第10話 うっかり

 時刻はすでにてっぺんをまわった。

 帰りのタクシーの中、俺と妹は会話も無くただ窓の外を眺めている。

 今日は夕方から仕事が始まり、立て続けに三本も収録してきた。

 そのため、俺はともかく妹までも顔に疲労が浮かんでいる。



 俺は気だるさの中、昼間のことを思い出していた。


 妹の、『構わない』という言葉。

 それはまるで、そうであることを望んでいるような言葉。

 これもまた、俺が妹を意識しすぎているせいでそう勘違いをしてしまっているのだろうか。……今の俺には冷静な判断が下せそうにない。 

 

 俺は過去に妹からキスを迫られた時、明確な拒絶を示した。

 

 お前のいい兄でいたい――その思いは今でも変わっていない。


 それ以降、妹も多少行き過ぎだと思う言動があっても一線を越えるようなことはしてこなかった。

 俺は、妹が俺の気持ちを尊重して諦めたのだと理解している。

 だというのに、今度は俺の方が揺らいでしまっているというのは情けないことだ。




「浩介さん」



 自分の情けなさに心の中で嘆いている中、妹から声が掛かる。

 車内にはタクシーの運転手もいるので、今の俺たちの関係はタレントとそのマネージャーだ。



「どうしました? 咲さん」


「今日は疲れましたね」


「そうですね。新しいドラマももうすぐ始まるので、この時期は番宣でいつもより忙しくなってます」


「休み、どこかで取れたらいいのですが」


「……何か予定でも?」



 タレントのスケジュール管理はマネージャーの最も重要な仕事だ。

 休みが欲しいと言われれば、どんなに忙しくても時間を割いて作らなければならない。


 俺は急に休みが欲しいと言われ、少し動揺した。

 妹とはプライベートでもほとんど一緒にいるので、休みが欲しい時期は大体把握しているつもりだったが、今回は全く予期せぬものだった。


 思い返すと、妹とはずっと一緒にいるが最近ではマネージャーとして傍にいる時間の方が長く感じる。

 つまり、妹の兄でいる時間が少なくなった気がするのだ。

 いつの間にかマネージャーという他人のフリが、フリではなくなってきている。


 このままではいけない。

 俺は、もっと兄としての妹と向き合おうと気を改めた。


 どこか遊びに行きたいところがあるのだろうか?

 なにか欲しいものを買いに行きたいのだろうか?


 妹のプライベートに予測を立て、俺は返事を待った。

 そして帰ってきた答えは、俺の予想を遥かに上回るものだった。



「――引っ越し、しようと思いまして」


「ひ、引っ越し!?」


「声が大きいですよ」


「あ、あぁ……すみません。ハハハ……」



 俺は思わず声が大きくなった。

 急に大声を出したからか、ミラー越しに運転手がこちらを伺っている。



「とりあえず、もうすぐ着きますので詳しい話はまた後に……」



 とりあえず車を降り、第三者のいない所で話を聞かなくて。

 俺は家から最寄りのコンビニに行先を指示し、そこで降ろしてもらうことにした。


 

 目的地に着くと、俺たちはとりあえずコンビニで飲み物と軽食を買った。

 そしてコンビニを出ると、短い帰り道を徒歩で歩き始める。



「……」


「……え? えっと、咲?」



 妹は歩きながらコンビニで買った唐揚げを取り出していた。

 俺はてっきり引っ越しについての理由やら時期を話してくれることを期待していただけに、無言のまま唐揚げを齧り始める妹の行動が理解できなかった。



「どうしました? 浩介さん」


「いや、どうしたじゃなくて……あと、もう呼び方いつも通りでいいぞ。いつまでも他人のフリしてると調子が狂う」


「あぁ、これはうっかり。で、どうしました?」


「理由! 理由だよ、理由!」


「……お腹が空いたから? 兄さんも食べますか?」



 そういって妹は食べかけの唐揚げをグイっと俺の口元に持ってくる。



「ちっがーう! 引っ越しだよ!!」


「冗談ですよ、兄さん」


「……やっぱ唐揚げ寄こせ」



 俺は揶揄われたことへのささやかな抗議として、妹の唐揚げを一個強奪した。

 無論、食べかけのではなく新品を。



「あっ、ひどい。じゃあこれ、一口もらいますね」



 そういうと俺の飲みかけのペットボトルを奪い取り、妹は躊躇なく口をつけた。



「お、おい! それ、飲みかけのやつ……」


「ゴク、ゴク――ふぅ。別にいいじゃないですか。兄妹なんだし」


「……」


「フフ。引っ越し、でしたか。学校の近くに一部屋借りようかと思いまして」


「はぁ? お前、ほとんど行ってないじゃんか。それに高校だって家からでも通える距離にあるんだし」


「兄さんが言ったじゃないですか。行けるときは行け、と」


「そりゃあ、そうだけど……」

 

「少しでも近い方が行く気になるかなと思ったんです」


「突然どうしたんだよ。いや、別に引っ越すのに反対ってわけじゃねーんだけどさ」


「……償い、ですかね。高校生活を送れなかった兄さんへの償い。だから、できるだけ行ってみようかと」



 償い、か。

 確かに妹のために高校を諦めたのは間違いない。

 当時、妹を怨んでなかったかと言われれば、多少否めない部分もあった。


 だけど、俺は今の生き方に不満も後悔もない。

 むしろ充実した日々を送っている。


 だからそんな風に妹が思っていたことに、俺は驚きと同時に申し訳なさが生まれた。

 きっと、どこか態度に出てしまっていたのかもしれない。

 妹はそれを見て、苦悩してきたのかもしれないのだ。


 そんなことで妹の心に傷を残すことが、俺は申し訳なかった。

 


