第9話 まだ赦したわけでは
やっとの思いで橋の中腹に辿りついたアデリナは、建物を間近で見るなり驚いた。
遠目から白っぽく見えていた壁は、全面が磨りガラスでできていたのだ。
扉も同じくガラス製で、取っ手だけが金属でできている。
「中へどうぞ」
鍵はついておらず、ディートガルドは紳士が淑女にそうするように、扉を開けて中へ促す。
淑女のように扱われるのなんてほとんど初めての経験だ。不慣れなエスコートに少しむず痒い思いをしながら、そっと室内を覗き込んで更に驚いた。
建物の中にはたくさんの木や草花が生い茂っており、アデリナにとっては非常に馴染みのある、爽やかな芳香に満ちていたのだ。
苦味を含んだ若く青々しい香り。鼻をつくような清涼感に、清潔な甘やかさ。心落ち着く薬草の香りだ。
「ここ――薬草園ですか!?」
思わず声が弾んでしまったのも無理もない。
エルフリーデに仕える前は毎日のように薬草の世話をしていたのに、王宮の花壇に植えられているのはほとんどが香りのない鑑賞向きの花々ばかり。
薬草として使われる花の殆どは匂いが強く、鼻の利く王族の住まう宮には似つかわしくないということなのだろう。
さまざまな薬草と土、花の芳香が混じり合った空気は本当に久しぶりで、懐かしさに自然と心が弾む。
しかも温室に植えられているのは、ラベンダーやレモンバーム、セージにミントといった馴染み深い薬草ばかりだけではなかった。
「わぁ……わぁぁ……! これってもしかして、ルートベリー? こっちは狐火花と、花鈴草の苗! それから……あの白い花は白露草かしら」
書物でしか見たことのない珍しい薬草や、書物ですら見たことのない未知の草花。どこもかしこも見応えのある光景に、すぐ側にディートガルドがいるのも忘れ、つい歓喜の声をあげてしまう。
(修道院の薬草園にも、こんなに沢山の薬草は植えられていなかったわ)
外から見るととても小さな建物に見えたが、中に入ってみると中々の広さがあった。
部屋はいくつかにわかれており、それぞれ異なる室温に保たれている。土の種類や空気の湿度も違い、どうやら植物にとって最もよい生育環境が整えられているようだ。
いずれの植物も、花や葉、実に至るまで、すくすくと最良の状態に育っている。
見上げれば、天井だけは磨りガラスでなく透明のガラスが使われており、陽光が燦々と降り注いでいる。魔道具で室温を調整できる今の時代、全面ガラス張りという温室は滅多にお目にかかれない代物だ。
「――気に入ってもらえただろうか」
目を輝かせ、我を忘れて温室内の光景に見入っていたアデリナは、背後からかけられたその言葉で、ようやくディートガルドの存在を思い出した。
彼がアデリナに向ける目はまるで、新しい玩具を手にした子供を見守るそれだ。
人目も忘れてはしゃいでいた自分が恥ずかしくなり、慌てて平静を装ってはみたものの、ディートガルドにはお見通しだろう。
「城の研究棟から、いくつか薬草の株やら木の苗をわけてもらって育てたんだ」
「これを、殿下が全部おひとりで?」
「ああ。といっても、ほとんど魔法に頼ってしまったのだが」
「そんな……素晴らしいです。薬草たちもこんなに色艶がよくて、きっと殿下がお心を込めて育てたおかげですわ」
彼は謙遜してみせるが、アデリナには一目見るだけで、ここの植物がどれほど丹精込めて育てられたかよくわかる。
昔から植物と触れ合うことが多かったせいだろうか。気持ちがわかると言ったら大げさかもしれないが、目の前の草花が日光を浴びたがっているとか水を欲しがっているとか、そういうことが自然と伝わってくるのだ。
叔父たちにはただの思い込みだとよく苦笑されたものだが、アデリナはそれを自分の密かな特技だと思っている。
そして今、目の前に群生している草花からは、満ち足りた喜びのようなものが感じられた。
ここまでの薬草園を作るとなると、相当の時間と労力を要したことだろう。多忙の身でありながら、よくぞここまでと感心する。
「よかった。君のために用意した温室だから、これからは自由に使ってくれると嬉しい」
「えっ!? ここにある薬草、全部わたしの物にしていいんですか?」
冷めやらない興奮を更に煽るようなことを言われ、驚きのあまりいつもよりやや砕けた口調が出てしまった。
なるほど、今度はこの温室が贈り物というわけだ。城や土地ではないかと聞いた時、ディートガルドが微妙な態度を取っていたことにようやく合点がいく。
「ああ、もちろん。カタレウナ修道院にいる大叔母から聞いているが、君は香水を作るのが好きなんだろう? それに、調薬の腕前も確かだとか。奥には作業部屋も用意しているし、よかったら女官の仕事の合間にでも、この場所を自由に使って――」
「嬉しい! 殿下、ありがとうございます!」
絶対に受け取らないという決意もどこへやら、気付けばディートガルドの言葉を遮るように礼を口にしながら、彼の両手を掴んでぶんぶん振り回していた。
院長が自分の知らないところで調薬の腕を保証してくれたのも嬉しかったが、何より、自分の薬草園を持つのはアデリナの昔からの夢だった。
「これだけの薬草があれば、どんな薬も香水も作り放題……。最高です」
もはや何を贈られても絶対に断るという大前提は、どこか彼方へ吹き飛んでしまい、ただただ喜びだけが胸を支配している。
濃淡入り交じったさまざまな緑色は、これまでディートガルドが持ってきたどんな価値ある物より輝いて見え、ついうっとりしてしまった。
「アデリナ、その、手、手を……」
言いにくそうに告げたディートガルドの視線の先を辿り、そこで初めて、アデリナは自分が彼の手を握っていたことに気付いた。
手袋越しとはいえ男性の手に触れるなど、なんて不敬な真似をしてしまったのだろう。
確かに、これでは叔父たちから薬草馬鹿と呼ばれるわけだ。ただし薬草馬鹿でも、娘らしい情緒がまったく育っていないわけではない。
婚約者でもない相手との不適切な距離に多少の羞恥を覚えるくらいには、アデリナは年頃の娘だった。
「もっ、申し訳ございません。その、薬草のことになると、つい見境がなくなってしまって……!」
そう、見境がなくなった結果、うっかり大喜びしてしまった。
呆れられるかと思ったが、ディートガルドは終始笑顔を崩さない。
「熱中できるものがあるのはいいことだ。贈り物を気に入ってもらえたようでよかった」
「ま、まだ赦したわけではありませんけれど!」
「ああ、わかっている」
頑なな物言いにも苛立った様子を見せず鷹揚に頷く態度は、余裕のある大人のそれだ。
結局は物で釣れる浅はかな小娘。この程度ではしゃぐなんて――。そう思われたくなくて取った無駄に意地っ張りな態度が、逆に自分の子供っぽさを強調してしまった気がする。
けれど物で釣れる上に生意気なだけの小娘にはなりたくなくて、アデリナは小さく感謝の言葉を付け足した。
「……でも、これは本当に嬉しいです。ありがとうございます」
「いいんだ。受け取っても赦す必要はないと言っただろう」
決して可愛くはない態度だったはずなのに、彼がなぜか金色の目を細めて嬉しそうに笑うものだから、アデリナは更に居心地の悪い思いに陥ったのだった。
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