第九話 禁句
喜悦に富んだ人生などそうはない。
或いは空をも飛べずに泥を味わい、やがて己の不幸を感じなくなるまでが普遍であるかも知れなかった。
こと明津清太は、空を飛ぶトクベツ達に地べたを這いずる自分の足では追いつけないことに未だ慣れない不幸な青年である。
今はダメでも、いつかは。そんな妄想ばかりで限界を理解できない子供のまま大きくなってしまった浅薄だ。
彼の人生はまるで皮膜一枚のように薄く、脆い。泣きべその追いかけっこ。そんな一言で語れてしまうほどには、清太の命に価値はなかった。
「美袋は、どうしてこんな夜に僕を呼んだんだ?」
しかし、そんな薄い彼も、中に血肉の充実した人である。そうであるからには、関わりも恋愛だって起きても不思議ではなかった。
なるだけ急ぎ足で向かった近場。しかし、彼の足ではひょっとして遅かったのか。疲れ知らずの吐息は、果たして空へと消えた。
彼が着いたのは表札に吉田とある家の前。想い通じているはずの恋人の実家に呼ばれて、しかし青年の表情に喜色はない。
むしろ清太は、彼女から夜中メッセージアプリにて、家に来て、との短い文句を貰ってからこの方不信を覚えている。
「おかしいよな、色々と」
そも、こんな文字の海でふざけない彼女ではないはずである。何時も、溢れんばかりの感情をわざとらしくも押しつけてくる少女が美袋であったのに。
そして、美袋が吉田の家族を嫌っているのは、彼氏をやっているからこそ清太も分かること。潔癖だと聞く彼女の親が居るだろう時間に、恋人を呼ぶなんて果たして普段の彼女がするだろうか。
「なんか、あったんだろうな……」
白く、白く、屋根ばかりが少しばかり昏い家。ツートンしかカラーのない家の中、置かれた少女の変心は、彼にとって間違いないことと思えた。
ならば、寄り添うのが彼氏のやるべきことである。少女に汚らしく思われようが、平常に戻るまで安心のためにも心触れ合うのがきっと人間の当たり前。
そのためにもまずは、話を聞こう。そう覚悟して、インターホンを鳴らすためにと玄関に一歩足を踏み入れ、そして。
「うぉっ、と」
つい、滑りに足を取られかける。
当然のように、若さと運動神経の良さがある清太は上手く持ちこたえて二足を滑る地面の上に安堵できた。
筋力とバランス感覚は青年の密かな自慢である。とはいえ、こんな不意のために鍛えたわけでもないのだが、と思いながら清太は足下を注視する。
それは、昏くどうにも粘ついていた。そして、家中から漏れ出る明かりから見てみれば、ほの赤いようでもある。そんなものが溜まっていて、続いていて、その元には。
「なっ!」
白い白い犬が、赤く赤く、濡れている。そんな光景が闇に沈んでいた。
赤いのは、当然のように血液だ。そして、それは彼か彼女かすら分からない彼女のーー存在すら知らなかったーー愛犬の喉元から零れていたようである。
そして、それは今やもう途絶えていて、それはつまり。
「うぇ」
やっとこれが獣の血の匂いだと知った清太は、えずく。足裏に不快を覚えて直ぐに血溜まりから彼は離れた。そして、死んだ毛の長い犬を遠目に、彼は遅まきに気付くのである。
番犬は殺された。なら、次は。
「美袋っ!」
先ほどからくすぶっていた心配は、もう瀑布のようになり清太を焦らせる。
だからこそ、地面を蹴る足は何時もより素早く、瞬時と言って良いほどの時間で玄関のドアに縋り付いた彼は、慌てながら扉を開けられた。
そして、明るさに開いた視界の先にあったものは。
「あ、清太君。こんばんわー」
「み、美袋……良かった」
それこそ、白の中にいつも通りの間の抜けた表情をした、愛すべき彼女であった。
制服のままの少女は何か用足しがあったのか片手にハサミを持って彼を出迎えてくれている。
青年の安堵の溜息が、その場に深く響いた。
「はぁ。大丈夫そうで……良く、はないか。あのさ、聞いてくれ美袋、そこで君の犬が……」
「ん? アレがどうかしたの?」
「アレ……いや、兎に角犬が死んで、多分殺されていて……」
「あらあら。それは怖いことだねぇ。アレは誰彼に殺されてしまう程に弱っちくなかった筈だけど」