「……そんなこと、気にすんなよ。理由はどうあれ、最終的に決めたのは俺だ」


「兄さん……」


「それに、マネージャーってのも案外やりがいがあって楽しいしな。だから、気にすんなよ」


「……そう、ですか。それは、よかった」


「まぁ、それでも正直嬉しいよ。咲が俺のことをそんなに考えてくれてたなんて」


「心外です。私はいつも兄さんのことを考えていますよ」


「ははっ、そいつは嬉しいね。ま、何はともあれ学校に行く気になってよかった。引っ越し、いつ頃がいい? その日は押さえとくよ」


「そうですね……早ければ早いほどいいので、来週の日曜日でどうでしょうか」


「来週か、分かった。調整しておくよ」



 来週なら番宣も一通り終わってドラマの収録だけに集中できる頃だから、比較的余裕がある。妹も準備があるだろうし、来週が最適な時期だろう。



「家具とかはどうすんだ? 家から何か持っていくの?」


「いえ、家具はリースで揃えようかと」


「へぇー、そっか。じゃあ大分荷物は少なくなりそうだな」


「はい。あ、でもお布団のような寝具はリースできないので持っていかなければなりませんが、どうしましょうか」


「……ん? 自分のを持っていけばいいじゃないか」


「私のでいいんですか?」


「え、そりゃあそうだろ」



 会話が噛み合わない。なんだろう、この違和感。



「わかりました。でも枕は流石に共有できないので、持ってきてくださいね」


「え、枕俺が持ってくの? てか共有って何?」


「当り前じゃないですか。布団は二人で寄り添えば共有できますが、枕は流石に無理です」


「……確認なんだけど、一人暮らしするんだよな? 引っ越して、一人で生活するんだよな?」


「……――信じられません。何を言っているんですか?」



 妹は心底呆れたかのような顔で俺を見た。


 俺だって、こんなふざけた質問をしたいわけじゃない。

 当然、妹は高校に通うために引っ越すのだ。断じて俺は関係ない。

 だが、先ほどから噛み合わない会話をそのままにするわけにもいかず、聞くまでも無い質問をして確認したかったのだ。



「は、ははっ、だよな。何言ってんだろ俺。でも咲が二人なんて言うから、てっきり俺も行くことになってるかと思ってさ」


「その通りですが?」


「え?」



 なんで?

 

 つまり妹と俺の二人暮らしってこと?


 なんで?




「え、なん「――は?」



 

 なんで、と問い詰める俺を妹はイラついたような語気で遮る。

 妹の目は瞳孔が開き、手は力が入ってしまったのか持っていた唐揚げの紙の容器を中身ごとグシャッと潰してしまった。


 長い付き合いだ。俺には妹がただ怒っているのではなく、とてつもなく怒っているというのが分かる。



「ど、どうしたんだよ。何で怒ってるんだ?」


「まさか、まさか兄さんは家に残るなんて考えてないですよね?」


「……」



 考えてた、と口にするほど鈍感ではない。

 目に見える虎の尾を、誰が好んで踏むだろうか。


 おそらく妹の中で、俺も一緒についていくというシナリオができていたのだ。

 そのシナリオが俺には見えていないため怒っているのだろうと推察はできる。

 

 しかし、だからといってそれほど怒ることなのだろうか。

 その理由が分からない。



「誓いましたよね? 離れないと。私と一生一緒にいると、誓いましたよね?」


「……訂正すると、一生とは言ってな「――は?」……なんでもない」


「当然、私が家を出るなら兄さんもついてくることになりますよね?」


「……はい。で、でも、俺も一緒に行く意味がないっていうか、その……」


「浩介さんは、一体何なんです? 私がもし病気になったら? 怪我をしたら? 私を支えるべきあなたが、そのとき私の傍にいないなんてありえる!?」


「……すんませんした」


「フー……フー……、分かってくれればいいんです。夜中に大声を出させないでください。近所迷惑になります」


「……ごめん」



 言われてみれば、確かにそうかも。

 俺はマネージャーなんだし、妹の近くでサポートをするのは別におかしいことでもない気がする。


 だが、俺はこの地、この家を離れることに対して酷く抵抗感があった。


 家というのは俺にとって住み慣れた場所というものだけではなく、俺が場所でもある。仕事場では、妹と兄妹であることを隠してマネージャーとして接しているため、なおさらだ。

 家やその近隣なら、両親や昔ながらのご近所さんがいて、俺たちを当然のように兄妹として見てくれる。



 なら、両親やご近所の目の届かない所へ行ってしまうとどうなるのだろう。

 誰も俺たちの関係を兄妹だと思わないかもしれない。そうなると、俺たちが兄妹だというのは、俺たちにしか分からないということになる。

 

 ……いや、それで十分じゃないか。

 俺と妹が、そうだと分かっていれば何も不自由はないはずだ。


 また、悪い癖だ。

 俺が妹を意識しすぎているから、そんな不安を抱いてしまうんだ。

 俺がしっかり、妹を妹として見れていれば、問題ないはずなんだ。

 


「さぁ、早く帰りましょう。浩介さん」


「……咲、呼び方」


「――あぁ。つい、うっかり」



 妹は、俺を兄として見てくれている。

 そのはずだ。

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