第一話 雲天
吉田
そして、彼女にとって頑張るのなどわけないこと。嫌いからは目を背けて、好きには目を瞠る。見て見ぬ振りをすることで、大凡美袋の世界は美しかった。
くすんでいたって、光満ちてはいる。百点満点の答案以外をだって、大事にできた。そこそこに長く付き合っていた男子といざ別れたところで、心引き裂かれやしないのだ。
えいやっ、でもう気にしない。そんなルーチンにも慣れきっていた。
美袋はむしろ清々しさを感じながら、緑色したワイドパンツをせかせか動かす。そう、少女は止まりやしない。何しろ無知蒙昧な乙女にとって停止の赤は、理解不能の怖気でしかないから。
「ふんふーん。今日も美袋ちゃんの人生は順風満帆!」
吉田美袋は笑顔で元気を、独り吐き出す。そして雑踏の中、雑音は消えていく。そんなことにすら、どこか愉快げだと、努めて美袋は微笑むのだった。
髪の癖と格闘した際の朝の嫌気はどこへやら。上機嫌に、今にマルをつけて美袋は笑顔で久しぶりの独り歩きを楽しむ。
彼女は己を花と信じてやまない女子高生。世界平和にはほど遠く、未来のことを想像すらできない未熟であっても、しかし子供に満足は可能だった。
キレイの秘訣は明るいことで、かわいいの理由は楽しいから。美袋はそんな台詞を聞きかじった覚えを信じている。己の内に潜む暗がりなんて認めず朗らかに、ずっと。
少女は自分の靴の裏の染みになど見向きもせず。刃の危険を忘れて、ぶきっちょにハサミを繰る。そんな生きるための鈍感の隙間に。
赤信号。
「あれ、七恵?」
今日、魔が差した。
曇天を見上げることは、蠢きの斑を目に入れることである。
ひしめき合う水の相。決して満足でない光量を見上げながら、七恵はそれを評す。
「素敵」
そう、遠い無為がおどろおどろしさを見せることこそ、終わってしまった少女の好み。そういう意味で、今の七恵にとって人間よりも曇りの方が優れた観察対象だった。
流れる人々の点描の中で、紅一点。動くことも足掻くこともなければ、高橋七恵はひたすらに停まって見上げていた。
だがそんな静止しきった彼女は衆目集めて、埋没しない。どうでもいい全ての中で、少女はどうしようもなくて尖った危険物だったのだ。更には、七恵の顔にはグランギニョールな一夜の経験のせいであどけなさはすっかり消失して、美しさばかりが残っていた。
屍人の白が乗っかった肌は陶磁のようとみなされて、誰かの血が透けて覗いているばかりの頬の色は、何より愛らしい化粧。
そしてその造作は、人の一種の理想に到達しきって、終えてしまっていた。多くの器物の美を纏う、そんな七恵は人間離れした美と捉えられる。
こんなの、ただの人でなしでしかないというのに。
「七恵!」
だがそんなだからこそ、見違えた彼女を彼女が見逃すことなどあり得ない。
ふと見かけた遠くを追い掛けて、ようやく声が届くと確信出来る距離に至った美袋は、親しげに七恵に話しかけた。それが、独り言程度の意味しかないと知らず。
当たり前のように、七恵は美袋をその他大勢のひとつとしか認められなくて、首を傾げた。
「えっと、貴女……誰、だっけ?」
「えー、七恵ひっどい! 美袋ちゃんを忘れちゃったのー?」
しかし、美袋は己が汚れたズタ袋のようなものだと見られていることを知らず、冗談と解して笑う。そう、吉田美袋と高橋七恵は簡単には忘れられないくらいの印象をお互いに残した筈であるだろう旧友。
美袋は中学時代の、まだ逸していないただの女の子だった頃の七恵のイメージに引きずられながら、ユーモアを想像して勘違いするのだった。
「美袋……ああ、有袋類の」
「ピンポーン! 私は美しきカンガルーこと、美袋ちゃんでした! ぴょん、ぴょん」
そうして、名前の覚えからようやくこの世に視点を戻した七恵は、美袋の持ちネタを静かに認める。そして、その場でぴょんぴょん跳ねる下らないものを瞳に映して、七恵はただ惑わすためだけに、笑顔を偽った。
