第3話 王

 アンジェリーナが眼帯をするようになったのは理由がある。


「……まさか、あの時、転んだせいで……?」


「否。我の魔王たる魂の輝きが、目からあふれてしまったものでな」


 各人の持って生まれた魔法属性は、瞳の色として現れる。

 アンジェリーナはもともと鮮血のような赤い瞳━━すなわち炎の属性をもって生まれた。


 ところが、魔王の記憶が目覚めてしばらく経ったころ、片方の目が漆黒へと染まっていったのだ。


 黒は闇属性を示す色だ。


 もっとも、魔王は己が魔王であることを隠すつもりがない。

 だからなんの問題もなければ、眼帯などで己の魂の輝きの色である『黒』を伏せたりなどしないのだが……


 魔王の強すぎる力は、ただ色として瞳に現れただけで、魔眼となってしまったのだ。


 具体的には闇属性の初歩魔法である催眠ヒュプノが漏れていて、見つめられた相手が大変眠くなるという弊害へいがいが出てしまった。


 そこで魔眼封じとして眼帯をつけることになったのだ。


 正直に話したところ、両親も「うんうん、なるほどね。いいと思うよ。格好いいよね、眼帯」と同意してくれた。

 やはり持つべきものは理解ある近縁者きんえんしゃだと魔王は思う。


「それは、その……本当に話に聞いていた通りなんだね」


 本日、王子がアンジェリーナの家を訪問した理由は明確にされていない。


 これまで『絶対安静』だった(実際にはそこまでひどい症状はなかったが、両親がおかしくなった娘に人を近付けないためにそういうことにしていたのだ)『未来の妻』の体調がある程度持ち直したので、慰安のための訪問をした━━というのが表向きの、王子の訪問理由だ。


 だが、その用件は顔を合わせて数秒で終わってしまった。

 それでもなおこうして話を続けているのだから、『本当の用件』があるのだろうというのは、想像にかたくない。


 今はアンジェリーナの家にある大きな庭園で、二人きりで散歩をして、間をもたせるための会話などしているところであった。

 ……『二人きり』とは言うが、王子の連れてきたお付きの者たちと、アンジェリーナの家の者たちが遠巻きにこちらを見ているので、さほど『二人きり』感はない。


 色とりどりの花が並ぶ庭園を、互いのあいだに壁でもあるかのような会話をしながら歩いていると、庭にある池のほとりにたどりついた。

 そこには一そうの白いボートがある。


 それに気付いた王子が、アンジェリーナにボートを指し示し、


「どうかな?」


 と、問いかけた。


 ……こういった池やボートは、広大な敷地を持つ貴族が庭の景観のために設置したものではあるが。

 一方で、どこにいても従者の耳目にさらされている貴人が『従者の目のとどくところで内緒話をする』ためのものでもある。

 庭園の中の池というのは、そのほとりより内側に他者を立ち入らせないために用意されたシチュエーションでもあるのだ。


 王子とてそれを理解していないはずもなく、ようするにこれは、『こっそり話したいことがあります』という意味なのだろう。


 アンジェリーナは扇子せんすで口もとを隠しながら、長い銀髪が揺れないような小さな動作でうなずいて見せた。


 王子は承諾されたのを確認すると、先にボートに乗り込み、アンジェリーナに手を差し出す。


 その手をとって、アンジェリーナは思った。


(『男の手』になっている)


 幼いころのアンジェリーナは王子を自分の所有物とみなしていたものだから、ぬいぐるみでも連れ歩くかのように、王子の手を引っ張ってどこにでも行った。


 しかし十歳をすぎるころになるとレディとしてのたしなみを求められるようになり、男性の手を握るなどということもなくなった。


 だから、アンジェリーナの中に残っている王子の手は、幼い子供のものだった。


 それが、まだまだ細く、弱いとはいえ、きちんと男の手になっている。


 女性を思わせる線の細い美貌。さらさらの金髪と穏やかで理知的な青い瞳を持つ優男は、たしかに成長して男性へと変じているのだ。


(これが、『異性を意識する』ということ━━!)


