第27話 連帯責任 3
逸る気持ちを抑えて、水無瀬に電話をかけようとする。が、どの口で『会いたい』だなんて言えるだろう。俺は日和った挙げ句、メッセージで送った。
『ごめん、ちょっと腹壊して、寝てる』
家路を急いでいた足がぎくりと止まった。これは偶然か? それとも——
尋ねる勇気がなかったのもある。だがそれ以上に弱っている水無瀬に負担をかけるにはいかないと思った。明日、一緒に登校する約束をして、やりとりは終わった。
家に戻った俺はピアノ部屋に直行した。
ストレッチからやり直して、練習曲を三十分弾き、それからショパンのノクターンを第二十一番から遡っていった。神呪寺先生は三年後のショパン・コンクールに俺を推薦するつもりだ。理解を深めておいて損はない。
弾いて弾いて弾いて、弾き続けた。第二十番「遅く、とても情感豊かに」(レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ)の幅広い音域を持つフレーズ、第十七番の転調の連続、第十三番の再現部で押し寄せる音符の津波、第四番のトレモロが繰り返される激しいメロディ、それから、それから——
第三番を終えて、俺は動きを止めた。
全身がどうしようもなく疲労していた。
腕が上がらない。指が動かない。ただ椅子の上で項垂れるばかりで、俺は一向に進めない。否——戻れない。
第二番はショパンのノクターンの代名詞といっても過言ではない。クラシックを知らない人でも必ず聞いたことがある有名曲だ。
——これを音楽室で弾いたあの日から、決定的に何かが変わった。
潤んで宝石のように光る瞳が、頬をゆっくりと流れたたった一雫が、俺の心の全てをさらったのだ。
俺は第二番に手を着けず、防音室を後にした。
母屋の方に帰って、風呂に入り、そのまま髪も乾かさずにベッドへ倒れ込んだ。おもむろにスマホを操作して、電話を掛ける。相手はすぐに出た。
『ハーイ、なーにー?』
ジェーンの野太い声を聞きながら、俺はぼうっと自室の天井を見上げていた。『オイコラ、なんとか言えや』と重低音で促され、ぽつりと呟く。
「……やらかした」
『え? あらやだ、ついに週刊誌?』
「んなわけあるか、俺ごときに」
『やけに卑屈じゃない。お姉さんに相談してごらんなさい、ほら』
電話の向こうでは人の話し声やパソコンのキータッチの音が響いている。仕事中に悪いとは思ったが、俺は言われるがままに全てをぶちまけた。
ジェーンは忙しなくキーボードを叩きながら、溜息を吐いた。
『あー、それは……うーん。盛大にやらかしたわねえ』
「二人とも傷つけた。最低だ」
事情を打ち明けられた直後は水無瀬のことしか考えられなかったが、冷静になれば俺は天野のことだって手酷く傷つけたのだと思い知る。
天野は話をしている間、何度も謝って、俺に気を遣っていた。きっと水無瀬にもそうしてくれたに違いない。
なのに俺は情けなくも混乱していて、あんな寂れた公園へ置き去りにしてしまった。
『でもあんたってホント悪運が強いっていうか。見られたのがその子じゃなかったらアウトでしょ。あんたにはもったいないイイ女だわ』
「まぁ、それは……」
『ともかく誠心誠意謝るしかないわね。これに懲りたら学校でおイタ……じゃなかった、火遊びはやめときなさい』
「……はい」
『あら、素直。いつもこうなら可愛いのに。ま、それはそれで張り合いがないから、一区切りついたら切り替えなさいよ。じゃあね、バーイ』
通話が切れるなり、俺はスマホをベッドの上に放った。
カーテンから透ける月光すら眩しくて、目元を腕で覆う。明日のことを考えると、胃に鉛を流し込まれたように体が重くなった。
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