古狸
竜胆
古狸
時は大正、近畿地方の山中に小さな村があった。連なる山と奥深い緑に囲まれた畑と山ばかりのその村に齢十三を迎えたばかりの娘がいた。
一家は兄弟姉妹が多く、娘の上の兄や姉は既に職についたか結婚をして家を出ており娘の弟妹はまだ幼い。食い扶持が多く人手の足りない家の手伝いをするのは娘の仕事だった。
朝は陽の昇るのと同時に天秤棒を担いで山に入る。家から山道を登り中腹を流れる小川から水を汲んで家にある大きな瓶に水を移す。
瓶がいっぱいになるには一度では足りず三度四度と山道を往復しなければならない。
山に入り川で水を汲み瓶に水を移す、一連の作業には一時間以上かかる。娘が瓶に水を一杯にする頃には昇りかけの太陽は頭上にあることも屡々あった。
「狸には気をつけなさい」それは唯一の娘の母の口癖だった。普段は小言ばかりの母がその時だけは娘の母として心痛いくばかりという態度を示す。
しかし娘は「はい」と生返事を返すだけで母の杞憂を取り合うことはなかった。
(狸に化かされるなんてそんな馬鹿馬鹿しいことがあるわけがない)
娘がそう思うのも無理はない。
(もう何年も山に入ってるのに化かされたことなど一度もない、夢物語の狸より勉強がしたいのに)
娘は常からそう心で毒づいていた。
毎日の水汲みが終われば家族全員の汚れ物を持ってまた山へ入る。川に着くと持参した洗濯板を手に山と重なる汚れ物を洗わなければならない。
時折手を休め岩の上で手足を伸ばして休憩する、川の水が岩に当たり流れる細い音が鳥の囀りと虫の声に混ざり深々と濃い緑を抜けて真っ青な空に溶けるような感覚に身を任せて目を閉じる、そんな時間だけが娘にある休息だった。
積み上がった洗濯を終えれば今度は干さなければならない。父と母は幼い妹や弟を連れて畑に出ている。祖母は内職をしながら畑に行けなかった子らのお守りをしていた。
長く洗濯に時間をかけては乾く間もなくなる、娘は程よく休憩にケリをつけてまた冷えた水に入った。
夏はいい、冬が辛いと娘は言う。春も辛い、川の水は冷たくあかぎれが無くなることもない。
そんな冬を前に紅葉色付いた山へその朝も娘は天秤棒を担いで向かった。
夏から随分と日が昇るのが遅くなった山道はまだ薄暗く鬱蒼とした木々の重さに息が詰まるようで、娘は足早に山道を歩いた。
程なくして川の水音が聞こえて来ると娘はそそくさと担いできた桶に水を入れて天秤棒を担ぐ。
担いだ水が零れないように帰りは慎重に足を運ぶ。
山道を降るうちに娘は首を傾げた。そろそろ麓が見えるはずなのだけれどと。一本道で迷うことは無いはずが行けども行けども麓に辿り着かない。
それどころか何度も同じ場所を通っている気がしてくる。そのうちに娘も焦りが見えて来た。
周囲の木々の隙間は暗く昼間とは思えないほど底なしに黒い。娘の歩く足音が山にこだまして黒い底なしの闇から響いてついてくる。娘は足早に一本の山道をひた歩く。
出来るなら肩に担いだ天秤棒を投げ出して走り出したい気持ちに駆られながらも、水を持って降りなければならない使命感と放り出せばまた取りに戻らなければならない、その億劫さに結局走ることは適わず慎重に然し足早に山道を歩いた。
チラチラと夕陽が山間に見えて景色に橙がかかる頃になると担いだ天秤棒が肩に食い込むような痛みと矢張りおかしいという自身の現状に耐えかねて娘が小走りなる、と走り出した瞬間に娘の足をフワリとしたものが撫でチクチクとした小さな痛みを感じ驚いた娘が体勢を崩してドスンと尻もちをついた。
肩から天秤棒が落ち桶の水が乾いた山道に吸い込まれる。
娘は慌てて桶を起こして僅かながらに残った桶の水を見てため息を漏らしながらとうとう堪えきれずに涙がハラと頬を伝った。
戻るわけにも行かず、日が暮れる前に一度家に帰ろう。そう思い直し乱暴に涙を腕で拭うと天秤棒を再び肩に担いで立ち上がった。
顔を上げた娘の目の前、山道の真ん中に黒い塊が見えた。
「あれは狸か」
娘がそう言葉を発すると狸は娘を一瞥し山道を逸れて木々の茂みに姿を消した。
程なくして山道から麓に辿り着いた娘が家に駆け込んで今あった出来事を家族に話すと母は青い顔をして祖母を見た。祖母は落ち着き払って、
「狸に化かされたんよ」
娘にそう言った、不思議なことにあれだけ歩いて夕暮れの中を帰宅した筈が、家に着くとまだ朝食の準備の最中で娘は狐に摘まれたような心持ちで祖母と母を見比べた。
「今日はもう山へ入りなさんな」
祖母の言葉に狸など全く信じていない父はかなり立腹していたが、祖父母と母の強固な態度に渋々その日の水汲みに朝食を取り終えてすぐ出掛けて行った。
「おばあちゃんは狸に化かされたことがあるんや」
老眼鏡を外しながら老婆が語りかける。目の前に座る孫娘は山もなければ水道のひかれた車とコンクリートのある街で生まれ育った。
狸など絵本か図鑑でしか見た事のない孫娘は老婆の話を興味深げに聞いている。
孫娘の父親が隣の部屋から「狸が化かしたりするかいな」と言っているが孫娘は信じているのかそれとも絵本を読んでいるのと変わらないのかわからないが、楽しそうに老婆の話を聞いている。
あの日以前もあの日以降も、あの山道は変わらず一本道で迷うことも無かった。
ただ一度だけ、娘の婚礼前日最後に山へ入った日。いつものように川べりの岩に腰掛け目を閉じていた娘がふと気付くと傍に黄色い花が一輪だけ落ちていた。
確証も何も無いが娘はそれを手にして「狸のはな向けかな」と胸に思った。
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