9
アギンは再び音楽仲間とレコーディング合宿へ行くと言って家を空けた。アギンの音楽は聴いているが、アギンはギター担当でボーカルは別の人なので、正直つまらないと感じてしまう。ギターの良し悪しはわたしにはわからないし。
部屋の掃除をしようと思ったけれどやる気がわかず、ただ畳の上に寝そべっていた。無音。少し灰色がかった白の天井を見つめる。
自分のこの両目で見える以外のものが見えるとはどんな感じなのだろう。認識拡張機能とはきっとそういうことのはずだ。「視界がうるさい」みたいなことにならないのだろうか。それとも、それは視界とは関係なくて、いろいろなことを同時に思い出している感じなのだろうか。頭が疲れそうな気がする。
気がつくとそんなことを考えていた。考えざるを得ないと言ってもいい。きっと自分とは全然違う世界が見えている人の話を聞いたら、気になるしかないではないか。
自分とは違う世界が見えているという意味では、自分以外のすべての人がそうだとも言える。でも、わたしにはそれが重要なこととは思えない。でも、フジカゲの異質さは特別だ。頭から離れず、考えずにはいられない。
わたしは目を覚ました。眠ってしまっていたらしい。もう日が落ちてしまっていた。
夢の中でわたしは、子供に戻っていた。わたしの家の近所には、手つかずの藪があった。よくそこに一人で入り込んで遊んだ。その記憶がよみがえった夢だ。その時、突然世界が自分から遠のいていくような感覚がして、自分が自分でなくなるような気がした。自分が人間の女の子供だと信じられなくなるような。そうだとしたら本当の自分はなんなのか、それはわからない。しかし、その感覚からはすぐに目覚めさせられた。藪の中に蛇を見つけた時、現実に引き戻されたのだ。そういう、実際にあったことがそのままよみがえった夢。
わたしは少し心細くなって、アギンに電話をかけてみることにした。今の時間はもしかしたら、ちょうど夕食休憩をしているかもしれない。
しばらく呼び出し音が鳴ったあと、「サヤ」とアギンの声が聞こえた。
「アギン、お疲れさま。順調に行ってる?」
「うん。楽しくやってるよ」
「どうしたの? 息切れてるね」
明らかに息遣いが荒い。
「アンプ動かしてた」
「……それでそんなに息切れる?」
「そうだよ。俺、もうおじさんになりかけてるからさ」
「そんなことないでしょ。これからご飯食べるの?」
「うん。サヤも?」
「うん。みんなと一緒に食べるんでしょ? なに食べるの?」
「まだ決めてないなあ。出前にするかも」
なんだか怪しい。仲間と集まっていて、もうこんな時間なのに、まだどこでなにを食べるかも決めていないなんて。
「ねえ、お友達に代わってくれない?」
「え、なんで?」
「ちょっとご挨拶したいの。お話したことないから」
「いや、まだ作業中だからなあ」
「ちょっとだけならいいでしょ? 時間取らせないから」
「もしかして疑ってる?」
「うん」
「やだなあ。俺が浮気するはずないじゃん」
「じゃあ代わってよ」
「困ったなあ。やっぱりサヤにはかなわないや。実は今一人なんだ」
アギンは悪びれずに言う。でもそれで安心はできない。
「誰もいないの?」
「うん。一人でレコーディング合宿するってなんか言いづらくて、仲間と一緒に行くって嘘ついちゃったんだ。ごめんね」
「なんで息切れてたの?」
「だからそれは、一人で機材とか全部準備して――」
「今そんなことしてるなんておかしいよ。もうそっちについてだいぶ経ってるでしょ。それに、軽く動いただけでアギンが息切らすなんてありえないし」
「そう断言できるかな?」
「できる。わたし、浮気しても怒らないよ。でも、嘘ついたら怒る」
「浮気してないよ」
「じゃあなにしてるの?」
「死体を埋めてた」
「え?」
「死体を埋めてたんだよ」
「ふざけないでよ。真面目に答えて」
「本当だよ。二十歳くらいの女の子だよ。ピンク色の長袖Tシャツにデニムのショートパンツを穿いてる」
わたしの視界は狭まり、言葉は出なかった。苦しくなって、呼吸がとまっていたことに気づいた。
「……嘘だよね?」
「そう、嘘だよ」
「なんでそんな嘘つくの? ねえなんで?」
「ただの冗談だよ。怒った?」
「まあね」
「ごめんごめん。お土産買って帰るから許して」
アギンは、「また話そうね」と言って通話を切った。
腹が立ったので、背中を見てしまおうかと思った。アギンの言いつけを生真面目に守っているなんて馬鹿馬鹿しいじゃないか。
でも、わたしには演技力がない。嘘をつくのが下手。もし見てしまったら、完成した時に、初めて見たようなリアクションができないかもしれない。いや、もう見たと正直に言えばいいことだ。でも、そうすればアギンはどう思うだろう。わたしたちの絆をより一層強くするためにしたことなのに、そんなつまらない裏切りでケチをつけてしまっていいのか。
こんなことを考えてしまうということは、やっぱりわたしはアギンが大好きなんだな、と思った。
背中を見るのはやめることにした。でも、一人でいると寂しくて不安が募ってきて、なにもしたくないのに、いても立ってもいられない気持ちになってきた。
わたしはジビに電話をかけた。
「サヤさん、こんばんは」
明るい声が聞こえてきてほっとした。
「すみません、突然お電話して。お仕事中ですか?」
「いえ、今日はもう終わって、後片付けも終わったところなので大丈夫ですよ。どうされましたか?」
「あの、潜在意識分析だけをやっていただくことはできますか? タトゥーは彫らずに、デザインだけつくってもらうっていうのは」
「あくまでもこちらはタトゥースタジオなので、基本的にはお断りしていますが、サヤさんはいいお客様なので、特別に無料でサービスさせていただいてもいいですよ」
「本当ですか? じゃあ、お願いします」
「ええ、もちろん。えっと、少々お待ちください。えっと、もしよろしければ、次回のご予約時間を三十分早めていただければ対応できますが」
「じゃあ、それでお願いします」
「なにか興味を持っていただけたんですか?」
「ええ。なんだか分析してもらいたくなって」
予約をし直して通話を切ると、なんだか安堵した。突然の思いつきだったが、そうしなければならない気になってきた。
もしわたしも分析不能だったらどうしよう。それはそれでいいのかもしれない。
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