「そう、なんだ。信じてられないかもしれないけれど、本当に、そこに血溜まりがあって……」
「ふふ」
「美袋?」
彼がいくら言い募っても届かない。少女はいつもの通りの笑顔である。わざとらしい、嘘みたいな満面であった。
そして、吉田美袋は当然のようにふざけていた。面白くて楽しくて、だから本気で目の前のばっちいを殺さずに弄す。美袋は人知れず手の中でハサミを遊ばせて、どちらにしようかなと思うのだった。
そして、そろそろおかしさに清太も気づき始める。
何かが変だ。犬が死んでいたのは、まず異常。そして、愛おしい筈の少女の不通っぷりも変で、そして。
どうして夜の家の中に普通にある筈の生活音が死んでいるのだろうか。
扉の音で家中はとっくに来客に気づいているはずなのに、物音一つしない。それはまるで。
やがて身じろぎ、蠕動。それすら許されないキリキリとした沈黙の中に飲まれた少年は言葉を発することなくしばらく少女の笑顔を見つめる。その内にそれが禍々しく思えてきた頃合いに、美袋は言った。
「ねえ、清太君。どうして美袋ちゃんが君を彼氏にしようと思ったと思う?」
「えっと、それは……」
清太は頭によぎった文句を口にしようとして、止める。美袋が告白してきた際に散々言っていた理由。曰く、君って可愛らしいから。
きっと、彼女にはそう見えたのかもしれない。けれども格好いいと異性に思って欲しいという男の見栄が清太にもあった。だから、それを口にするのは自認してしまうようで言えなくって。
でも、それが正しかった。
「うんうん私の言葉を鵜呑みにしてオウムのように返さなくって偉い! 清太君は美袋ちゃんなんかに騙されない賢いさんだったんだねー、良かった」
「え、と……」
手が届かない程度の距離で喜色を弾ませる、恋人だった筈の何か。少女の問いはとても意地悪で、最悪の答えが用意されていた。
そして、ごく自然に美袋の口は終わりを紡ぐ。
「そう、美袋ちゃんが君を気に入ったのは、可愛いじゃなくて、可哀想だから、でしたー!」
「は?」
ぴょん、と両手を広げて大の字に。そんな楽しさを全身で表現しながら、笑顔は先程と何ほど変わらぬままに、彼女は彼を心より見下げていたことを暴露する。
そう、好きであった。それは、自分より下であったから。自分なんかよりよほど楽しそうじゃなくってつまらなくって、だからこそどうにでもできそうだから、愛おしくなった。
そんな、少女の不純はしかしこれまで笑顔の奥にかくれていたのだろう、今更になって禍々しくも顕になっていく。
「頑張って、から回って無意味に汚れるハムスター。そんなの、かわいそうで可哀想で可愛そうで、大切にしてあげたくなっちゃったんだ。ばっちい全てから遠ざけてあげて、ね」
辛いなら、サボってしまえ。それは、女の思いやりなんかでは決してない。だた、それで汚れたらただただキモいから、やらせなかっただけ。全ては全て、自分のためで、清太の心なんてどうでも良かった。
「あは」
笑う笑う、嘲笑う。少女の面は正しくピエロの仮面。本心の全てを隠して世界から逃れるためのシャッター。だが、その奥に閉じこもっていた筈の少女は、果たして今どこに。
まるで、その子の全てはどうでも良かったとでも言うかのように、怪人は恋人だった彼に語るのだった。
震えによってその事実をようやく察した清太は心より恐れながら、問う。
「……君は、誰だ」
「お、清太君ったら鋭いねー。私が以前の美袋ちゃんじゃないっていうこと分かっちゃう? 素敵なことだねぇ。それはそれは、愚かな犬や下らない親よりも面白くって」
ああ、そこにあったのはいついかなる時から単色になっていたのか、あまりにそうあるのが自然であったから分からなかった。だが、それが今何より怖気を催すものであるのは分かる。
ばっちくぎい、と朱く染まったハサミは不純物を退けながら開く。そして、少女の口も再び開いた。
もう、恋は美袋という少女の死、ジャックの誕生により終焉した。そして愛がこぞって口にされるべきものであるならば、それは。
「犯してあげたくなっちゃう」
禁句だった。
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