そうして人でなしはまるで当たり前のように、嘘を返すのである。
「吉田さん、変わらないね」
「そう言う七恵さんは随分美人さんになったねぇ。お姉さんちょっとジェラシーだよー」
のんびり柔らかを努めて、そんな冗句。しかしふざけているが、自分の美に九十点を点けていた美袋は、笑顔でいながらも百点満点の登場に言葉の通りに羨ましいと、心から思っていた。
けれども美醜なんて皮膜ひとつで変わるものに価値を見出すことなんて出来ない七恵は、ただその言葉を飲み込み、素直に目に映る疑問を呈すのである。
「ありがとう。……あ、今気づいたけど、髪型変えたんだ」
「七恵ったらお目が高ーい! そうこの美袋ちゃんのお下げ髪はなんと……」
「なんと?」
「三つ編みになっております!」
「ふふ、見たとおりだね」
そうして、ふうわりと、笑みを偽り続ける七恵に、美袋はすっかり気を良くする。以前にあったと思い込んでいる友情が、今も繋がっているという勘違い。しかしそれを本気にして、少女は健気な一人舞台を続けるのだった。
「にしても、どうしたのさ、こんなとこで七恵ちゃんともあろう方がぼっちさんしてさ。何、ナンパ待ちでもしてた?」
「ううん。ただ、空を見てたの」
「あらー、新たな観天望気でも見つけようとしてたのかなー、この子は。それで、今日の曇り空は七恵的には何点かな?」
「零点」
「んー? その心は?」
「零点で満点」
「なるほどー減点方式での満点だったかー! こりゃ美袋ちゃんやられたぜぃ」
広めな富士額をぺちり。美袋は七恵の前でおどける。その無意味さを知らずにただ、友達に喜んでほしくて。
全てに等しく無意味な零点満点をつけ続ける七恵は、笑みを深めながら言う。機微も弁えず鋭く真っ直ぐ、それこそ傷を付けるために。
「そう言えば吉田さんって、斎藤くんとはどうなったの?」
「うぐっ、俊君とのことですかい?」
「うん」
頷くかけがえなさそうなどうしようもないを前に、オーバーリアクションをしながら美袋は内心げっそりする。
恋は闇、痘痕は笑窪。顔立ちと運動能力ばかりを気にして中学時代熱を上げていた男子のことを今更に出され、美袋は苦笑しながら伝える。
「まー、彼とはご縁がなかった、ということですな。今、俊君はサッカーボールとお付き合いをしているようで……」
「そっか。だから吉田さん、違う男の子と付き合ってたんだね」
「うぇい?」
そして、己を見通しているかのような七恵の言葉に、美袋は驚く。珍妙な声が、ガードレールにもたれ掛かっている美袋の唇から漏れた。
いや、自分が前カレと仲良くしていたところをこの子は見たのだろうか。それとも、何か今までの自分の言動に察されるような部分があったのだろうか。不明に混乱する美袋。
しかし、そんな内心を一笑に付し、七恵は静かに答えるのだった。
「ふふ。人の噂も七十五日。結構生きてはいるよね」
「えっと?」
「単に、人に聞いてただけ」
「あー、なーんだ! そっかぁ……別に私がカレと付き合ってたのはトップシークレットでもなんでもないもんねぇ……」
うんうん頭を上下させて、美袋は七恵の言に理解を示す。そして、彼女は私の交際も七恵に届くまで轟いてたか、人気者だね私、と思うのだった。
「ふふ」
勿論、人を同等の葦としか思っていない七恵に、他人の色恋沙汰など覚えるに値しないし、そもそも聞こえない。しかし、それを察する程度の眼は彼女にあった。
少女の曇りの原因を覗いて、揺れる内心をまずまず愛らしいと取りながら、七恵は笑うのである。
そして。
「いい人、紹介しようか?」
いたずらに七恵は少女を地獄に引きずり込もうとして。
「え? マジですかい?」
嘘の乗り気を見せる美袋のその手を冷たい指先が包もうとした、そんな時に。
「止めなさい」
鈴を転がしたような、そんな子供の静止の声が響いた。
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