7 ~蛇の魔女と毒虫の女王~(6)
樹上では。女王に対するオーリィとケイミーの格闘が、いよいよ最後の時を迎えようとしていた。「舌」を手繰るオーリィに励ましの言葉をかけながら、ケイミーは息の合ったタイミングで巣穴に水を注いでいく。いかに抵抗しようとしても、新たに水が入ってくれば、女王はそこから登ってくる他はない。そしてベン達のジョウロのリレーで水を運ぶスピードが上がると、オーリィが引き上げる手の回転はスムーズになり、勢いを増した。彼女の両眼に、獲物の姿を求めて妖気が灯る。
(もうすぐ見える、手が届く。そこまで引きずり出せれば……あとは!!)
一方。地上で一人、鬼気迫る表情と勢いでロープを操り水を汲むよだか婆ァ。だがアグネスには大見得を切ったものの、流石にそれは老婆一人の手には余る仕事であった。樹上からの矢継ぎ早の水の要請に次第に追いつかなくなって来る。息を切らし、ロープを必死に手繰りながら。
「シモーヌ!いるなら来ておくれ!!」
焦りから思わずその言葉が口から出た、まさにその時。
「私ならこちらに!」
そこには、空のジョウロを手に取り、水桶に浸けるシモーヌの姿があった。一人あの木陰で耳を澄ましていた彼女は、状況の急変を聞きつけて既に大樹の下に駆けつけていた。一心不乱に動いていた婆ァには彼女の接近が見えていなかったのだ。
「婆ァ様はロープをどうか、水汲みは私が!私にもお手伝いをさせて下さい!」
「シモーヌ!」
よだか婆ァの背筋に走る、歓喜の戦慄。かつて、どれだけこうして、愛弟子と共に大樹に奉仕したかったか。忘れていた希望が婆ァの胸に蘇る。
シモーヌもまた。自分が伝承の継承を拒絶したという、婆ァに対する許しがたい忘恩の日々の後悔を、わずかでも晴らさんと、晴らせると。
今、師弟は心一つ、ジョウロを手に取り、ロープを手繰る。
(見えた……!)
暗い巣穴の奥に。オーリィの蛇の右眼は水面の閃きを捉えた。
「うぐっ」、今はもの言えぬオーリィの喉から呻き声が漏れると、ケイミーは即座にその意味を察した。
「ベンさん!後少し!お水を、お水をもっと!!」
オーリィの右眼は一種の水中カメラのような力を持っている。水の中なら光が少なくても奥の奥まで見通せるのだ。過去何度かオーリィの蛙漁に付き合ったことのあるケイミーはそれを知っていた。巣穴を水で満たせば、オーリィにならきっと女王の姿が見える。
「お水を!口いっぱいまで!早く!お願い!!」
「今行く!!みんな、ここが勝負どころだ、上がれ!!」
ベンの号令でゾルグもアグネスもリレーを止め、自分の手にしたジョウロ片手にオーリィの元に。ベンは樹下に叫ぶ。
「ロープ2本で同時に上げてくれ!!」
シモーヌが応援に来たことに彼は気づいていた。空のジョウロを樹下に下げていた方のロープからも上げれば、ジョウロ6つを同時に樹上に運べる。それは樹下に師弟二人揃った今なら可能だ。合計ジョウロ9つ分の水、この一回の給水で一気に勝負を決める、それがベンの算段。彼はケイミーの手から空になったジョウロを奪い、自ら巣穴に水を灌ぐ。だが見ると、溢れる水も多い。女王が巣穴の出口間近に引き上げられているからだ。
「ケイミー、君はいざという時に備えろ!オーリィと息を合わせるんだ!水は俺たちが入れる!頼むぞオーリィ!」
ベンの言葉に母と娘は顔を見合わせた。オーリィは、舌を手繰る右手の指をひくひくと小刻みに動かして見せる、ケイミーの目をじっと見つめながら。
「……わかったよオーリィ!こうだね!!」
ケイミーの手が、オーリィに代わって彼女の舌を握りしめた。
そうすれば。オーリィの右手が自由になる。
刹那!
