。池袋の街はすっかり茜色に染まっていた。


 電車に乗って、横浜まで帰る。そこから私鉄に乗り換えれば、すぐ最寄り駅だった。


 冬の日は短く、地元に着くとすっかり暗くなっていた。東京がそんなに遠いわけではないけど、見慣れた道を歩くと、帰ってきたという気分がしてほっとする。


「あのさ、来週……」


 御子柴がぽつりと呟くのに、耳を傾ける。形のいい眉が困ったようにしかめられていた。


「って、もう三月だよなー」


「あぁ……うん、そうだな」


 二月は少し短くて、あっという間だった。来週半ばからはもう三月。……二年生、最後の月だ。


 来年も同じクラスメートがいい、と天野さんが言っていたのを思い出す。俺も賛成だった。それが叶ったら、どんなにいいことか。


 長い道の向こうに俺ん家のマンションが見えてきた。なんとなく目を伏せると、御子柴が柔らかく苦笑した。


「何? 帰るの寂しい?」


 うるさいばか、といつものように言ってやるつもりだった。


 でも自分の意に反して、俺の足は立ち止まった。御子柴が数歩先でそれに気づき、振り返ってくる。


「水無瀬?」


「……寂しいよ」


 手を伸ばし、御子柴のコートの袖を指で掴む。


「離れたくない」


 ——耳に痛いほどの静けさが訪れる。


 俺は俯いたまま顔を上げられない。ばかだ、言わなきゃ良かった。こんなことしたって、御子柴が困るだけなのに。


 そっと指を離す。なんて謝ろうか考えていると、御子柴が固い声音で言った。


「……キスしたい」


「えっ、い、いや、ここでは」


「だろうな。じゃあ、なんでそんなこと言うんだよ」


 体の横で、御子柴の拳が震えるほど強く握られている。怒らせたのかと思い、ぎくりと背筋を強張らせる。御子柴は長い溜息と共に、続きを吐き出した。


「っていうか、今日ずっと思ってたよ、俺は。同じとこの靴欲しいとか言い出すし、それと服見立てろとかさ……。マフラーも靴も俺が選んだんだぞ。んなことしたら頭からつま先まで、ってなるけどいいのかよ」


 ……え。あれ。なんでこいつこんなに怒ってんだろう。あとそれの何が悪いのか、まったく分からない。


「妙に楽しそうだし、やけに素直だし。プラネタリウム見たいって。そんですぐ寝るって。可愛いのかよ、お前は」


「いや、可愛くはない……」


「手も繋いだし、暗いからワンチャンあると踏んでたわ。いやもう寝ててもいっそしてやろうかとも思ったし。でも肩に頭乗っけられたらできねえだろ、ふざけんな」


 俺、そんなことしてたのか。つーかさっきから、一体何を聞かされてる? 頭がこんがらがってきたところで、御子柴はまた聞こえよがしに嘆息した。


「もういい。今日言いそびれてたこと、この勢いで言いますけど」


 そういえば昼間、やけに口ごもっていた時のことを思い出す。俺が身構える間もなく、御子柴は強い語気で告げた。



「——来週末、うち、誰もいないんだけど。泊まりにくる?」



 ぽかん、と呆気に取られていたのは一瞬だった。


 御子柴の言わんとしているところが全て分かった瞬間、ぶわっと全身の血が顔に集まる。夜の住宅街に俺の素っ頓狂な声が響き渡った。



「——へっ!?」


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