第8話 九 変 篇 第 八

(原文)一 孫氏曰く、凡そ用兵の法は、高陵には向かうこと勿かれ、背丘には逆うこと勿れ、絶地には留まること勿れ、佯北には従うこと勿かれ、鋭卒には攻むること勿かれ、餌兵には食らうこと勿かれ、帰師には遏むること勿かれ、囲師には必ず闕き、窮寇には迫ること勿かれ。これ用兵の法なり。

(訳)一 孫将軍は言う、凡そ戦争の原則としては、高地にいる敵軍には近づいてはならず、(※1)


(※1)行軍篇第九・二「凡そ軍は高きを好みて引くきを悪み」高地に展開する敵軍は、戦闘時には駆け降りる勢いを有し、又、攻撃も、上方から投石や矢を放ち、戟や矛等の兵器も下方に繰り出すので、より威力が大きくなる。これに対し、低地の自軍は傾斜を登りながら戦闘しなければならず、軍の勢いと兵士の体力を消耗する上、攻撃も相対的に威力が弱くなる。こうした地形の利を有する敵軍との戦闘は避けるべきである。


(訳)小高い丘や山を、取り分け右側の背にしている敵と交戦してはならず、(※2)


(※2)山岳や丘陵を背負った軍隊は、背後の防備の心配が無く、前方に重点的に兵力を配備しているので攻略が困難である。


(訳)戦争を長期化させない為に、自国から出征した地帯では停滞してはならず、(※3)


(※3)九地の内、散地(自国領内)以外の八地を総称して絶地と呼ぶ。(九地篇第十一 七 国を去り境を越えて師ある者は絶地なり)自国(散地)から出征した将軍は、軍隊を、軽地から重地へ素早く進攻させ、囲地、そして死地へと投じて、将兵たちに決死の覚悟を強いて敵軍との大会戦に臨ませ、速やかに勝利を奪い、可能な限り短期間で戦争を終結させなければならない。故に、必ず停滞を強いられる攻城戦は、戦術の中で最も下策とされるのである。謀攻篇第三・二「其の下は城を攻む。」或いは絶地を圯地と同義に読んで、険しい地形は素早く通過する意とも。


(訳)必ず罠や待ち伏せ等の計謀が張り巡らされているものだから、敵の偽りの退却を追撃してはならず、(※4)


(※4)敵軍が退却すると見えても、退却する先に、狭隘な渓谷が有ればそこに自軍を密集させておいて、弓矢や弩での狙撃したり、急に開けた土地が有れば、そこに展開した大部隊での待ち伏せや、身を隠せる森林が有れば伏兵による奇襲等の、罠に誘い込むための偽装である可能性を疑わなければならない。だから、その真偽を見抜く為にも、郷導(現地の案内役)を用いて戦場の地形は熟知せねばならない。又、桟道や橋を通って追撃すれば、火隧によって、部隊を転落させられたり、分断されたり、退路を断たれたりする恐れがある。行軍篇第九・六「辞強くして進駆する者は、退くなり。」とある通り、本当に退却する敵は、その気配を隠し、あたかも進撃すると見せかけて、こちらに防備させ、整然と退却できる体制を整える為に、時間を稼ごうとするものである。


(訳)気を治める将軍は、気力が充実した敵兵を攻撃してはならず、(※5)


(※5)軍争篇第七・四「其の鋭気を避けて其の惰気を撃つ。」鋭卒、気力が充実した敵兵とは戦闘せず、その気力が衰えた瞬間に攻撃するのが、気を治める将軍の常套戦術である。


(訳)敵が偽りの利益として用意した、如何にも容易に討ち取れそうな部隊を相手にしてはならず、(※6)


(※6)餌兵 計篇第一・三「利にして之を誘い」戦功を欲しがる、敵将等の指揮官を誘い出すための囮の部隊である。


(訳)帰国しようとしている敵軍は、望郷の念に駆られて思いがけない力を発揮し、自軍に大きな損害を与える恐れがあるから、足止めしてはならず、(※7)


(※7)帰師 母国へ帰ろうとする軍隊を足止めすると、兵士たちは、それを突破しなければ祖国に帰れないから、強い望郷の念に駆られて力戦奮闘する。


(訳)敵軍を包囲した時は、敵兵が決死の覚悟で戦闘に臨んで来ることが無い様、必ず逃げ道を残しておき、(※8)


(※8)囲師 敵軍を完全に包囲すると、「窮寇」になるので、わざと逃げ道を残しておく。行き場を失い、追い詰められた軍隊は「窮鼠猫を噛む」の例えの通り、死に物狂いになり予想以上の威力を発揮するから、不用意に接近してはならない。