 魔王としてのアンジェリーナは、高笑いが飛び出そうになるのを必死にこらえていた。


 この数日で魔王としての自分とアンジェリーナとしての自分は混ざり合い、すっかり同一のものとなっている。


 だから、ここでいきなり笑い出すのがレディとしてよろしくない振る舞いなのは、わかっている。


 とはいえ、アンジェリーナとしての振る舞いが過ぎれば、それは以前までと同様に『人にうざったがられ、高飛車だと嫌われ、内心ではうとんじられる、家格だけは高い、面倒くさい人物』となってしまうので、どれだけ魔王として人に好かれる面を出していけるかは、探り探りではあるが……


 ともあれ、笑いをこらえて、アンジェリーナはボートに乗り込んだ。


 二人乗ればもういっぱいという小舟は、アンジェリーナの重さが加わっただけで激しく揺れる。


 特に鍛錬もしていない十四歳の少女の体幹ではバランスをたもつのが難しく、アンジェリーナは長いスカートの裾を踏まないようにしたのもあり、ボートから落ちそうになってしまう。


 遠巻きにこちらを見る使用人たちがざわめくような気配があったが……


 アンジェリーナは、ボートから落ちる前に、王子に支えられた。


「おっと。大丈夫ですか?」


 ドレスとコルセット越しに腰を抱きとめられ、頭を抱かれる。


 王子の顔が近づく。……なんて睫毛まつげの長い、美しい面立ちだろう。


(ククククク……! よもや、この我が、十四の男を相手に、こうまで胸を高鳴らせるとはな)


 自分の状態が自分で面白くて、つい、口角が上がってしまう。


「どうしました?」


 眼帯に隠れていない方の目に映った王子は、ひどく不安そうだった。


 アンジェリーナは体のバランスを整えながら、「いや」といったん首を振ってから、


「……そうだな。我は、長き暗闇の中にあった」


「は、はあ」


「人と人との交わり。これの一切を認めず排斥はいせきするほどには狭量きょうりょうではない。けれど、理解及ばぬことは事実であった。そも、我が前世は『魔王』なれば……力がすべてを支配する魔界にて君臨する立場なればこそ、思いだの、交わりだの、そのようなものは権謀術数けんぼうじゅっすうの中に組み込まれし偽りなるものという認識であったのだ」


 その権謀術数は、魔族のものではなく、人類のものではあったが……

 戦争をしていたのだ。当然ながら、人類側にもぐりこませた者もあった。

 そういうスパイ活動において、魔族の前に立ち塞がり続けたのが、『交わり』だの『思い』だのという、世の中を複雑怪奇ふくざつかいきにせしめんとする概念だった。


 ……そういう認識でしか、なかったのだけれど。


「……なるほど。どうして。人が短い一生を懸けるに足る熱量があるやもしれんな」


 そう述べて、ボートの上に腰を下ろす。


 すると王子は優しい━━優しすぎる笑みを浮かべて、


「わかりますよ」


「ふむ」


「……僕もね、憧れないわけではないんです。『前世』とか『魔王』とか。そういう特別なものが自分にあって、自分は優れているのだと思い込みたい気持ちはあるんですよ。だから、あなたのその感じ・・・・も、まったく理解できないわけではない」


 王子がオールを手にして、ボートを漕ぎ出していく。


 しばし、無言のままボートは池の中央に向かって進んでいった。


 ……そうして、池の真ん中で止まり、王子はまだ、無言を貫いている。


 だから、アンジェリーナが、口を開いた。


「……そも、王子よ。貴様は王族ではないか。人類の未来を先導し差配さはいする者だ。生まれついての『特別』であろうに。前世などに思いをせる必要性はないものと断ずるに躊躇ちゅうちょはなかろう」


「僕には優秀な兄がいて、その兄と僕は、どうやら将来の王権を賭けて競い合わねばならぬ間柄のようなのです」


「……」


「ただ、それは周囲がそのように言っているだけで、僕としては、王権を担おうというつもりは、ないんです。そもそも、第二王子ですからね。兄に道を譲るのが、通例としても、自然でしょう。ただ、僕を擁立ようりつすることで、得をする大人がいて、その人たちが騒いでいるだけなんです。その人たちに『兄より優秀な自分』を見せることを、ずっと、押し付けられているんですよ。……いい加減に、疲れてしまいました」


「……して、なにが言いたい?」


「君は王妃を夢見ているようですけれど、僕と結婚をしても、王妃にはなれません。僕は、王位継承権を放棄します」


 王妃を夢見ている━━


 そういえば、アンジェリーナはそのようなことを考えていた。


 ただ、それは『夢を見ている』以前の段階であり、『自分が結婚する相手は、当然、未来で王になるのだ』というただの思い込みでしかなかった。


 言葉の端々からそういった『前提』がうかがうのを、王子はしっかりと読み取っていたのだろう━━と思ったが。


「君の誕生日会で、君は、僕を王になるのが当然であるかのように扱った。それが僕には重荷なんです」


「…………我の発言のせいであったか」


 たしかに思い返せば、目の前の第二王子が将来的に王になるものという前提で話をした気がする。

 アンジェリーナの『前提』が、無意識に発言に出ていたようだ。


 この若き王族の悩みの突端は━━長年抱えていたであろう苦悩をこうして噴出させた原因は、どうにも、アンジェリーナではない方の自分らしい。


 ならば、若者を導くのも先達の役目だと、魔王は考えた。


「オーギュスト王子━━いや、オーギュストよ」


「……君に名前で呼ばれるのは、珍しいですね」


「友として、先達として告げよう。貴様は王というものになりたくない、王家というのがしがらみであると感じているようだが……人は、生まれ落ちた時に持っていた立場からは、そうそう逃れられぬものだ」