オーリィの蛇の右手が、巣穴に吸い込まれる。その動きは彼女以外の誰にも捉えられない。そしてオーリィの右手の爪は女王の頭部の付け根にガッキリと食い込む。
「オーリィィィィィィィィィィ!!」
ケイミーは声もろとも、血のにじむ娘オーリィの舌を渾身の力で引いた。そして同時にオーリィの右手は、またしても見えない速度で後方に引き抜かれた。
大きさも、重さも。猫一匹にも相当するであろう、芋虫。
樹上の空中に。今、昆虫というにはあまりにも巨大なその生物の姿が、オーリィの手によってつるし上げられていた。
「怪物だな……見てみろ……」
ベンの声は震えていた。オーリィによって狩られた女王は、大樹の根元に掘られた浅い穴の中に投げ出されている。ぶよぶよとした体を未だにひくつかせながらも、巣穴での生活にすっかり適応しきっているのだろう、地面を歩行することは出来ないらしく、ただ無意味な蠕動を繰り返すばかり。そして驚くべきことに。
「この虫が、女王を産んでいる……直に……卵胎生の昆虫、他に例が無いわけでは無いが……」
いまこの場においてもなお。巨大な女王の膨らんだ尾部の先端から、カミキリムシが次々と這い出していた。次々に、しかもすべてが女王。
「つまりこいつは女王の女王、ってわけかよ……」不快な渋面でつぶやくゾルグ。
「……ぞっとするね、おお嫌だ!」自分の肩を両手で抱いて顔をそむけるアグネス。
よだか婆ァとシモーヌ、共に無言。だがそのまなざしは違う色だった。ようやく大樹の仇敵を目の当たりにした婆ァの両目は、憎々し気に燃えている。一方、シモーヌはどこか放心しているようであった。
オーリィとケイミーは、やや離れた水桶の荷車の傍にいた。傷ついたオーリィの舌を、水桶に残った水の中で泳がせて洗い清めていたのである。
「どう、大丈夫?痛くない?」
その問いにオーリィは、桶からするすると舌を体内に収めて答える。
「少しひりひりしますけれど、大丈夫ですわ」
そして二人そろって皆の元に戻りながら。一瞬、二人はシモーヌと視線を交わす。
ぎこちない沈黙、シモーヌは軽く会釈をするように顔を伏せると、女王のいる穴から数歩下がって、母娘に場所を譲った。ケイミーは口に手を当てて軽いうめき声、あの虫の不快な臭いを思い出して吐き気を覚えたのだろう。
そしてオーリィは言う。
「婆ァ様。大樹の仇でございます。とどめを刺されますか?」
婆ァはさらに大きくギロリと目を剥いて、のたうつ女王をみつめていたが。一息ほっと息を吐いて、今度はオーリィの顔をきっと見つめて。
「オーリィ、お前にまかせる。お前の獲物、お前の手柄だ。サーラ様に、代々の先の園長様方に、この大樹の前で見て頂きな。みんなきっとお喜びになる」
わかりました、と。オーリィは女王の穴の際まで歩み寄り、蛇の鱗におおわれた右足のサンダルを脱ぐと。
「女王。あなたは大樹の敵、わたしの愛する婆ァ様の敵。わたしはこれからあなたを殺す。それから、あなたの子どもたちも根絶やしにする。一匹残らず。きっとよ。
あなたから見たら、わたしは悪魔ね。血も涙も無い魔女。ええ、それでいいわ。だってわたしにはあなたを殺すのも、あなたの子どもたちを殺すのも、何のためらいも無いから。わたしを憎みなさい、恨むといい。でも。
たとえ敵同士でも。認め合うことは出来る。あなたは。
……偉大な母ね。それだけは認めてあげる。もしあなたに、わたしのようにこれから、別の命が与えられるなら。今度はお互い出会わないようにしましょう。わたしのような魔女のいないところで、子供たちと暮らしなさい。わかったわね?
……さぁ覚悟なさい……!」
オーリィの言葉にも顔色にも、一切動揺も躊躇も見られない。終始冷たく、静かであった。その厳粛さを乱さぬまま、オーリィは右足で女王の体を踏みしだく。ブチブチと皮膚が裂け、筋肉と内臓の潰れる音。体内の卵一つ残さぬよう、生まれた子供の女王たちもろともに、形一つ残さぬよう、彼女は念入りに穴を踏みにじり続けた。そしてようやくそれが終わると、オーリィは穴に土をかけて埋める。
オーリィの、あまりにも超然とした、その処刑。見守る一同も言葉を失い立ちすくむ。みな意識をどこかに飛ばしてしまったかのよう。だがその時。
シモーヌが自分の服の片袖を引き裂いた。その音で皆が我に返る。するとそのままシモーヌはジョウロを手に取り、桶から水を汲むと、オーリィに歩み寄って。
オーリィの前に跪き、虫の体液と泥に汚れた彼女の右足に手を添えた。
ピクリと眉を一つ震わせ、驚き警戒するオーリィにシモーヌは言う。
「これで清めます。足を上げて……」
少し退きかけたオーリィの足を、シモーヌは離さない。ジョウロから水をそそぎ、足の裏を手で撫でて清め、引き裂いて取った片袖でオーリィの足をぬぐう。
「どなたか。彼女のサンダルを」
その言葉にケイミーが慌ててサンダルの片足を持って駆け寄る。シモーヌはケイミーからそれを受け取り、そのままオーリィに履かせようとするのだ。まるで貴人に仕えるような手つきと顔で。
あのシモーヌが。なぜ自分に?
オーリィは急にシモーヌの手からそのサンダルをもぎ取った。そして後ろに一歩二歩、跳ね飛ぶように退く。女王を処刑した時とは別人のような、困惑と怯えの表情。狼狽した顔で自らそそくさと履物を身に着けた。
シモーヌはそれを見守ると。物寂しくうつむきながら皆に会釈する。
「では、婆ァ様、みなさん、わたしはこれで……」
一人去っていくシモーヌの背中を見ながら。オーリィの肩は震えていた。
(あの顔、あれは、わたしの顔。叔父に捨てられて、館の玄関の鏡で見てしまったあの時のわたしの顔……ああ、なぜあの方が?わたしに似ているというの?)
女王を滅ぼして後、約半月ほどの間。残りのカミキリムシの駆除は順調に進んだ。数体の小さな(本来はそれが普通の大きさなのだが)女王が発見された後、それで打ち止めになったのだろう、一日で捕れる虫の数はみるみる減っていった。
そしてついに、ある日の事。
「大変!大変だよみんな、婆ァ様!この枝に……葉っぱが出てる!!」
ケイミーの大声が響き渡った。「樹が、大樹が生き返った!すごいよ!!」
その日から大樹はその枝に次々と葉を茂らせ、やがて数輪の白い花をつけた。
そう、これからまさに。この村のりんごは、実りの季節を迎える頃であった。(続)
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