窮寇 行軍篇第九・七「馬に粟して肉食し、軍に懸甄無くして、其の舎に反らざる者は窮寇なり」追い詰められて死に物狂いになった敵は、九地篇第十一・四「兵士は甚だしく陥れば則ち懼れず」「已むをえざれば則ち戦う」との通り、兵士一人一人が、決死の覚悟を決め、かの名高い勇者、専諸や曹劌の如くに獅子奮迅の働きを見せる。だから、この様な状態の敵はそれ以上追い詰めず、敢えて逃げ道を残しておき(囲師には必ず闕き)、兵士たちに逃亡の望みを抱かせて戦意を喪失させ、そこに殺到する様にしむけ、自軍は予め敵軍の背後に戦力を集中させておいて、隊列を乱しながら退却する敵軍を、最後尾から順次攻撃して殲滅していく。


(訳)以上が(九つの変則的な)戦術の原則である。



(原文)二 故に圯地には舎ること無く、衢地には交を合わせ、絶地には留まること無く、囲地なれば則ち謀り、死地なれば則ち戦う。途に由らざる所あり。軍に撃たざる所あり。城に攻めざる所あり。地に争わざる所あり。君命に受けざる所あり。故に将の九変に通ずる者は用兵を知る。将にして九変の利に通ぜざる者は、地形を知ると雖も、地の利を得ること能わず。兵を治めて九変の術を知らざれば、五利を知ると雖も、人の用を得ること能わず。

(訳)二 そこで、足場の悪い地帯には留まってはならず。(※1)


(※1)九地篇第十一・一「圯地には則ち行き」同・七「圯地には吾れ将に其の途を進めんとす。」


(訳)近隣諸国に接する地域では、その協力関係を取り付けて、同盟国の離反や、敵の同盟国の妨害に遭わない様に外交関係を保ち。(※2)


(※2)九地篇第十一・一「衢地には則ち交を合わせ」九地篇・七「衢地には吾れ将に其の結びを固くせんとす」


(訳)戦争を長期化させない為に、敵国内では迅速に進軍して停滞してはならず。(※3)


(※3)九地篇第十一・七「国を去り境を越えて師ある者は絶地なり。」九地の内、散地以外の八地を総称して絶地と呼ぶ。


(訳)行軍中に敵軍と険しい地形とに包囲された時は、慌てて来た道から安易に引き返そうとすると、敵の追撃によって最後尾の部隊から逐次討ち取られるので、後方を重点防備しながら、且つ整然と退却できるように計謀を巡らせ。(※4)


(※4)九地篇第十一・一「囲師には則ち謀り。」

    同・七「囲地には吾れ将に其の闕を塞がんとす。」この場合は、敵が用意した罠である退却路を敢えて封鎖し、次文の死地に敢えて自軍を陥らせる。


(訳)完全に包囲され、それも叶わない絶対絶命の状況(死地)に陥った時は、囲師・窮寇となった兵士たちに、此処で奮戦しなければとても生き残れない状況であることを素早く認識させ、決死の覚悟を決めさせて、その気力で自軍の勢を構成し、すぐさま戦闘に突入して血路を見出すべきである。(※5)


(※5)九地篇第十一・一「死地には則ち戦う。」同・七「死地には吾れ将にこれに示すに活きざるを以てせんとす。」

 

(訳)道はどこを通っても良さそうであっても、通過してはならない道がある。敵軍はどれを攻撃しても良さそうであっても、攻撃してはならない部隊がある。城には、一見攻めても良いように見えても、実は攻めてはならないものがある。領土は何処を争奪しても良さそうであっても、争奪すべきではない領土がある。


以上の九変に反する場合は、君主の命令には、必ず従わなくてはならない様であっても、従ってはならないのである。(※6)(※7)


(※6)前半の五つを五利、後半の「君命に受けざる所あり」以外を四変として、これらを総称して九変と言う。「君命に受けざる所あり」だけは地形に即した戦術の変化では無い。従って、九変の原則に反するならば、例え君主の命令であろうと従うべきではないとの意味で、九変の重要性を総括する句として読める。


(※7)地形篇第十・三「故に戦道必ず勝たば、主は戦う無かれと曰うとも必ず戦いで可なり。戦道勝たずんば、主は必ず戦えと曰うとも戦う無くして可なり。」将軍は戦術の利益に反するならば、例え刑罰に触れようとも、君主の下命と言えども断固拒否すべきである。



(原文)三 故に将九変の利に通ずる者は、用兵を知る。将九変の利に通ぜざる者は、地形を知ると雖も、地の利を得ること能わず。兵を治めて九変の術を知らざる者は、五利を知ると雖も、人の用を得ること能わず。 


(訳)三 だから、九変の地形の変化に即した戦術に精通した将軍こそは、軍の的確な運用法を心得ているのである。将軍でありながら、九変の術のもたらす利益を理解していなければ、例え地形を把握していても、そこから地の利を得ることはができない。(※1)