「……」


「ゆえに、立ち向かえ」


「……え?」


「背を向けるな。正面から切り拓くのだ。貴様が王になりたくはないと望み、しかし周囲がそれを許さぬのならば、一度、王になるべきだ」


「……」


「そして、捨てろ」


「……それは、その……王位を、ですか?」


「そうだ。貴様のおかれている環境において、もっとも発言力があり、もっとも自由に環境を差配できる者こそは、王であろう。ならば、王となれ。王が王を捨てると決断したならば、意を唱える者も封殺できよう。そのあとでも人生を始めるには遅くない」


「あなたは、王位を捨てるというのが、どういうことか、わかっていない」


「わかっている。それは、貴様という存在が、王という器にはおさまりきらなかったということだ」


「……」


「貴様を縛り付ける立場から脱却せんと望むのに、逃亡を選んでどうする。正面から打ち破れ。そも、人類には、己では及ばぬと思われる強大な敵に対してさえ、命懸けで挑みこれを打ち破る力が秘められている」


「僕はそこまで、自分を買い被ってはいない」


「友よ。これまでの半生、さんざん迷惑をかけ、貴様を縛りつけ続けた非礼、まずは詫びよう」


「あ、え? は、はあ」


「その埋め合わせと言ってはなんだが、貴様が王位を得て、その後、王位を捨て、そうして己の人生を始めようという時に、手伝おうではないか」


「それは」


「無論、友として」


「……」


「理解者を募れ。仲間を増やせ。一人で抱え込むな。人は、連携してこそ力を発揮するであろう。貴様には王器おうきがある。だが、王器はなにも、王としてやっていくためだけにしか使ってはいけないものではないぞ。貴様の才覚は貴様が自由に活かせ。気を遣わず夢を叶えるのだ」


「……君は王妃になって贅沢な暮らしをするのが目的ではなかったんですか?」


「王権など、欲しければ己の力でる」


「……」


「我は、ただ……」


 ……客観的な視点を獲得したからわかる。

 アンジェリーナからオーギュスト王子に向けられた想いは、恋や愛ではなかった。


 今。


 アンジェリーナとして王子と過ごした時間を思い返して、決定的な別れを告げようとしている今、この時に━━

 胸に去来する喪失感。

 自分から手放そうとしているものに追いすがりたくなるこの感覚。


 それが、失恋なのだろうと、思った。


 恋をしていなかったけれど、思い返せばそれは『恋』以外に言いようがなかったという━━

 そういう苦みを、アンジェリーナは覚えた。


 だから、笑った。

 少女らしく笑って。


「貴様の力になりたいのだ。隣に立ちたいとは言わぬ。貴様は貴様の人生を、貴様の力と意思で選び取れ。我はただ、それの助けになることができれば、幸福なのだ」


 王子は、綺麗な顔をくしゃりとゆがませた。


「……僕はね、こうして、二人きりの船上で、君に、改めて婚約破棄を切り出そうと思って来たんですよ」


「わかっている。それで、構わん」


「君、おかしくなったんですね。いや。もしかして、そちらが、君の本当の姿なんですか?」


「『本当の姿』などあるものか。我は魔王にして、貴族令嬢のアンジェリーナ。どちらも我自身だ」


 すると王子は顔を覆う。


 ……長く、長く長く沈黙があった。


 夕暮れが迫り、湖面をぜる風が冷たくなり始めてきたころ━━


「婚約破棄は、取りやめさせてください」


 王子は、言った。


 令嬢は首をかしげた。


「なぜ?」


「……ころころと意見を変えて、情けないと思われるかもしれませんが……もう少し、君の隣で生きてみたくなったんです」


「……」


「これが『視点を獲得する』っていうこと、なんでしょうか?」


 顔を隠す手をどけた王子は、いつもの如才じょさいない笑顔を浮かべていた。


 アンジェリーナはうなずき、


ゆるす。我が隣で世界を見るいとまを授けよう」


 その物言いに王子は思わず吹き出し、


「なんだか本当に、君の方が王族みたいですね」


「本当に魔王だもん」


「……わかっていますよ。もっと、理解していけるように、精進します。我が魔王」


 冗談めかして、大げさに、船上で可能な限りの、臣下の礼をしてみせた。

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