(※1)九地篇第十一・八「山林・険阻・沮沢の形を知らざる者は、軍を行ること能わず。郷導を用いざる者は、地の利を得ること能わず。」地形に即した戦術から利益を引き出す為には、将軍は最低限戦場の地形を把握し、その上で九変の術を駆使しなければならない。「地形を知る」とは郷導(現地の地形に詳しい案内役、用間篇第十三・二の郷間が主にこの役目を果たしたであろう。)を用いて、地図には無い、詳細な地形までをも把握することである。


(訳)軍隊を率いていながら、九変の術を全て心得ていなければ、圯地・衢地・絶地・囲地・死地の五種類の地形に即した戦術の利益にだけ精通していても、(九変の術に基づいて)攻防すべき地勢を的確に判別できないので、兵士たちに十分な働きをさせることはできない。



(原文)四 是の故に、智者の慮は必ず利害に雑う。利に雑りて乃ち務めは信なるべきなり。害に雑りて乃ち患いは解くべきなり。

(訳)四 だから、智謀に優れた将軍は、その戦略に於いて、利益と害悪の両方の側面を合わせて熟慮する。利益の側面に潜んだ、害悪を無視すること無く、軽率な行動を慎めば、任務は必ず全うできる。害悪の側面だけを恐れて、そこに潜む利益を見落とさなければ、憂慮すべき要素や事態も回避できるのである。(※2)


(※2)軍争篇第七・一「患を以て利となす」自軍の憂患の種を、自軍の利益に転換する迂直の計がこの例である。



(原文)五 この故に諸侯を屈する者は害を以てし、諸侯を役する者は業を以てし、諸侯を走らす者は利を以てする。

五 そこで、諸外国が、自国に不利益な事業に乗り出した場合、それを思いとどまらせる為には、その事業に潜む害悪を強調して見せつけ、諸外国を財政的に疲弊させたいならば、弊害を隠して利益だけを強調した事業を見せつけて、それに着手させ。諸外国を奔走させる為には、あたかも何の損害も伴わないかの様な、偽りの利益を見せつけて喰いつかせるのである。(※1)(※2)


(※1)ここで、敵に対して利害を誇示することによって、その行動をコントロールするその具体例が示されている。この節の場合は、直接的な軍事戦術ではないが、これらの工作によって、敵の国力を疲弊させ、引いては軍事力を削減することができる。つまり戦争の前段階、平時にも常に実施されるべき戦術である。この戦術が平時から効果を発揮していれば、それだけで無用な戦争は避けられるのである。


(※2)謀攻篇・二「上兵は謀を伐つ」この様にして、開戦前の計謀の段階で、諸外国の脅威、無用な戦争の芽は摘み取っておくのが最上の戦術である。



(原文)六 故に用兵の法は、其の来たらざるを恃むこと無く、吾れの以て待つ有ることを恃むなり。其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻むべからざる所あるを恃むなり。

(訳)六 そこで、戦争の原則としては、敵軍がやって来ないことを当てにするのではなく、自軍に、敵軍が何処からどの様にやって来ても、対応できる体制があるのを頼みとするのである。

 敵軍が攻撃してこないことを当てにするのではなく、自軍が、敵軍がどうしても攻撃できない体制であることを頼みとするのである。(※1)


(※1)形篇第四・一「先ず勝つ可からずを為して、以て敵の勝つ可きを待つ。」戦闘に於いては必ず、有利な地形に万全な陣固めをし、防御の体制を構築するのが優先である。こうした体制的・心理的優位性があってこそ、自軍は敵の行動に動揺することなく、敵に利害を見せつけては自在にその行動を操作できるのである。



(原文)七 故に将に五危あり。必死は殺され、必生は虜にされ、忿速は侮られ、廉潔は辱められ、愛民は煩わさる。凡そ此の五つの者は将の過ちなり、用兵の災なり、軍を覆し将を殺すは、必ず五危を以てす。察せざるべからざるなり。

(訳)七 だから、将軍にっとっては五つの大きな危険がある。将軍に必死の覚悟があっても、冷静に引き際を察することができなければ、そのまま戦死してしまい、将軍が、生き残ることしか考えられず、決戦に臨む勇気に欠けると捕虜にされてしまい、将軍が、勇敢であっても短気であると、敵に馬鹿にされると頭に血が上って冷静な判断力を失い敵の思惑に嵌り、清廉なだけの将軍は、敵に侮辱されると、その僅かな恥辱にも耐え切れず判断を誤り、将軍が兵士を労わり過ぎると、その世話だけで疲弊してしまう。(※1)


(※1)形篇第一・一 五計の第四 将は智・信・仁・勇・厳をバランス良く兼ね備え、五危を回避しなければならない。 


(訳)凡そ、この五つの危険は、将軍が決して犯してはならない過ちであり、軍を運用する上での災いとなる。将軍を戦死させ、軍隊を転覆させるのは、必ずこの五つの危険のどれかが原因であるから、将軍は、絶えず、厳重に自戒しなければならない。


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